インキュバスと神父 2
拓巳はシルビアがインキュバスに襲われたというルーシア教の教会へとやってきていた。
教会は街の中心部から少し離れた場所にあった。真っ白な建物はどこか神聖な雰囲気を醸し出し、ちょうどお昼時だったせいか教会の屋根の上からは鐘の音が鳴り響いている。
出入りは制限されていないようだったので、少し緊張しながらも拓巳は教会の中へと足を踏み入れる。
扉から入ってすぐの場所は聖堂になっていた。キリスト教の教会に似た作り、と言えば分かりやすいだろうか。聖堂の中にはたくさんのベンチが並べられており、高い天井には何やら絵画が描かれている。窓はステンドグラスになっていて、差し込む日の光はどこか幻想的な空間を演出していた。
教会の中には誰も居ないようだった。誰かがくるまで中で待っていよう、と考えた拓巳は聖堂の奥へと歩を進める。
扉から入って一番奥。キリスト教の教会ならば十字架が鎮座しているであろう場所には、十字架の代わりに三体の女神像が置かれていた。それぞれの台座には左から順に『ニーナ』『イーシア』『ルリアナ』と書かれている。おそらくそれがこの女神たちの名前なのだろう。
「この教会に、なにか御用ですか?」
拓巳が女神像を眺めていると、背後から鈴の鳴るような声がした。振り返るとそこには、修道服を身にまとった若い女性が立っていた。修道女だと思われるその女性は、朗らかな笑みを浮かべながら拓巳から女神像へと視線を移す。
「女神像を見ていらしたんですね。もしかして、信徒の方ですか?」
「いえ、信徒ではないんですけど、」
「まぁ! でしたら是非、説教を聞かれてはいきませんか?」
「えっと、今回は遠慮しておきます。……今日俺がここに来させていただいたのは、ここの神父さんに用があったからで―――」
拓巳が事情を説明すると、修道女は首をかしげる。
「シルビアさんがインキュバスに…? 神父様からそのようなお話は聞いていないんですが……」
「とにかく、神父さんにお話を聞きたいと思いまして。今、神父さんはどちらに?」
「神父様でしたら今の時間は教会の裏にある孤児院にいらっしゃると思いますよ」
どうやらこの教会には孤児院が併設されているようだ。教会の裏にその孤児院は建てられているらしく、修道女の話では神父は今孤児院の方で子供たちに昼食を食べさせているところだそうだ。
「そうですか。では孤児院のほうに行ってみます」
拓巳はそう言って、修道女に軽く頭を下げると、教会の裏にあるという孤児院へと向かった。
教会の裏には修道女の話していた通り、小さな孤児院があった。白亜の教会と比べるとかなり質素な建物であったが、庭の花壇や芝はよく手入れされており、とても大切に使われていることが伝わってきた。
どうやらもう昼食の時間は終わってしまっていたようで、子供たちが庭に出て好き勝手に遊んでいた。年頃、性別はバラバラで、下は四歳ほどの子どもから、十歳を超えている子供まで、みんな楽しそうに遊んでいる。
ふと孤児院の扉の方に目を向けると、扉のすぐ近くに優しそうな目をしながら子供たちを見つめる壮年の男性の姿があった。司祭服のようなものを着ている。おそらく彼がこの教会の神父なのだろう。
拓巳が孤児院の方へと歩いていると、向こうも拓巳の存在に気が付いたようで、人の好さそうな笑みを浮かべながら拓巳に話しかけてきた。
「おや……? このようなところに何か御用ですか?」
近くでみると、思っていたより老けていることが分かった。顔じゅうに小じわがあり、神は少し薄くなっている。その様子からはどこかくたびれたような雰囲気を感じた。
「お忙しそうなところすみません。貴方はこの教会の神父さんですか?」
「ええ。そうですよ」
微笑みながら肯定する男性。やはりこの人がこの教会の神父のようだ。
さっそく事情を説明する拓巳。自分がシルビアの母親から依頼を受けたこと、インキュバスを探すために被害現場である教会周辺を調べていること、そのことでこの教会をよく知っているであろう神父に話を聞きに来たこと。拓巳の話を聞き終わった神父は顎に手を添えて考え込むように俯く。
「なるほど。それでこの辺りを調べて回っていると」
「はい。同じことがまた起こってはいけませんから………それにしても、孤児院ですか。この街の教会が孤児院を運営しているなんて初めて知りました」
ちらりと神父の背後の建物をみながら拓巳が言う。拓巳の視線に気が付いたのか、神父も孤児院を見つめながら顔をほころばせて言う。
「ええ。この街は比較的豊かですが、残念なことに毎年数人の孤児が生まれてしまいます。ですが、例え天涯孤独の身になったとしても、子供たちには何の罪もありません。非力ながら、そんな身寄りのない子たちの面倒を見てやりたいと思いまして……」
「……素晴らしいお考えですね。」
照れたように頬をかく神父に、拓巳は手放しに称賛を送る。しかし言葉とは裏腹に、拓巳は目を細めて神父のことを見ていた。
(…この神父が犯人じゃないのか?)
拓巳は、孤児院について話し続ける神父の話を聞きながら考えにふける。
この神父を最有力容疑者と考えていた拓巳だったが、見たところ、この人は善良な神父である。やっていることは非常に人道的だ。子供たちにも好かれているようだし、この人が犯人という考えは早計だったかな、と拓巳は考え直し始めていた。
(じゃあ、犯人は本物のインキュバス……? いや待て、まだこの神父が犯人でないと決まったわけじゃない。シルビアさんが見た犯人の姿はこの神父と全く同じだったんだ。まだ疑いを晴らすには早い)
そう考えた拓巳はとりあえずアリバイだけでも聞いておこうと、神父の話をさえぎって質問する。
「あの、一応、シルビアさんが襲われていたとき、どこで何をなされていたか、お聞きしてもいいですか?」
「そうですねぇ…シルビアさんが襲われていたと言っていたのは三日前の夜でしたか? そのときは自室にいましたから…」
「証明できる人はいない?」
「はい。…ですがわたしが住んでいるのはあの孤児院ですので、わたしが孤児院にいたことは子供たちが証明してくれると思いますよ」
(へぇ…、一応アリバイはあるのか。ということは、子供たちに聞いて裏が取れればこの人は白ってことか)
しかし拓巳には一つ気がかりなことがあった。
(じゃあ、なんでこの人は修道女にインキュバスのことを話していないんだ?)
さっき拓巳が話した修道女は、シルビアさんがインキュバスに襲われたことを知らないようだった。シルビアさんに犯人がインキュバスだと言ったのはこの神父だ。それなのに、女性である修道女にインキュバスの存在を知らせて注意を促していないのは明らかに不自然だ。
拓巳がそのことを神父に尋ねると、彼は「余計な心労を与えたくないですから」と答えた。インキュバスがこの辺りに潜んでいることを知ったら不安で眠れない夜が続くだろうから、そんな思いはさせたくない、ということらしい。
(でもそれはおかしいだろ。修道女への忠告は『余計』なんかじゃない。彼女たちが自衛するうえで最も大切な情報だ。…ってことは、この神父には、インキュバスの情報を『余計』だと言い切れる根拠があるってことだ。だとしたらその根拠ってのは………)
とそこまで拓巳が考えたところで、拓巳と神父に話しかけてくる者がいた。
「ねーねー、せんせー…… このおにいさん、だれ…?」
「そーだよ! だれだよおまえ! あやしい奴!」
話しかけてきたのは、孤児院の子供たちだった。
俯き気味で気の弱そうな女の子が不安げに神父の服の裾をくいくいと引っ張り、気の強そうな男の子が拓巳と神父の間に割って入り木の棒を拓巳に突きつける。その姿を見るだけで、この神父がいかに子供たちに好かれているかが伝わってきた。
男の子のほうはどうやら拓巳を警戒しているらしい。拓巳が苦笑いしながら降伏するように両手を上げても、棒を下げることなく拓巳を睨みつけている。
それを見た神父が慌てて木の棒を降ろさせて男の子に諭すように言う。
「リオン。こちらの方は怪しい人じゃないですよ」
「でもせんせ、こいつ変なカッコしてるぞ!」
「変な格好……そっかぁ……俺は変な格好してるかぁ…」
ちなみに今の拓巳は、特に戦闘の予定も無かったので、こちらの世界に来たときに着ていた学ランを着用している。
たしかにこちらの世界では学ランを着ている人なんて拓巳以外にはいるはずもない。ときおり奇異の視線で見られていることは拓巳も気付いていたし、それを少しだけむずがゆくも感じていた。
だが、面と向かって「変な奴」と言われたのは拓巳もこれが初めてだった。子供は思ったことを正直に言ってしまう生き物である。それだけに本心であることが伝わってきて地味に傷つく拓巳。
「そんなことよりせんせ! はやく遊ぼうぜ!」
「ミナも…遊びたい……」
「あー、そうだね。でももうちょっと待っててくれないかな?」
子供たちに服を引っ張られながら神父が拓巳の方をちらりとみる。子供たちに付き合ってやりたいが、客である拓巳をこのまま放っておくのもいただけない。そんな心情がありありと分かるような困った表情を向けられ、察した拓巳が神父に先んじて口を開く。
「お話を聞かせていただいてありがとうございました。聞きたかった話も聞けましたし、俺はそろそろお暇しようかと思います」
「そんな、もう少しゆっくりしていかれては……」
「いえ。子供たちに恨まれてはかないませんから。もう少しだけ教会を見て回らせていただきたいのですが、よろしいですか?」
「ええ、もちろん! 構いませんよ」
神父は拓巳のお願いに嫌な顔一つせず快諾する。子供たちも話が終わったと理解したのだろう、先ほどよりも強引に神父を引っ張って孤児院の方へと連れて行ってしまった。
そんなたじたじの神父の姿に微笑まし気な視線を送り、拓巳は教会に向かって歩き出す。
(いい人そうだったな、あの神父さん。……でもそうなると、インキュバスの情報については収穫なし、か)
神父本人も、シルビアが襲われたところを目撃したわけではないし、インキュバスについては何も知らないようだった。ただインキュバスが襲う娘の父親や神父に化けるという話を知っていて、それでインキュバスの仕業だろうと推測しただけの話らしい。
神父から話を聞いた後に教会へと戻った拓巳は、一応教会にいた修道女たちに神父の評判を聞いてみることにした。
「え、神父様ですか? とてもお優しい方ですよ。子供たちにも人気があって」
「実はこの教会の孤児院、昔は国によって運営されていたんですが、財政難のために一度は取り潰されかけたんです。でも神父様が『子供たちの居場所を奪わないでくれ』と国の方に請願されて。それからは神父様は私財をなげうってあの孤児院を運営しているんです。」
どうやらここの神父はかなりの人格者のようで、聞こえてくるのは良い話ばかりだ。どの修道女に話を聞いても、神父について悪い噂を言うような者はいなかった。
特に私財をなげうって孤児院を経営しているという話には、拓巳も驚きを隠せなかった。前の世界と違って戦争だって起きることもあるこの世界で、そんなことが出来るというのはまさしく聖人だ。
この時点で拓巳にはこの事件の犯人が神父だとは思えなくなってきていた。修道女たちにインキュバスのことを知らせていなかったのが気にかかるが、結局拓巳が話を聞いて回ったせいで修道女たちの間にもインキュバスが現れたという情報が広まってしまっている。それを妨害しなかった時点で、神父に後ろ暗いことがないことは容易に想像できた。
(はぁ……結局振り出しに戻っちまったなぁ… いちからインキュバスを探さないと)
話を聞かせてもらった修道女にお礼を言って、拓巳は教会の出口へと向かう。インキュバスに関しての情報は得られなかったが、神父が犯人でないことが判明しただけでも御の字だ。それより、どうやってインキュバスを探し出すかを考えないと。
心の中でそう自分に言い聞かせながら、拓巳は教会の外に出る。
と、そのとき。
「おや、もう帰られるのですか?」
「あ、神父さん」
教会の門をくぐり拓巳が宿に帰ろうとしているところ。孤児院から教会へと帰ってきていた神父が話かけてきた。どうやら子供たちは昼寝の時間になって眠ってしまったらしく、拓巳のことが気がかりだった神父はわざわざこちらに戻ってきてくれたらしい。
「お忙しいところ失礼しました」
拓巳は神父に頭を下げ、「そうだ」と思いついたように言ってなにやらゴソゴソと懐から取り出す。それは幾らかの銀貨が入っている拓巳の財布代わりの巾着袋だった。
「少ないですけど…これ、孤児院の運営にあててください」
「そんな、よろしいのですか…?」
「シスターさんたちに聞きましたよ。なんでも孤児院を維持するために奔走されたとか…俺も少し感銘を受けちゃって」
疑っていたことへの償いも含めて、拓巳は自分の財布を神父に手渡す。
「そうですか……ええと、君は……」
「拓巳です」
「拓巳くん。君のその気持ちはとても大切なものです。人を慈しむ気持ち。それがこの世界から不幸を無くすと、わたしは信じています」
「はい…」
「このお金は子供たちのために大切に使わせていただきますね。本当に、どうもありがとう」
そう言って、神父は深く頭を下げた。
「拓巳くんに、神のご加護があらんことを」
最後に神父はそう言って微笑んだ。




