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 執務室に異様な空気が流れる。リアもグラミスも、状況を飲み込めず混乱していた。そんな中、最初に口を開いたのは、アレクシスだった。

「もっと早く、挨拶に伺いたいと思っていましたが、こうして八年も掛かってしまいました」

「私は貴方によく似た青年を知っている。一体、どういうことですかな王子殿下」

 グラミスは一番気になることを真っ先に口にした。その声音には憤りが含まれていた。

 しかしアレクシスの表情は一切変わることなく、冷静なままだった。

「私は貴方を知るために、王命を授かりこの屋敷に来たのです」

「身分を偽ってですか」

 グラミスの声が一段低くなる。張り詰めた空気にリアは知らず手を固く握っていた。

「グラミス卿、貴方は急速な工業化によって荒廃してゆく我が国土と民の命を守った救世主のような存在です。貴方の土壌改善システムと作物の品種改良技術がなければ、より多くの者達が命を落としていたでしょう。だからこそ、陛下はその功績を讃え、異例ではあるものの平民出の貴方に侯爵の地位を授けました。しかし」

「しかしなんだと言うのです」

 アレクシスの言葉が途切れると、グラミスはすかさず口を挟んだ。アレクシスは一瞬、リアの方へと目を向けた。それはどこか彼女を気遣うような、窺うような視線だった。

「貴方は、技術を独占した。そして法外な額でそれを売りつけた。多くの者達を蹴落とし、貶めることになっても貴方はそれをやめなかった。財政難に陥っていた国には貴方のその技術を買い取る術はなかった。そして貴方は遂に、一人娘のコーディリアと私との婚約を持ち掛けた。これが成立すれば、王家は貴方との距離が一気に縮まることなる」

 そう、それこそが父の狙いだった。リアは闇を抱えた父の所業を改めて聞くことで、胸が痛んだ。だがリアはそれから目を背けることはできない。

「正直に申し上げて、意見は割れました。この婚約は王家にとってもメリットは大きい。貴方の方から財政援助と技術提供を受けることが可能ですから。しかしそれ以上に我々はリスクを恐れました。貴方は野心があり過ぎる」

 アレクシスは冷ややかにグラミスを見据えた。

「なるほど、婚姻を渋っていたのは、コーディリアの体ではなく、私が原因だったというわけですか」

 グラミスは射抜くような視線を受けながら不服そうに鼻を鳴らした。

「それで、結果はどうなんです?それが出たから今日こちらにいらしたのでしょう」

「ええ、その通りです」

 アレクシスは言葉と同時に右手を上げた。すると後ろに控えていた従者の一人が、一枚の書状をを手渡した。アレクシスはそれをグラミスのいる執務机の上に広げた。

「ここに署名を」

 従者はグラミスの方へ、インク壺と羽根ペンを乗せたトレーを差し出した。リアの立ち位置からも見える。上質なその紙には結婚同意書と書かれていた。

 リアは驚愕した。居ても立っても居られずに、声を上げようとした。本当にこれでいいのか。いいや、そんな筈はないのだと。しかし、アレクシスはそんなリアを目で制した。二人の視線が交差する。リアの脳裏に昨日のルドガーの言葉が浮かぶ。

 ー何も心配することはない。僕を信じて。

 リアは口を噤んだ。

「ふ、ふふふ、ふははははっ。なるほど、王室はこの私を飼うことにしたのですか。賢明な判断だ」

 グラミスは躊躇せず、自らの名を親族欄に書き連ねた。

「ありがとうございます、グラミス卿」

 アレクシスは書状を受け取ると、満足げに言った。

「その上で私、アレクシス=トルファ=ウェンザードは、王位継承権を放棄、第二王位継承者、エルバート=トルファ=ウェンザードにこれを譲渡し、ウェンザードの名を王国に返還する」

 アレクシスは突如としてそう宣言した。

「なん、だと……?」

 グラミスの顔から笑みが消える。

「この件は既に陛下に承諾を受け、弟にも理解を受けています」

 アレクシスはもはや、次期国王でも王族でもない。つまり今しがたグラミスが署名した書状は、()()()アレクシスと娘との結婚同意書になる。二人が結ばれたところで、グラミスが王家の縁戚になることはない。

 グラミスの体が怒りで震える。

「謀ったな、小僧……!」

 それは地の底から聞こえる呪詛のような声だった。

 アレクシスはリアの手を取り言った。

「貴方のように欲深い人間を王家に連ねるわけにはいかない。しかし、リアをこのまま貴方の元に置いておく気もありません。僕はもっと早く、決断すべきだった」

 空気が、言葉が、声が、第一王子アレクシスから、リアのよく知るルドガーへと変わった。

「ルドガー……」

「ごめん、リア。本当の名前はアレクシスなんだ」

 リアの呟きにアレクシスは困った風に微笑んだ。

「本当はグラミス侯爵の調査は他の者が担当することになっていたんだ。でも病弱だという君のことが気になって、僕は陛下に頼んで自ら調査をすることにした。そして僕は君と出会った。医療助手のルドガーとして」

「じゃあ、最初に私を診てくれた先生は」

「彼は王宮医師団の人間だ。いざという時の護衛も兼ねていたよ。街で彼の腕の良さを喧伝して、グラミス侯爵の目に止まるよう仕向けたんだ」

「私はそれにまんまと引っかかり、屋敷に監査官を招き入れていたというわけか」

 ギリギリという歯軋りの後、グラミスは忌々しげに吐き捨てた。忿怒の形相で睨みつけてくるグラミスに怖気付くこともなく、アレクシスはなおもリアへと語りかけた。

「リア。一目見た瞬間から、僕は君に惹かれていたんだと思う。いつも悲しげで所在無げにしている君が時々見せてくれる笑顔が好きだった。元気になってほしいと思った。守りたいと思った。だから僕は医療を学んだんだ。だけど、僕は君を苦しめ追い詰めた。本当にすまないと思ってる……」

 そう謝ったアレクシスの表情は、苦しげに歪んでいた。ルドガーは気付けなかった。リアが自分に寄せる好意を。ただ元気でいてほしくて彼女の治療に専念した。

「体調が回復すればするほど、君の表情はそれに比例して暗くなっていった。君に心境を訊ねたとき、王子なんて嫌いだと言われた時は、本当にその通りだと思った。君の感情を後回しにして、自分の自己満足に浸る嫌な奴だよ。僕は君に正体を告げるのが怖かった」

 その時強く、リアを騙していたことに引け目を感じた。ルドガーとリアの八年間の関係が壊れるのが怖かった。

「結論を先延ばしにすることで、僕は君が服毒するまで追い詰めたんだ」

 延々と懺悔を告げるアレクシスに、リアは堪らず飛びついた。名前は違っても、この人はリアの愛した人だった。

「……君のルドガーへの想いを聞いた瞬間、僕は心底自分が嫌になった。後悔と悲しみの中で、君に想われていたことを喜ぶ自分がいたことを。リア、僕は君にどんなに謝っても謝りきれない……」

「謝る必要なんてない。だから、自分のことを嫌ったりしないで」

 八年という時を共に過ごしてきたけれど、お互いに多くの秘密を抱えていた。どちらが正しいわけでも、間違っているわけでもない。

「だからもう謝らないで。私ももう、謝るのはやめるから」

 アレクシスの顔が泣きそうに歪む。けれどそれも一瞬のことで、すぐに優しげな笑顔をリアに向けた。リアのよく知っている、大好きな光のように温かな笑顔。

「リア、もう一度聞かせてほしい。何もないただのアレクシスでも、君は一緒に生きてくれる?」

「私の中に、はい以外の答えはないわ」

 リアは迷うことなく答えた。アレクシスの青い瞳にリアの笑顔が映る。それは二人一緒に見た、白いアザレアと重なった。

 しかし温かな空気も長くは続かず、底冷えするような無慈悲な声が場を塗り替えた。


「ーー殺せ」

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