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ぼんやりとした視界に、見慣れた部屋の天井が浮かび上がる。リアが横たわるベッドのすぐ隣には、椅子に腰掛け様子を伺うルドガーがいた。ルドガーの安堵の表情を見た瞬間、リアは理解した。また、倒れてしまったのだ。起き上がろうとするリアをルドガーは手で制した。
「駄目だよ、まだ安静にしてないと」
「ごめんなさい、ルドガー……」
再びベッドに横になるとリアは力なく謝罪の言葉を口にした。ルドガーは困った風に微笑むと、そっとリアの頭を撫でた。
「なんで謝るの。リアが悪いことなんて、何一つないじゃないか」
その言葉にリアはいたたまれなくなって口をつぐんだ。ルドガーは真剣な医者の顔で話し始めた。
「眩暈に嘔吐、それから痙攣。以前とは違った症状だね。もう体は大丈夫になったと思っていたけど」
「私、どれくらい眠っていたの?」
「三時間だよ」
「三時間……」
窓の外を見ると、太陽は傾き始めていた。リアは俯き、ルドガーから視線を外した。ルドガーには他に用事があったかもしれないのに、彼に迷惑をかけてしまった。
「ごめんなさい」
「だから謝る必要なんてないんだよ、リア」
ルドガーは子供をあやすような口調で言うと、少し寂しそうに微笑んだ。優しい彼がそう言うであろうことはわかっていたが、謝らずにはいられなかった。
「私、あなたの時間を奪ってしまったから、だから」
「それならごめんなさいじゃなくて、ありがとうの方が良いな。その方が、僕は嬉しい」
促すような微笑みに根負けして、リアは呟くようにありがとう、と口にした。すると今度はルドガーから笑顔が返って来た。
廊下から数人の足音が聞こえてきて、部屋の前で止まった。ノックと共に三人の男が部屋に入って来る。そのうちの真ん中に立っているのは、リアの父グラミスだった。ルドガーは椅子から立ち上がり、リアは助けを借りながら上体を起こして三人を迎えた。
まだ体に倦怠感が残っているようで、体はふらついた。そんな娘の様子をグラミスは忌々しげに見遣った。
「また倒れたそうだな、コーディリア」
「申し訳ありません、お父様」
リアは父の鋭い視線から逃れるように目を伏せた。
「わかっているのか。お前の体調が安定しなければ婚約の話も進まないのだ。そうなれば、国の中枢に入る機会を失う。いい加減その自覚を持て」
グラミスの言葉には、リアを気遣う気持ちなど感じられなかった。否、彼はここへ娘の見舞いに来たのではない。叱責に来たのだ。
「ルドガー、コーディリアの容態は」
グラミスは不機嫌な様子を隠すことなく、ルドガーに向き直った。
「考えられるのは熱中症、内臓疾患、中毒のいずれかかと思います。彼女が落ち着き次第、詳しい検査を行おうと思います」
「そうか。検査結果が出次第私に報告しろ。軽度なようなら、王宮に報告し、婚約の件を先に進めさせてもらう。王子ももう二十一。グズグズしていては他の貴族に先を越されかねん」
父の言葉にリアは目を見開いた。
「そんな、待ってくださいお父様。私はっ、っ……」
リアは退出しようと踵を返した父に向かって声を上げた。しかしそれも自分の出した大声に体が驚いたのだろう、クラクラと頭を揺らした。グラミスは娘を一瞥すると舌打ちとともに呪いの言葉を吐き捨てた。
「……使えん奴だ」
扉の閉まる音がすると同時に、世界から色がなくなった。
「リア、少し休もう」
気遣わしげなルドガーの声もどこか遠くから聞こえる気がした。ベッドの脇、飾られた写真立てに視線を移す。セピア色の写真の中に、幸せそうな笑顔が三つ写っている。父と母と、それからリアの三人だ。自分の顔の筈なのに、写真の中で笑う幼子は他人のように感じられた。
父は変わってしまった。土壌改善システムとそれに伴った作物の品種改良によって、王国の飢饉を救ったけれど、富と地位と名声を手に入れた代わりに、父は病によって母を失った。貧しかった平民の頃、お金の工面が出来ずに母を医者に診せてやることが出来なかったのだ。金さえあれば、地位さえあれば、失うことはなかったのに。父の心にはそんな思いが去来したに違いない。事実父は、発見した技術を独占し、国に取り入り、その地位を確立した。痩せ細ったこの地では、父の技術無くして食物生産もままならない。
やがてリアは優しかった父さえも失った。
貧すれば鈍するなんて言葉があるけれど、リア達にとっては縁のないものだった。だからこそ、暮らしがどんなに裕福になっても、貧しかったあの頃が恋しくなってしまう。優しかった両親。笑いの絶えなかったあばら家。大切なものは形を変えてしまったのだ。
鼻がツンと痛くなる。リアは押し寄せる悲しみを必死に閉じ込めようとした。
「リア……」
すぐ隣でルドガーの声がする。囁くような声だった。彼の声はいつもリアの琴線に触れる。泣きたくない。見られたくない。だけど許されるなら、少しだけ吐き出したい。リアはそっとルドガーの胸に頭を預けた。微かに驚いたような感情がルドガーから伝わってくる。彼とは長い付き合いだったが、こんなことをしたことはない。一定の距離を保っていたかったから。これ以上、好きになるのが怖かったから。
「お父様にとって、私はただの道具に過ぎないんだわ……」
ルドガーは何も言わずに、優しくリアを抱きしめた。温かな体温を感じながらリアは思った。あなたを愛しく思うこの気持ちだけは、あの頃から何も変わらない。だからこそ、これは私のわがままなのだと。
ルドガーの腕の中で、リアはそっと窓から見える白いアザレアを見つめた。




