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 月明かりの差し込める自室で、リアは一人今日あった出来事を思い出していた。

 ー待っていてほしい。必ず君を迎えに行くから。何も心配することはない。僕を信じて。

 ルドガーの言葉を思い出すと、胸に温かいものが広がる。

 本当は想いを口にするつもりなどなかった。ルドガーは優しいから、リアのことを好きでなくても、自分の人生を手渡してしまうかもしれなかったから。彼を縛るような人間にはなりたくなかった。けれどもあの時見た彼の目に、嘘偽りはないように思われた。

 リアはあの時重なった唇に手を当てた。

 今リアにできるのは、ルドガーの言葉を信じて待つだけだった。


*****


 太陽が天高く昇る頃、リアは如雨露を手に持っていつものように外へ出た。直に陽射しを浴びないように帽子ももちろん忘れない。

 屋敷の庭に植えられた白いアザレアに、リアは今朝も水遣りをした。不純な動機で育て始めたこの花をリアは初めて心から美しいと思えた。周りでは蜂の他にも色彩豊かな蝶が踊っている。

 もう毒を口にしようとは思わない。蜂も養蜂家に返してこよう。リアはそう決意した。

「お嬢様、こちらにいらしたのですね」

 声の方に振り向くと、そこには息を切らせた侍女が立っていた。先ほどからなんとなく屋敷の中が騒がしい気がしていたが、どうやらリアを探し回っていたらしい。

「どうかしたの?」

「はい、旦那様がお待ちです。すみやかに執務室へお願いします」

「……お父様が?」

 リアは怪訝な顔をした。グラミスがリアを呼びつけることなど滅多にない。用事があるならそれは、リアの体調のことだろう。彼女が健康でないと、彼は困るのだから。

「お嬢様」

 侍女がリアに向かって微笑む。機嫌良く、嬉しそうに。

「おめでとうございます」

 リアの心臓が嫌な音を立てた。そのたった一言が絶望的に感じた。彼女は何を祝っているのだろう。誕生日?体調が回復したこと?そうじゃない。リアは丈の長いスカートをたくし上げて駆け出した。

 父はなんの用事があるのだろう。きっと大したことじゃないはずだ。屋敷の中に滑りこむと、すれ違う者が皆一様にリアに向かって祝いの言葉と賛辞を送った。

 やめて。聞きたくない。聞きたくないっ。

 誰も今にも泣き出しそうなリアの表情に気がつかない。リアの想いを窺い知ることもできない。

「お父様っ!!」

 リアは勢いよく父の執務室へと飛び込んだ。

「コーディリア。ノックぐらいしたらどうなんだ」

 グラミスは眉をひそめて娘の無作法をたしなめた。しかしいつもよりどこか機嫌がよく見えた。リアの嫌な予感は増していった。

「私を、お呼びだと聞きました」

 リアは父の座る執務机の前まで来ると、険しい顔で言った。

「今朝、王宮から書状が届いた。第一王子アレクシスが我が屋敷に伺うと。どういう意味かは分かるな」

 リアの顔がすっと青ざめる。なぜ今更、出て来るのか。今まで散々放っておいたというのに。

 外から馬の蹄と車輪の音が聞こえて来る。リアはまるで死刑宣告を受けた罪人のように、顔色を失った。

「よくもまぁ。八年も待たせてくれたものだ。これでやっと私は王妃の父として、王政に進出することができるというものだ」

 グラミスは口の端を歪めて笑った。絶望の中でリアは感じた。本当に父は変わり果ててしまったのだと。優しかった頃の父を知るリアには、その変貌は悪魔に取り憑かれたようにも感じられた。

「旦那様、アレクシス殿下がご到着なさいました」

「お通ししろ」

 複数人の足音が近づいてくる。リアは底なしの沼にはまってしまったように、動けなくなってしまった。

 そして遂に部屋の前で足音は止まった。使用人がゆっくりと、扉を開く。その時間がリアには永遠のように感じられた。

 ああ、ルドガー……。私は……。

 リアは一度瞑ろうとした目を、自らを叱咤し開いた。

 正装をした男を筆頭に、四人の男が部屋の中に入ってきた。緑を基調とした衣装を着こなした痩躯の男。恐らく彼が、第一王子アレクシスだろう。頭にかぶった上品なケピのせいで顔はよく見えない。しかし彼が部屋に入って来ただけで、その場の空気が変わった。

「お初にお目にかかります、ロード・グラミス。レディ・コーディリア」

 それは凛とした力強い声だった。リアは思った。彼と自分達の間にある、埋めようのない差を。同じ人間でありながら、彼は纏う空気が違った。静謐で、荘厳で、偉大なるこの国の王族だ。

「ウェンザード王国第一王子、アレクシス=トルファ=ウェンザードと申します」

 アレクシス王子は帽子を取ると、綺麗に三十度の礼をした。美しい王太子を前にリアとグラミス、そして屋敷の使用人達の目が見開かれる。目の前に佇む王子の顔は、この屋敷の誰もが見知った顔だった。

 軽くウェーブのかかった栗色の髪。海を思わせる深い青色の瞳。雰囲気こそ全く違ったが、紛れもない。

「これは一体、どういうことだっ!!」

 グラミスは思わず、大声を上げていた。リアもまた、信じられないといった様子で彼を、王子を見つめる。

「ルドガー……?」

 リアの声を聞いたアレクシスは、彼女に向かって優しく微笑みかけた。

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