0. プロローグ
日も沈んだオフィス街。
普段は仕事帰りの会社員が川のように整然と流れていくその交差点は、今は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「う、うわああああ~!!」
「やめてくれ~!!」
スーツ姿の男たちが必死の形相で駆けて行く。
見るからに高級そうな時計を見に付けた、年配の重役風の男。まだ年若い、入社したばかりと思われる男。年齢も身なりも様々な人間がその場にはいたが、皆に共通している点があった。
老いも若きも、頭部がつるっつるなのである。
「ゲ~ハッハッハ~!! 愉快、愉快だゲハ~!!」
人々が放射状に逃げ出していく中心点に、一人笑い声を上げる男がいた。
口周りにいわゆる泥棒髭をたくわえ、首には手拭を巻き、そして頭部を麦わら帽子で覆っている男。肩にかつぐピッチフォークが悪魔の持つ三叉槍のように鋭い光を放つ。
そして――その目は人間のものとは思えないほどの邪悪な輝きに満ちていた。
その印象は間違いではない。今の彼は人間ではないのだ。
彼は悪魔に魅入られ、異能を授かった怪人たちの一人なのである!
「んん~?」
と、突然に怪人は笑いを止める。
視線の先には路地裏に佇む、ゴミを入れるための大きなバケツがあった。
「そこかあっ!」
「ひいっ!?」
怪人が素早い身のこなしで蓋を取り去ると、中には若い男が隠れていた。頭部はフサフサ。
恐怖に染まりきった身体が、極寒の地に裸で放り出されたが如くガタガタと震え始める。豊かな頭髪も暖をとる役には立たない。
なぜならその男は、己の毛が辿るであろう運命を知っているのだから。
「ゲハッゲハッゲハ! お前の毛も刈ってやるゲハ~!」
怪人はにたりと顔を歪めると、ピッチフォークを高く掲げた。
「い、いやだ……いやだああああああ!! 誰か、誰か助けてくれええええええ!!」
「ゲハハ……叫んでも無駄ゲハよ」
嗚呼――
このまま、生命あふれる豊かな地は不毛の荒野に変えられてしまうのだろうか――
「そんなことない!!」
その時、闇を切り裂く光のような音声が轟いた。
「誰ゲハッ!!」
怪人が振り返ったその先には、一人の少女と一匹の猫。
少女は縛った髪を両側に垂らし、ひらひらの服に身を包む。猫はなんとも珍しい濃い紫色で、両手両足、首と尻尾の先に黄金色のリングを嵌めていた。
幼く、小さく、可愛らしい彼女たちは、怪人の暴れるこの場にはなんとも相応しくない――
否。
むしろ、彼女たちこそが最もこの場に相応しい。
「愛と希望の魔法少女、マホリン参上!」
「そしてその相棒、魔法猫マジ!」
魔法少女。
子どもたちの夢の中にしか存在しないはずのその幻想は、この街では紛れもない現実であった。
「マホリン、気をつけるマジ。【怪人ケカールおじさん】……あのピッチフォークにかすりでもすれば、全てのヘアーがフライアウェイ!」
「それは怖いね……」
魔法少女が「なんでいきなり英語なんだろう……?」という疑問を胸に抱えつつ構えをとると、怪人は武器を持たない左手を隠すように後ろにやった。
「ゲハッ……。お出ましゲハね。しかし来るのが遅すぎたゲハ!」
怪人がその言葉とともにバッ! と左手を前に突き出す!
――憐れ、そこには頭部が輝く若い男の姿が!
「うっうっ……もうお終いだ……」
「ゲ~ハッハッハ~!!」
怪人は男を掴んだまま、高らかに笑い声を上げた。
「ひ、酷い……。あなたはどうしてそんな酷いことをするの!?」
「どうして……?」
怪人は魔法少女の言葉に、愉快そうな様子を一変させる。
ドサッ……
怪人の縛めから逃れた男の身体が地に落ちた。
「これを見るゲハ!!」
「――っ!」
怪人が自由になった手で己の麦わら帽子を取り去ると、その頭部は見事なまでにつるっつるであった!
「努力したゲハ! 頑張ったゲハ! 髪に良い食べ物……健康のための運動……発毛・育毛剤……果てはネット上の不確かな情報まで、全部試した! 祈りすらした! しかし……一本、また一本と髪は去っていった……。神は死んだ!! この世に神が存在しないのなら、俺は悪魔になって、みんなを俺と同じ目にあわせてやる! そして苦しむ奴らを見て笑ってやるゲハ! ゲハッゲハッゲハ……。こんな滑稽な俺を、お前も笑うがいいゲハ!!」
怪人の笑い声が虚しく響く。
魔法少女はそんな男の魂の慟哭を、ただ、黙って聞いていた。
「――笑わないよ」
「ゲハ?」
「例え神があなたを見放しても、私は見放さない。だって私は魔法少女。どんなに辛い現実の中でも奇跡はちゃんと存在するんだって、誰よりも良く分かってるんだから! いくよ、マジキャット!」
「オッケーマジ!」
魔法猫がくるんと一回転すると、虚空からきらびやかなステッキが現れる。
魔法少女はそれを掴むなり詠唱を始めた。
「現在を生きる愛のため! 未来に向かう希望のため! 天よ! 地よ! 毛の精霊よ! 私に力を! ……いっけえぇっ!“投槍”!!」
魔法少女の眼前に形成された魔法の槍が凄まじい速度で飛翔し、狙い過たず怪人の胸元に吸い込まれる!!
「AGAAAAAAAAAA!!」
怪人が絶叫を上げて膝をついた!
彼はしばらくそのままの状態で声を上げていたが、ふと気付いたように手を心臓に当てた。
「……ア? あれ、生きてる……?」
そう。魔法少女の魔法は生命を断つものに非ず。むしろ生命を繋ぐものなり。
(それだけじゃない。この感覚……まさか――)
既にその場に怪人はいなかった。
魔法により邪気が浄化されたその男は、先程から強く主張する違和感に促され、愕然とした表情で恐る恐る手を上げてゆき――
ファサッ……
その手に、懐かしい感触を得た。
「生えてる!?」
男の頭部には、長らく絶えて久しかった髪の毛が、黒々と生い茂っていたのである。
「お、俺の髪も戻ってる!!」
元怪人の傍に倒れ伏していた若い男が叫ぶ。
「俺もだ!」
「私なんか、元々薄かったのに今はフサフサだぞ!」
いつの間にか路地裏の外に集まっていた野次馬たちからも声が上がった。
「あ、ありがとう!! ……あれ?」
元怪人が魔法少女に礼を言おうと顔を上げると、既に影も形も残ってはいなかった。
皆が頭髪に夢中になっている隙に、魔法少女とその相棒はとっくに姿を消していたのである。
「ありがとう、魔法少女マホリン……」
その場に居合わせた男たちは皆、奇跡をもたらした少女の名を空に告げた。
このどこまでも続く星空が、感謝の気持ちを届けてくれると信じて――
*
「今回も無事、仕事を終えたね、マジキャット!」
遥か上空を空気を蹴って駆けながら、魔法少女はパートナーに語りかける。
「良くやったマジ。被害に合った者たちも皆、結果的に救うことができたマジね。ほぼパーフェクトマジ」
「……ほぼ?」
どくん、と心臓が強い鼓動を打つ。
途中から深刻な表情に変わったパートナーを見て、魔法少女は背中に氷柱を通されたかのような心持ちになった。
「……そう、たった一つ、ミステイクがあったマジ……」
「えっ!? ど、どんな間違いがあったの……?」
魔法少女は思う。
(もし、自分のせいで救えなかった人がいたら――)
魔法猫はそんな彼女に、重々しく語りかけた。
「今回マホリンが使った魔法……投げ槍なら『ランス』よりも『ジャベリン』の方が正しいマジ」
「………………そう」
彼女がそんなことを知らなくても当然だった。
彼女――魔法少女マホリンこと宇佐留マホは、まだ小学生だったのだから。
――この時のマホは、まだ何も知らなかった。
これから先の自身の運命も――
魔法少女として、終わりのない戦いが待ち受けていることも――
マジキャットが最近こっそり英会話教室に通っていることも――
マジキャットが一週間で英会話に飽きることも――
――まだ、何も、知らなかったのだ。




