さいごの犬
その昼、山田は自宅のリビングでぼんやりとしていた。テーブルに座り、頬杖をついて足をぶらぶらさせている。その視線の先にはスマートフォンが置いてあった。通知音が鳴りメッセージが画面上部に表示された。山田はにやりと笑う。椅子から立ち上がって伸びをし、トタトタと冷蔵庫まで行き麦茶を飲んだ。ぶるぶるとスマートフォンが振動し始める。山田は手に取り、通話を開始した。
「まやさん! ほんとにロビンが誘拐されちゃったの! 麦茶忘れちゃって美術館に水飲みに行ってたら居なくなってて」と切迫した少女の声が響いた。
「ひーちゃん、落ち着いて。大丈夫。なんとかなるわ。今からそっちに行くから」
「身代金よこせって、あのねさっき電話でお母さんとそのこと話してうちが出すかってなったんだけど、出したくないって言ったら、お母さん怒っちゃって。どうすればいいの?」
「え、ええっとう~ん。あのさ、ひーちゃんどうして出したくないの? ロビンのこと大切じゃないの?」と山田は困ったように頬をかきながら言った。
「だって、お母さんに誕生日プレゼント贈りたいんだもん。お金、使えないよ。ロビンは大好きだけど、お母さんも大好きだもん」と少女は声を震わせた。
「あ、ああ~」と山田は頭を抱える。「それ、お母さんに言った?」
「言ってない。秘密にしてたいから」と少女は小さく答える。
「だよねえ。ううんと、とりあえずひーちゃんのお母さんともう一回話してみて。ロビンもどうしても取り戻したいんでしょ? その気持ちを思い切り伝えるの。ロビンは大切なんだって」
「けど、お金がないと」
「いいの。とにかくお母さんとよく話すの。ロビンについてね。私も今からそっちにいくから、もし説得できなかったら一緒に話してあげる」と山田は玄関先で靴をはきながら言った。
「うん。わかった。話してみる」
「じゃ、行くから待っててね」と山田は言って、通話を終えた。それから炎天下の中を駆け出したのだった。
ひーちゃんと山田に呼ばれる、間宮ヒカリの家は山田の家から徒歩四分ほどの距離にある。町内会が一緒で山田はときおりヒカリを含む子供たちの面倒を見ていたこともあった。
山田が間宮家に到着したとき、門の前にはすでにヒカリが立っていた。目の端を赤く腫らしている。
「ひーちゃん。どうだった?」と山田は駆け寄りながら聞く。
「お母さんが出してくれるって。プレゼントのこと言っちゃったけど」とヒカリは白い封筒を山田に見せた。山田はそれをじっと見つめてから、ため息をついた。
「そっか。まあ、それならいいか。じゃあ、いまから受け渡しに行くのね」
「うん。駅のロッカールームにいれろって」
「駅?」と山田は驚く。
「うん。まやさんも一緒に来てくれる?」とヒカリは山田の手を引く。
「もちのろんだよ!」
「急がなきゃ。時間に間に合わなくなっちゃう」とヒカリは言って駆け出した。
「けど、駅か。なんで変えたんだろ」と山田は首を傾げつつ、ヒカリと共に行くのであった。
二人が目指したのは南和良駅である。南公園内にある現代美術館への最寄り駅であった。乗り入れている路線は一本。島式ホームで橋上駅舎のスタイルだ。その出入り口は西口、東口と分かれており、ヒカリが指定されたのは東口の一階にあるロッカールーム内の一つであった。そこへの出入り口は一つだけで、壁三面にロッカーを敷き占めて配置している構造となっている。外からでも中の様子は見ることが出来た。山田たちが到着したときには中に誰も居なかった。
「あそこかな」とヒカリは不安そうに言った。
「この駅のロッカールームって言ったらここしかないけど」と言いつつ、山田は周囲を観察している。駅の周りにはそれなりの人が居た。みんながみんな半袖で夏の暑さを満喫している。山田は立ち止まって何かを待っていそうな人物たちを見ていく。見れば見るほど全員が怪しく見えてきた。
「行ってくるね」とヒカリは覚悟を決めたように言って、山田から離れロッカールーム内に入っていく。山田はその後姿を横目で伺いつつも周りへの警戒を解かなかった。ヒカリが指定されたロッカーに封筒を入れて帰ってくるまで、特に怪しい動きをするものは居なかった。それぞれがそれまでやっていたことの延長線上に居た。山田はロッカールームに視線を置く。ヒカリが出てきてから入ろうとする者は居なく、ヒカリに注意を向けるものも居なかった。
「置いてきたよ! これでいいのかな」
「ひーちゃん、ご苦労さま。きっと大丈夫だよ。約束は守る誘拐犯みたいだから」
「うん」とヒカリは気もない返事をする。山田はそっとその頭をなでた。
「大丈夫だからね。ロビンは元気だし、なんだったらリードも新品のやつになってるよ」
「あれ、山田先輩じゃないっすか。どうしたんっすか?」と腑抜けた声が二人の間に降りかかってくる。山田はその声の主を見た。にやけ面の黒瀬が立っていた。
「あん? ろっくんアンタ、今日は忙しいとか言ってなかった?」と山田は眉間にしわを寄せる。
「ちょうど今、用事が終わったんすよ。で、どうしたんですか?」
「どうしたもこうも身代金の受け渡し中よ。ひーちゃんとこのわんちゃんも誘拐されちゃったから」
「へえ。もしかあそこのロッカーっすか?」
「そうよ」と山田はロッカールームに視線を戻す。誰も入った様子はない。ヒカリはそわそわしだす。黒瀬は急に興味を失ったようでスマホをいじり始める。ちょっとした沈黙が三人の間に流れる。その間もロッカールームの使用者は出現しない。ヒカリのポケットが震えだした。ヒカリは体をびくっとさせてから自分のスマートフォンを取った。
「はい。お母さん? うん。帰ってきたの!? ほんと! うん、うん。気をつける。うん。あ、ロビンの声。そう、元気なんだね。分かった、すぐ帰るよ」
「ロビンちゃん帰ってきたの?」と山田は嬉しそうな顔をしているヒカリに聞いた。
「うん。元気だったって。もう帰らなきゃ」と言ってヒカリは家のほうへと駆け出した。山田はその背中を追わずに、ロッカールームへと向かった。
そこは四畳半ほどの広さであった。ロッカーのサイズはさまざまで最大だとトランクケースを収納できるものもある。ヒカリが指定されたのはハンドバック用のロッカーだった。山田は少し背伸びしてヒカリが封筒を入れたロッカーを開ける。カギはかかっておらず中にはまだ封筒があった。山田はそれを取る。封筒はのり付けされたままで開けられた様子はない。躊躇うことなく封を切った。中から白い紙が出てくる。そこには以前小林少年が見せてきた文と同じものが書いてある。それを読んだ山田はぼそりと呟いた。
「QED」