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大切なお話

 その昼、黒瀬は珍しくも机に座っていた。8月も下旬に差し掛かり、さすがに黒瀬と言えど未だ消化せずに残っている山のような課題の量に焦りを覚え始めたのだろう。黒瀬はせっせと数式をノートに書いている。そんな中ベッドに放り投げられていた携帯が音を鳴らし始めた。黒瀬は体をびくりと震わせて携帯を見た。携帯はアラーム音を出し続けている。おそるおそると手を伸ばし画面を見た。発信元は中田かなと表示されている。黒瀬はためらうことなく通話を開始した。

「はい、もしもし」

「黒瀬くん?」と通話口の向こうから中田の声がする。

「ああ、この番号は俺しかないだろ。で、なんのよう?」

「ちょっとデートしない?」と中田は笑って言う。黒瀬の思考が止まった。体の動きまで止まっている。中田の発言がよほど衝撃的だったらしい。

「ああっと、お前、熱でもあるのか?」と黒瀬はなんとか返事をする。

「ないよ。ちょー元気だし。なに、黒瀬くんまだ暇じゃないの?」

「いや、暇だ。ちょー暇。デートってどこ行きたいんだ? 中田が行きたい場所ならどこでもいいんだが」

「えっと、そうだね。二人っきりになれるとこがいいな」

「ふたりきり?」と黒瀬は声をかすれさせる。

「あ、そうだ。マープルにしよ。あそこなら静かでしょ。大切なお話がしたいからね」と中田は言った。黒瀬はごくりと唾を飲んだ。

「マープルでいいのか?」

「え? うん。だって黒瀬くんの家からも近いでしょ? じゃあ15時には店に居るね。ちゃんと来てよ。ばいばい」と言って中田は通話を切った。

 黒瀬は呆然としながら時計を見た。ちょうど13時を過ぎたころだった。まだ時間はある。

「とりあえず、風呂はいっとこ」と黒瀬はつぶやいた。

 風呂にも入り、歯も入念に磨いた黒瀬が喫茶店『マープル』に入ったとき、すでに中田は一番奥のテーブル席で文庫本を読んでいた。柔和そうな顔のマスターがいらっしゃいと挨拶をしてくる。黒瀬はちわっすと答えながら中田の待つ席に向かった。

「早いな。まだ14時半だぞ」

「そうかな。ちょっと楽しみだったから」と中田は言って本にしおりを挟んだ。

「なに読んでたんだ?」と黒瀬は動揺しながらも話を続ける。

「The Labours of Hercules」と中田は言って、微笑んだ。

「は…?」と黒瀬は困惑する。

「何か頼んだら?」と中田は黒瀬にメニューを渡した。

「え、ああ、じゃあアイスココアかな」とメニューを見ずに黒瀬は言った。

「かしこまりました」と頭上から声が降ってくる。グラスを持ったマスターが黒瀬の横に立っていた。

「ああ、じゃあお願いします」と黒瀬は頭を下げながらグラスを受け取る。マスターは去って二人だけの空間となった。中田はにこにこと黒瀬を見ている。見られている黒瀬は気まずそうに水を飲んだ。グラスをテーブルに置く。

「で、大切なお話ってなんだよ」

「その前に、あたしになにか言うことない?」

「え?」と黒瀬は身を硬直させた。「なにも、ないけど」

「そう。なら遠慮はいらないね」

「遠慮……?」と黒瀬は首を傾げる。

「じゃあどこから話そうかな。ああそうだね、ちょうどここだし。今から三週間くらい前の出来事。この店で一組のカップルがお話していました。まさにあたしたちが座ってるこの席で。彼らは公園で行なうパフォーマンスについて相談していました。美術館も手伝ってくれるというので下手なことは出来ません。演目の段取り、そして音響や場所についてもよく考えなきゃいけませんでした。二人はいろいろと話し込んでいたわけです。そしてそれをこっそり聞いていた一人の少年が居ました。えっと、ちょうどあの窓際の席で」と中田は以前黒瀬と山田が座っていた席を指差した。黒瀬はその指の先を追わなかった。ただその細い目を見開いている。中田は話を続ける。

「たぶんその少年はいろんな人が居るんだなって思っただけでしょう。そのときは。けどあるとき思いついてしまうのです。これはお金になるぞ、と」

「な、なあ、何の話をしてるんだよ?」と黒瀬はようやく口を開いた。

「おまたせしました」とタイミングよくマスターがアイスココアを運んでくる。黒瀬はどうもと言いながらそれを受け取った。伝票を置いてからマスターはごゆっくりと言って去っていった。黒瀬はにこにこしている中田を見る。

「何の話だと思う?」と中田は黒瀬に聞く。

「いや、ほんとにわからない。おれは大切な話を聞けるものだと思ってここに来たんだが」と黒瀬はストローでグラスの中身を混ぜ始める。その手は少し震えていた。

「ふーん。もう少し話さないとダメか。じゃあ事の発端から行ってみようかな。そもそもその少年がどうしてそんな儲け話を思いついたのかってとこ。仕事って困っている人を助けるためのものだよね。その少年はたまたま、たぶん子ども会の出し物で熱中症になっちゃって倒れたときかな、そのときに看病してくれたお母さんたちがちょっと困ってるのを知ったんだ。自分の娘たちが最近、飼い犬に構わなくなってきたっていう困りごと。その困りごとを解決してあげたらなんか仕事をしたお礼としてお金をくれるかもしれない。そんなふうに思ったのかもね。で、その少年は考えたわけだ。じゃあワンちゃんを誘拐しちゃおうって」と言って中田は黒瀬に笑いかける。もはや黒瀬の手はグラスの中身をかき混ぜていない。

「おかしなやつだな。犬を誘拐してどうしようっていうんだ。俺には理解できないね」

「だよね。もしかしたら何も考えてなかったのかも。けどなぜかその少年は行動力だけはあってね、いろいろと準備したんだ。まず誘拐場所のセッティング。あのピエロさんに事情を話して、誘拐を見逃してもらうようにしたんだ。あのピエロさんはちょっといやだったみたいだけど。騒ぎになったらすぐに事情を話すってのと、あとその少年がタダでいろいろパフォーマンスのお手伝いするって提案してきたからそれじゃあ、まあって感じだったみたい。で、次に実行犯。ここが肝心なとこだったみたいだね。そもそもあの人を巻き込まないとその少年はお金を貰えなかっただろうし」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんでそう見て来たように話すんだ? 中田、お前の言いたいことはなんとなく分かってきた。いや、分かりたくなかったが。しかし、しかしだな、その話をなぜ俺にする? 俺は関係ないだろ」と黒瀬は額に汗をにじませながら言った。中田はそんな黒瀬をとっくりと観察してから、自身のポケットをまさぐりスマートフォンをテーブルの上に出した。

「最初にね、おかしいなって思ったのは黒瀬くんがチロの性別を知ってたこと。誰もオスかメスか言ってないのに最初からチロくんって言ってたもんね。あそこであたし、もしかして黒瀬くんは前からチロのことを知ってたんじゃないかって思ったの。もちろん近所のワンちゃんのことだから知っててもおかしくはないよ。けど山田先輩が知らないのに黒瀬くんが知ってるなんて不思議だなとは思えた」

「いや待て。チロの性別なんて俺は知らなかったよ。ただなんとなく、チロくんって呼んだだけだ。いちいちそんなことで怪しまれたら身がもたねえ」と言って黒瀬はココアを飲んだ。

「そうだね。黒瀬くんがそう言うならそうなんだろうね」

「そうだよ。俺は誘拐に関係してないし、あのピエロさんともべつに知り合いじゃない。ついでに言えばチロとそこまで仲がいいわけじゃねえ。中田、お前の言ってることは見当違いだ」と黒瀬は背もたれに寄りかかりながら言った。少し余裕が出てきたようだ。

「そうかもね。けどこの前に村山さんのところ行ったとき、村山さんがすでに黒瀬くんの名前を知っていたことは事実だよね」と中田はにこにこする。黒瀬は息を止めた。

「は?」

「この前、山田先輩が謎解きしに行ったときのことだよ。あのときね、黒瀬くん、猫を追いかけてたでしょ? あろうことか店の奥まで行っちゃって。ふつーはしないけど黒瀬くんならやるかなって思った。でもね、そうじゃなかった。黒瀬くんはあのときもうすでに村山さんの店の奥に入ってもいいくらいの仲になってたわけだ。だって黒瀬くんの名前、山田先輩もあたしも言ってなかったもん。それでもあたしが聞いたら村山さんは黒瀬くんって分かってた。不思議だったよ」

「俺は聞いてなかったんだが」と黒瀬は呆然と言う。

「猫、追いかけてたからね。じゃあ山田先輩に確認とろうか?」

「い、いや! それはいい。いいんだ。山田先輩に何も言わないでくれ。ああ、そうか。俺、名前言ってなかったなあの時」と黒瀬は頭を抱えた。

「じゃあ、村山さんと知り合いだったって認める?」と中田はずいっと黒瀬の方へ身を近づけた。

「……、ああ、そこは認めよう。けどだからなんだ? あのときの前から俺が村山さんと知り合いだったからってなにがおかしい? この商店街の人だ。その近所に住む俺と知り合いでもおかしくはないだろ」

「ふーむ。確かにそうだ」と中田は納得する。

「だ、だろ? じゃあ、べつに俺が関係してるわけじゃねえし、あと山田先輩には何も言うなよ。べつにあれだ、俺がやったとかそういうのじゃなくて、単純にめんどくさくなるからだ。だから言うなよ。なんだったらここの代金も出すから」と黒瀬は必死の形相で中田に言った。

「うーん、どうしようかなあ。黒瀬くんにこういうこと言ったら外れちゃいましたって報告しようかなって思ってたんだけど。黒瀬くんがお金出してくれるならもういいかなあ」と中田はメニューを手に取った。

「出すよ。男に二言はねえ」と黒瀬は真剣な顔で頷いた。

「そう。じゃあ、プリン二個頼んじゃお」と中田は言って、カウンターの奥で本を読んでいたマスターに注文した。マスターは店の奥へと入っていく。そこにプリン工場があるのだろう。黒瀬はほっとしたのかココアに口をつけた。自分のアイスコーヒーをかき混ぜながら、中田は口を開いた。

「あたしね、毎朝走ってるの。早朝の公園で。もちろん今日も」

「ふーん。健康的だな。朝ならまあ、暑くはないか」

「あたしが行く公園、けっこうコースがきれいに整備されててね。ジョギングする人も多いんだ。毎朝行ってると、まあ知り合いも増えていくのね」

「お前、意外に社交的だな」

「ほとんど挨拶するだけだよ。で、この前倉島さんって女子大生の人に声をかけられたんだ。南公園でやってたピエロのパフォーマンス見に来てたでしょって。話を聞くとどうやら倉島さんのカレシさんがピエロだったらしいんだよね。で、いろいろ裏方でお手伝いしてたんだって。いい話だよね、恋人の夢を手伝うなんて」と夢見る乙女の顔をするのが中田である。その正面で血の気を失った顔をしているのが黒瀬である。そんな中にプリンを二つ置くのがマスターであった。

「わあ、おいしそう」と中田はスプーンを持って言う。

「素材にこだわった手作りです。では、ごゆっくり」とマスターは静かに去っていった。中田はすぐさまプリンを一口すくって食べる。口に入れてもぐもぐしてから幸せそうな顔をする。それからもう一度プリンをすくう。黒瀬はぼんやりとその様子を眺めていた。

「黒瀬くん、プリンおいしいよ」と一個食べ終えて、二個目に手を伸ばしながら中田は機嫌よさそうに言った。

「あ、ああ。山田先輩もお気に入りだったよ」

「あ、それとね倉島さんが言ってたんだけど、裏方を手伝ってくれる男の子が居てくれたらしんだよね。最後の日までずっとさ。すごく助かってたんだって。それがこの子なんだけど」と中田は言って、スマホを操作する。その画面に出てきたのは笑顔のピエロと肩を組む黒瀬だった。黒瀬はその画像を見てしばらく頭を抱えた。それから唐突に口を開いた。

「俺にもプリンくれ」

「え、じゃあ、最後の一口ね。あーん」と中田はプリンの一欠片をのせたスプーンを黒瀬の方へと差し出す。黒瀬は俊敏に動き、そのプリンを口に入れ咀嚼する。チャンスをモノにする男である。中田はむーと唸ってからスプーンを皿の上に置いた。どうやら本当に食べさせる気はなかったようだ。

「どこまで分かってるんだ?」と黒瀬は淀んだ目をしながら中田に聞いた。

「黒瀬くんが村山さんを焚きつけて犬を誘拐させたってところまでかな」と中田はにっこり笑う。

「その証拠は?」

「さっき村山さんのところでお話を聞いてきたよ」

「あ、あああ」と黒瀬はうなだれる。

「面白い発想だよね。誘拐なんて。本当に居なくなっても良かったら村山さん経由で別の飼い主を探してもらう。まだ飼う気があるなら別にいい。そういうことだったんでしょ。確かにもう飼う気が無かったら別の愛情ある飼い主さんのとこ行ったほうがいいもん。あ、あと貯めてたおこづかい全額と同額の身代金で愛情を確かめるってのもなかなかだったね。ちょっとえげつない気もするけど」

「あれはお母さん方が考えたんだ。俺は大体の骨子と村山さんを紹介しただけだよ」

「あと、飼い主ちゃんたちがロッカーに封筒を入れるとこを確認する係もでしょ?」

「……、そうだ。はあ、わけわかんねえ。なんであの人も夏に走ってんだ」と黒瀬はため息をつく。

「村山さんからはけっこう貰ったんでしょ? 村山さんも今回のおかげでお客さん増えたって言ってたし」

「それ、言わなきゃダメか?」と黒瀬は頬をかいた。

「うーん。山田先輩にこの写真見せようかなあ。さっき約束したのは言わないってことだけだっただし」と中田はスマホを手に取りながら言った。

「ああ、くそ! いいか、たしかに今回ので村山さんからはお礼を貰ったよ。それは認める。だけど、山田先輩にはマジで言わないでくれ。お願いだからさ!」と黒瀬は懇願する。

「ま、山田先輩に言ったらめっちゃ怒りそうだもんね。やり方もやり方だったし」

「……、その辺は主義の違いだ。一回痛い目を見ないと分かんないんだよ、人間は」と黒瀬は呟くように抗弁する。

「獅子舞みたいな言い訳。じゃあ黒瀬くんも痛い目見ないとね」と中田はにっこり笑う。

「いや、それとこれとは違うだろ! ……違わないかもしんないけどさ」

「あたしは別に黒瀬くんを怒る気は無いけど。今回はだれも傷ついていないし。黒瀬くんは優秀なトリマーを近所の人に教えただけだからね。ある意味では」と中田は言ってアイスコーヒーをストローで吸った。

「じゃあ、言わないでくれるのか?」

「それは黒瀬くんの誠意しだいだね」

「ああ……。オーケー、言いたいことは分かった。じゃあ何をすればいいんだよ?」と黒瀬はため息をつきながら言った。

「あたしさ、花火見たいんだよね」と中田は頬杖をつきながら言った。

「花火?」

「うん。今度、穏川でやる毎年恒例のやつ。あそこさ、会場でいろいろ屋台やってるじゃん。だから誰か一緒に行って、その屋台の食べ物おごってくれないかなあって」と中田は黒瀬を見つめた。

「おごろう。なに食ってもいいし、どんだけ買ってもいい」と黒瀬は言い切った。

「ほんと? じゃあ、山田先輩も呼んで行こう」と中田は嬉しそうに言う。

「は? 中田だけじゃないの?」

「え? みんなで行った方がいいじゃん。ちがう?」と中田はきょとんとする。

「いや、ちがわないけどさ。ちがわねえけどよお」と黒瀬は額に手を当てた。

「あとやっぱり、みんなで夏の思い出も作りたいし」

「それはまあ、同感かな」

「じゃあ、そういうことで。黒瀬くん主催花火大会の屋台食べ歩きツアー開催決定だ」と中田はにっこり言った。黒瀬はもはや言い返すことが出来ない。ただ財布の中身を頭の中で勘定するだけだった。


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