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短編小説

掌編小説『夢玻璃熱帯植物館(アンブラーレ草観察日誌) 』

 (いぶ)した銀の格子で枠を作り、そこに玻璃(ガラス)を嵌め込んだ透明な館。その上空に大きな大きな白い月が登った。丁寧に切り取った空白のように夜の藍色の中に浮かんでいる。しかし、よく見ると輪郭を虹で薄く飾り、煌々と輝く蛋白石(オパール)のような重みと手触りを感じさせる。

 植物館の高く延び上がった円蓋天井にダチュラの花の灯りが揺れ、薄黄色の灯り粒が甘い香りとなりシトシトと降ってくる。

 女の職員が男の職員の腹をナイフで刺して、もう一人の若い男の職員が怒鳴り、女の頬を(はた)いていた。その声と行動が収まるのを待ち、人影がすっかり無くなってしまうとアンブラーレ草は暖かく湿った土から自分の脚を引っこ抜いた。彼女の背丈は四十四センチメートルで、その茎の下半分が二又に分かれている。アンブラーレ草はそれを人と同じように『脚』と呼んでいた。

 今やアンブラーレ草の細胞内では、満ちた月の光を好み一粒の月光からでも浮揚エネルギーを作り出すベルジュラック葉緑体が活性を強くしていた。

 アンブラーレ草はフワフワと歩き出した。彼女の体は翡翠のような緑色。密集し青く長く垂れた花は人の髪のように見える。彼女は開花の時期を迎えていた。

 石を敷いた小路(こみち)を上って下って、人工的に作られた幅二メートル程の滝の所まで来る。

 小路は滝の裏側を通っている。アンブラーレ草は滝の裏側に立ち、土の着いた足を洗った。彼女はダチュラと同様に夜香の性質があり、夕暮れになると(ガク)の下方にひとつある唇から甘い汁がぽたりと垂れるので、それを目当てに蟻も寄ってくる。洗われた数匹の蟻は滝に流されて溺れ掛け、水蓮の葉に辿り着こうとして足をジタバタさせている。

 それから彼女はゴレンシの木の所まで戻り、その実をもぎ取って食べた。土から吸い上げたカルシウムが彼女の唇の奥で結晶化されて並んでいる。それを使って上手に食べていた。

 ここで再度記録するがアンブラーレ草は四十六億三千万十七次植物だ。シアノバクテリアを自らの細胞に取り込み、それを葉緑体として共生しているものが一次植物。温泉が涌くところに生えている藍藻などがそれにあたる。そして自らの細胞内に一次植物を丸ごと取り入れたものが二次植物。つまり葉緑体の取り込みが二回以上行われているものが二次植物。アンブラーレ草は長く生きていてあらゆる一次植物や二次植物を取り入れて来た。形而下と形而上、物質的と精神的、その在り方を問わず、多種類の葉緑体と共生している。そして取り入れた回数を数えて来た。だから彼女は正確には二次植物だけれど敢えて自らを四十六億三千万十七次植物と称する。ここでアンブラーレ草のことを「彼女」と表記するのは彼女が雌株だからだ。でも種を作ったことはない。なぜなら、この植物館にはアンブラーレ草の雄株がいないからだ。アンブラーレ草が葉緑体と認めているものは光からエネルギーを作り出すことの出来る緑色の生物のことだ。

 今宵、落ちてきそうなほど館に迫っている月。ゴレンシの実の断面は星形で、ゴレンシは自分の生んだ実が空にあるべきで、地にあってはいけないものだと考えていた。空高く上がることを望んでいた。それでゴレンシは以前から彼女に頼んでいたのだ。

「私の実を空へ」


 彼女は星形の実を食べ終えると館の円蓋に向かって合図をした。自らの枝葉を振り上げて。

 すると一羽の緑鳩が館の上を飛び回った。鳥は暗くなると目が見えないそうだが、この鳩はアンブラーレ草とやり取りするための特別な信号を使っているのかも知れない。墜ちたりぶつかったりすることなく飛び回った。

 緑鳩は円蓋の玻璃に重い石を落とし始めた。その石は小さかったが、とても重いものだった。緑鳩は何度も何度も石を落とした。人の時で二時間程経つと次第に玻璃に(ひび)が入り、やがて細かく割れた。キラキラと玻璃の粉が降り注ぎ、それが扇芭蕉(オウギバショウ)の葉から零れた露の玉と重なり合い、彼女の青い花片に弾けて光った。

 緑鳩は破れた玻璃から入り込み、すーっと飛び、館の中を一周した。風鈴仏桑華(フウリンブッソウゲ)の紅い花を翼で軽く弾き、翡翠葛(ヒスイカズラ)の散り終えた花房を潜り抜け、天井近くのアダンの実を飛び越して、小さな橋の真ん中で待つアンブラーレ草の側に来た。緑鳩は橋の欄干に停まった。

 緑鳩はアンブラーレ草をアンと呼んだ。アンブラーレ草は緑鳩をウィルと呼んだ。アンブラーレ草は枝葉を緑鳩の脚に絡ませた。

 緑鳩は飛び立った。ふらつきながら安定しない飛行で。パンの木の枝にぶつかり、花キリンの鋭い(トゲ)に羽を(こす)りながら。それでも次第に上昇し、やがて象竹(ゾウタケ)より高く飛び、破れた玻璃から館の外へ出た。

 チケット売り場の横にある竜舌蘭の高く高く伸びた茎を旋回した後、緑鳩とアンブラーレ草は月へ向かった。


 二人はすっかり見えなくなった。


 長い静けさが続き、滝の音だけが存在を示している植物館。玻璃の円蓋を覆う空が白み始めた。今宵の大きな月が死のうとしている。アンブラーレ草と緑鳩は月に辿り着けただろうか。微睡(まどろ)みながらぼんやりと考えているとき、月の色が変化した。

 月がアンブラーレ草を取り入れて緑色になったのだ。月はアンブラーレ草の葉緑体を取り込み、今宵より植物になる。芝生広場の方からオバケ南瓜(カボチャ)達のざわめきが聞こえて来た。きっと彼等も月が変わるのを見ていたのだろう。


 以上、本日付でアンブラーレ草の観察を終わることとする。この場から動かないことを選んだ私達ではあっても、少なくとも私個人はアンブラーレ草……アンの生き方が羨ましく思えた。

 それでもここから夜空を眺めよう。毎日。いずれ、月の花が咲くのを見られるだろう。


 二千十五年九月二十八日。月曜日、晴れ。

 観察者モモタマナ。


     [了]





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