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死を恐れる莫れ

作者: NOZON

 死を恐れる莫れ。自宅の長椅子で眠って居た男は其の幻聴に起こされた。判然と聞こえた其の声は何であろうか、何処かで読んだ覚えが有った。男は怠い体を引き摺る様に為て己の書架へ向かう。男の書架は壁の一面を埋め、本を湛えて黙然と屹立為て居る。多様な辞書、男の帳面、広い分野の教科書等が雑然と並んで在るが蔵書の殆どは小説であった。加えて収まり得なかった本も多く、辺りに堆く積まれて埃を頂いて在る。男は何を定める事も無く手を伸ばして書架から一冊を抜き取った。

 夢野久作の『ドグラ・マグラ』である。男は頁を流し、其処から漂い上がる紙と墨の甘い匂いで肺臓を満たし、軈て書架へ戻して終った。其の儘で指先を背表紙に這わせ、他の本を取り出した。

 矢作俊彦の『ららら科學の子』である。先刻とは異なって其の本を繰る事は無く、更に本を取り出した。

 メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメセウス』である。其の二冊を優しく重ね、双眸の前へ掲げて暫く眺めて居た。男は小さく笑うと二冊の位置を換えて書架へ戻した。徐に屈み込んだ男は書架の最も下段から一冊を取り上げた。

 川端康成の『雪国』である。男は表紙を凝と見据えて「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった……。」と言った。其の声は幾多の蔵書に吸い込まれて消えて終った。男は其の本を戻さず、傍らへ丁寧に置いた。立ち上った僅かな塵芥が橙色へ移り行く陽に照られて輝いた。屈み込んだ儘で暫く書架を見上げて居たが、今度は双眸を閉じて一冊を抜き出した。

 ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』である。男は表紙を瞥見為た切り、直ぐに戻して終う。然し乍ら指先は其の背表紙を離れず、上下に穏やかな往復を繰り返して居た。男は深く嘆息為ると指先を離し、其の上段に収められて在った本を取り出した。

 ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』である。男は其の場へ座り込むと中程を開き、暫く読んで居た。百頁弱を読み進めると本を閉じ、一冊の本を書架から探して取り出した。

 森見登美彦の『四畳半神話大系』である。頁を疾く繰って行くと其処に海底二万里の文字を認め、男は少し頷いて二冊を重ねた。男は書架を見渡し、其の二冊を収める替わりに一冊が抜き取られた。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』である。男は其の本を抱えて踵を返し、床に在る一冊を拾い上げると纏めて持って行って終った。其れから男は宵闇で文字が読めなく成る迄、長椅子で読み耽って居たが電燈を点けると途中にも関わらず書架の前へ戻って二冊を恭しく収めて終った。死を恐れる莫れ、男は呟いた。暫く顎に手を当て、書架を眺め回して居た男であったが周辺に積み上げられた本へ卒然と歩み寄り、颯と埃を払い除けると其の一冊を持ち上げた。

 三浦綾子の『氷点』である。男は改めて丁寧に埃を拭い去ると表紙を開き、十頁弱を読み進めると閉じて終った。紙が合う軽い音が響く。男は其の本を書架の甲板へ置き、首を傾げて見せたが其れ切りであった。書架の甲板に在る本は此の一冊許りである。男は既に他の本を拾い上げて居た。

 横溝正史の『八つ墓村』である。男は眉を顰めて額を抑え、暫し悩むとも苦しむとも分からぬ態であったが、額から手を放すと書架へ向き直り、次々と本を取り出した。

 坂東真砂子の『桜雨』、ミヒャエル・エンデの『モモ』、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』、谷崎純一郎の『春琴抄』、中勘助の『銀の匙』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、フランシス・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』、ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』、二葉亭四迷の『浮雲』、和田芳恵の『暗い流れ』、冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』である。

 更に男は辺りに築かれた深い本の谷を這い回り、続々と本を付け加えた。

 石川達三の『蒼氓』、ライマン・ボウムの『オズの魔法使い』、サマセット・モームの『月と六ペンス』、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』、山本有三の『路傍の石』、夏目漱石の『こころ』、太宰治の『斜陽』である。

 其れから男は拾い上げた一冊、取り出した十一冊、付け加えた七冊を改めて読み始めた。長椅子に寝転んで唯々読んだ。軈て払暁を迎え、男は便所へ行く他に食事も睡眠も忘れて目を走らせ、頁を捲った。指先が乾き、双眸が痛み、脳髄が疲れて尚も読み続けた。

 十九冊を読み終えた時、男は憔悴為尽くして呆然と四肢を投げ遣った。長椅子の周囲には十九冊が散乱為、宛ら本に殺された様子であった。

「俺は何と下らぬ生涯を過ごしただろうか。」

 然う為て深い眠りに落ち、死を恐れる莫れを全く忘れ去って終った。男は魘された。

 其の後、男は酷い空腹と口渇に突き起こされ、ラーメンを食べたいと言って家を出たが然う遠くない所で轢死為た。

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