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「ごめんなさい、変なこと言って」
沈んだ空気を元に戻そうと、リアは勤めて明るく言った。しかし、いつもなら微笑んでくれるルドガーが今日は真剣な表情で、リアを縫い止めた。
「リア、聞いてもいい?」
「うん」
いつもと雰囲気の違うルドガーに、リアは目を逸らすことが出来ずにいた。
「君は王子との政略結婚をどう思っているの?」
「元平民の私なんかとは不釣り合いだと思ってる。私は体も弱いし、教養だってない。きっと公務だってこなせないわ。成り上がり貴族の娘だもの。だけど、それが私の役目なら、受け入れる」
「そう。じゃあ、相手の王子のことは?」
「……よくわからない。だって一度も会いに来てくれないもの。忙しいのかもしれないけれど、本当は殿下が一番、この婚姻を望んでいないのかもしれない。きっと私とも会いたくないんだわ」
「リアは、本当にそれでいいの?君は本当に幸せになれる?」
ルドガーの熱の込もった視線がリアを捉えて離さない。嫌だ。本当は結婚なんてしたくない。あなたと一緒がいい。
リアは溢れ出しそうなその想いを全て押し込んだ。
「私は、それでいいの」
リアはそう言って微笑んだ。大丈夫、上手く笑えている筈だ。それなのに、答えを聞いた瞬間、ルドガーは悲しそうな顔をした。
もしかしたら、あるいは優しいこの人は、私が嫌だと言えば、あなたが好きだと伝えれば、この手を取って一緒に逃げてくれるかもしれない。だけどそこにリアが望んだ幸せはない。
「ねぇ、ルドガー。私、紅茶が飲みたいな」
リアはキャビネットに置かれているカップアンドソーサーを指差し言った。白磁に金の縁取りがされたシンプルなデザインのそれだ。
「体調が安定してないから、一杯だけだよ」
こうして子供の頃もよく紅茶を淹れてほしいとせがんだ。ルドガーは決まって一杯だけと言いながら、文句も言わずに淹れてくれた。ルドガーは戸棚からアッサムの茶葉を選ぶと、手際よく淹れた。リアの好きな紅茶だ。
「はい、熱いから気を付けて」
「ありがとう」
濃い赤褐色の紅茶から、芳醇な香りが立ち上る。
「あのね、ルドガー。茶葉の隣に蜂蜜があるからそれも取ってくれる?」
「蜂蜜?」
ルドガーは言われた通りに戸棚の前に立つと蜂蜜を探した。すぐに目当てのものを見つけて持って来てくれた。透明な小瓶に入った薄い黄色の蜂蜜だ。
「リアが紅茶に蜂蜜を入れるなんて知らなかった。昔からストレートが好きだって言ってたから」
ルドガーは蜂蜜の瓶を見つめながら言った。
「今でも一番好きなのはストレートティーだよ。でも、最近は蜂蜜を入れるのも好きなの。自分で作ってるやつだから」
「自分で?」
リアに瓶を渡そうとしたところでルドガーの手が止まる。ルドガーの様子に気付かないリアはなおも続けた。
「近所に養蜂家の人がいて、蜂を借りたの。蜂蜜もその人に協力してもらって作ったのよ。花も自分で育ててるものを使ってるの。癖がなくて食べやすいから助かってる」
「ねえ、リア。この蜂蜜、僕も味見していいかな?」
「え……?」
ルドガーの一言にリアは凍りついた。
「で、でも美味しくないわ」
リアは手を伸ばして瓶を渡すよう催促した。しかしルドガーはスッと手を引っ込めてしまった。
「リアが食べやすいって言ったのに」
ルドガーは苦笑した。いつもならルドガーはリアの言うことをすぐに聞く。こんな風に頑なになることはない。ルドガーが瓶の蓋を開く。リアの背筋を嫌な汗が流れ落ちた。
「やめて、ルドガー」
ルドガーは聞かなかった。ティースプーンでキラキラと光る蜂蜜をすくった。
「お願い……」
スプーンが口に近づいていく。その瞬間、リアはベッドから這い出た。
「っ駄目ーーーー!!!!!」
声の限り叫ぶと、リアはルドガーの手から蜂蜜瓶とスプーンを叩き落とした。手から落とされた瓶は大きな音を立てて粉々になった。床には瓶の破片と蜂蜜が、夕陽によって赤く輝いている。
「ねぇ、リア」
静まり返った部屋の中でルドガーの声だけが聞こえる。それは静かな、感情を押し殺した声だった。リアはルドガーの顔を見ることができなかった。返事もできなかった。ただ俯きルドガーの声を聞いていた。
「そうじゃなきゃいいって思ったけれど、やっぱり違った。君はこれがなんなのか知っていて、それでも口にしていたんだね」
相変わらず色のない、無色透明な水のような声が響く。
「アザレアの花には毒がある。症状としては主に嘔吐、痙攣があり、重症化すれば昏睡状態に陥ることだってある。これは今日の君の症状とも一致している。リア、どうして毒なんて飲んだんだ……?君はこれをどんな気持ちで飲んでいたんだ?」
ルドガーの問いにリアは答えられなかった。感情の波が押し寄せる。今口を開けば、思いの丈を全て吐き出してしまいそうだった。
だんまりしたままのリアの肩をルドガーは掴むと、感情を剥き出しに声を荒げた。それは初めて聞くルドガーの怒声だった。
「リアっ!!最悪死ぬことだってあるんだ!君はっ、っ!……」
リアの顔を正面から見た瞬間、ルドガーの声が詰まった。床に散らばるガラスの破片に、堪えきれなかった雫がいくつも零れ落ちる。リアの歪む視界には本気で怒るルドガーの顔があった。口をきつく引きむすんでも、嗚咽が出てきて止まらない。ただ涙を流すリアの手を、ルドガーは包み込んだ。
「リア、僕は医者だ。君を元気にするために僕はここにいるのに、君が生を手放そうとするのは酷いよ。僕の存在を否定しないでくれ……」
途中、ルドガーの声がかすれた。悲痛な彼の想いを聞いた瞬間、涙は止めどなく溢れ出した。
「っ、……ごめん、なさい……っ、ルドガー……。ごめんなさいっ……」
リアは糸を失った操り人形のようにその場に崩れ落ちた。自分の行いが、ルドガーへの裏切りに他ならないことに気付いてしまった。洪水のように押し寄せる感情に歯止めを失って、リアは言うつもりのなかったことを口に出していた。
「本当は、結婚なんてしたくないっ!!私はルドガーが、あなたが好きなのっ!!愛してるの!!あなたの側にいたかった……。だから、病気が治らなければ、結婚もできないし、診察のためにまたあなたがここに来てくれると思ったの……」
リアにとって、ルドガーは光だった。彼への想いだけは変わることなく彼女の胸にあった。嫁げばリアは唯一の光を失う。けれどもルドガーに縋りつけば、彼を公爵家の娘を拐かした逃亡犯にしてしまう。出口のない迷路なら、最初から出ようななどと考えなければいい。リアが選んだのは現状維持だった。しかし進むことも逃げることも拒絶した結果、彼女は大切な人を傷付けてしまったのだ。
「王子なんて知らないっ。私が苦しい時、この屋敷から逃げ出したい時、何もしてくれなかった……。助けてくれなかったっ!!息苦しいこの屋敷の中で、あなただけが拠り所だったの……」
刹那、リアはルドガーにきつく抱きしめられていた。痛いほどのその力も今は安心感の方が優った。ルドガーは細身だったが、触れ合ってみると思っていた以上にしっかりとした体躯をしていた。
「ごめん……。君がそこまで追い詰められるまで気付いてあげられなくて。」
ルドガーの声は震えていた。リアからはその表情は見えなかったが、彼が今どんな顔をしているのかわかる気がした。
「ねぇリア。僕は何も持ってないただの医者だよ。そんな僕を君は愛してると言ってくれるんだね」
「何もないなんてことないわ……。私、あなたの優しさに惹かれたんだもの」
ルドガーは両手をリアの頬に当てると、真っ直ぐに目を見つめた。涙で赤くなったリアの目に、ルドガーの熱を帯びた目が映った。
「君は本当に、僕でいいの?僕を選ぶの?」
リアはその言葉を聞いた瞬間、これが最後の選択なのだと直感した。
「私はあなたがいい。今目の前にいるあなたが」
言葉を口に出すと、ルドガーに優しく口付けられた。身体中に痺れたような感覚が広がる。
「リア……僕も、君だけを愛してる」
囁くように言われた言葉は、リアがずっと欲しかったものだった。
「僕と生きてほしい」




