1
大切だったものは時を経るごとに形を変えて、私の心に影を落としていった。熟した果実が腐るように。あるいは星空が厚い雲に覆われるように。
それでもたった一つだけ変わらないものがある。それこそ私が変えなければならない気持ちだったのに。不自由なこの心は制御不能だ。
*****
郊外に建てられた屋敷の庭先で小さな虹が掛かる。リアは如雨露の先に浮かび上がった虹に目を奪われた。何度繰り返し目にしても、その美しさには飽きというものを感じない。
広い敷地を有しているにも関わらず、庭に植えられているのはアザレアのみ。王国全体で工業化が進み、痩せ細ってしまったこの土地では趣味で植物を愛でるにもそれなりに金が掛かる。しかしこの屋敷の主人は花になど全く興味がないので、リアは自分が育てたい花を好きに植えていた。
「待ってくれっ! お願いだ、もう一度話をさせてくれ! これじゃあ俺は生きていけない!!」
男の悲痛な叫び声が聞こえてきたのは、手元の虹が消えるのと同時だった。
ああ、またこの声だ。
リアは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。実際、耳に手を当ててみたが、あまり意味はなかった。声は屋敷の玄関から聞こえてくる。
リアは少し迷った後、生垣の陰からそっと屋敷の方を覗き見た。玄関先の扉の前でやつれた男が父の秘書に縋り付き何事か訴えている。必死な様子で言い募る男とは対照的に父の秘書は不快気な顔で黙り込んだまま口を開こうともしない。
無情にも秘書は乱暴に男を突き飛ばした。男はまともに受け身を取ることもできずに地面に倒れ込む。
リアは悲鳴を上げそうになって慌てて口を押さえた。
秘書は倒れたままの男の腕を掴んで引きずると乱暴に屋敷の外へと追い出してしまった。
「旦那様はお忙しいのだ。終わった案件にとやかく言うのはやめて頂きたい。これ以上騒ぐようならば軍に突き出すとも仰せだ。即刻立ち去られよ」
秘書は男の返事を聞くこともなく一方的にそう告げると、屋敷の中へと消えて行った。
「そんなっ! お願いだ、助けてくれ! 私には妻も子供もいるんだ! どうかもう一度、お取り次ぎを……!」
ガシャンッと屋敷の門が音を立てて閉じる。それでもなお男は訴えかけていたが、最後は言葉にならず慟哭へと変わってしまった。
これと同じような場面をリアは何度も何度も目にしてきた。権力に魅入られた父は他を顧みることをしない。他人を蹴落とし、蔑み、周囲の不幸など意にも介さなかった。
リアはそっと男を盗み見る。大の大人の男が人目も憚らずに泣く姿は、彼の背負っている命の重さから来るものなのだろうか。彼とその家族はどうなってしまうのだろう。
リアはきつく膝を抱えた。彼女はいつだって傍観者だった。彼らと父との間を取り持つこともなく、ただ転落していく彼らを眺めているだけ。
なんて最低な人間なのだろう。自分で自分のことが嫌になる。
それでも行動できずにいるのは、自分が何を言っても父は聞く耳を持たないだろうと諦めているからだ。
いや、それだけじゃない。本当は怖いのだ。蔑むような冷たい瞳を父に向けられることが恐ろしい。想像しただけで凍り付いてしまったかのように身動きが取れなくなる。
「リア」
不意に肩に手が触れた。暖かくて、男の人にしては細く綺麗な手だった。するとそこから熱を帯びて、フッと体が軽くなる。
リアがゆっくりと振り返ると、優しく微笑む青年と目が合った。ウェーブのかかった栗色の髪に、海のように深い青色の瞳。誰も彼もが惹きつけられる不思議な魅力のある穏やかな笑み。
「今日も良い天気だね」
瞬間、世界に光が射して色が付いた。
「ルドガー……」
リアにとって、彼は唯一の光だった。




