はじまりの犬
木漏れ日の中、四個のカラーボールが空中でくるくると回っている。ピエロが回しているのだ。観客からひょいっとアヒルのぬいぐるみを投げ込まれる。ピエロはそれを器用に受け取って、カラーボールと共に回し始めた。観衆から歓声が漏れた。その声の中には山田の声もあった。山田はすっごーいと言いながら拍手をしている。隣にいる黒瀬は額の汗をぬぐいながら口を開けている。中田は観衆から少し外れたところの木陰でピエロを眺めている。眺められているピエロは最後に落ちてくるアヒルを頭に乗せるという荒業をやってのけた。さすがに拍手が沸き起こる。ピエロはアヒルを落とさないようにしながら礼をして、興行が終わったことを告げた。観客たちは満足そうにして真夏の日射しの下へと出て行った。
観客がなくなった後も黒瀬と山田は立ち止まったまま、片づけをしているピエロを観察していた。ピエロは特に二人の視線を意に介すこともなく、使っていた道具を肩掛けカバンに詰め込んで美術館の方へと去って行った。
「追うわよ」と山田はぼそりと言った。黒瀬は無言で肯き、二人でピエロの背を追うのだった。
ピエロが美術館の入り口付近に達した時、山田はその背中に声をかけた。
「そこのピエロさん、ちょっといい?」
ピエロはぴたりと動きを止めた。緩慢に振り返って二人を眺めた。山田はつかつかとピエロに詰め寄った。
「ちょっと話を聴きたいの。少しの時間でいいわ。簡単なことだし、すぐに答えられることだから」
ピエロは首を少し横に傾けてから、眼をつぶって、両腕を組んだ。そういうのはちょっと困るなという仕草かもしれない。山田はまったく意に介さない。
「アンタそんな化粧してるけど日本人でしょ、骨格で分かるわ。それに私の声に反応したってことは耳が聞こえないわけでもなさそうだし、声が出せるならちゃんとしゃべりなさいよ。めんどくさい設定とかどうでもいいのよ。ショーは終わってるんだし、こっちはチョー重要案件を訊きに来てるんだから!」
ピエロは観念したように周囲を見回してから、小さな声で言った。
「どうしたんですか?」
若い男の声だった。山田はにんまりと笑ってから尋問を開始した。
「アンタのショーの最中に誘拐がおきたの。アンタが指示してやったんじゃないの? 身代金目的でさ。ちがう?」
「へっ?」とさすがにピエロは目を丸くした。山田をまじまじと眺めてから、隣に立つ黒瀬を見た。
「この子何言ってんの?」
「俺にもよくわかんないっす。とりあえずかなり失礼なこと言ってるので、謝ります。すいません」と黒瀬は苦笑いしながら頭を下げる。
「なにろっくん謝ってのよ! コイツのショーの最中に誘拐されてるのよ、明らかにコイツが怪しいじゃないの!」
「いやいや、よく分からないけど、それってホント? 俺がやってる時に誘拐されたって」とピエロは山田に訊いた。
「ホントよ! 被害届は出してないけど、身代金は払ってるわ! 被害者の子を連れてきてもいいのよ」
「正確には被害者は犬ですけどね」と黒瀬は口をはさむ。
「ああ、そういうことだったのか」とピエロは何かを納得したようである。
「なにがそういうことなのよ」と山田はピエロを睨んだ。
「いやね、ああ、先週かな、似たような詰問にあってね」とピエロは少し笑う。
「え、どういうこと?」
「お前が犬を誘拐したんだろってある少年に言われたんだ。その時はワケわかんなくてね、知らないって突っぱねたし、俺もある意味では被害者みたいなもんだったし」とピエロは言ってから、二人の奥の方に目を向けた。「今日もいたみたいだな、あの子たち」
「はあ? なに、アンタ何言ってんの?」と山田は困惑気味に言う。黒瀬は振り返って、後ろを見た。黒瀬たちとは少し離れたところに中田と、少年少女の二人組と、一匹の犬が仲良く立っていた。黒瀬は眉間にしわを寄せた。中田が誘拐してきたのだと思ったに違いない。山田も後ろを向いた。
「かなちゃんの横にいる子たち、誰かしら。なんだか見覚えはあるけど」
「俺を疑ってきたのは、あの少年の方だね。まだ疑われてたみたいだ。まあ、疑う理由もわからなくないけどね」
「だからさ、どういうことなのよ? 結局のところアンタは誘拐に関わってんの?」
「俺は犬の誘拐に関わってないし、それに残念だけど、今の今までそういうことが起きてたってことも分からなかったよ。あれだけのことやるにはかなりの集中力がいるからね。なかなか観客が何やってるかは見られないんだ」とピエロは山田に言った。
「ホントに?」と山田はじろじろと白く化粧された男の顔を見る。
「ホントだ。ピエロは嘘をつかない」とピエロは笑った。
「むっむー。ホントになんか怪しい動きしてる人いなかった? 四日前のことなんだけど」
「四日前ね、どうかな。あのピアノ鳴らす奴をやったってことは覚えてるんだけど。あれ、ホントに難しいんだよね。ミスるかどうか気が気でなかったよ。だから、あんまし観客の顔は覚えてないんだ。けどランチ帰りの人は多かったかな」
「なんでランチ帰りってわかるの?」
「用意するとき、美術館でやらせてもらってるんだ。それで中に入るときにレストランに入っていく人を見かける。その人たちの服装はぼんやりと覚えてるんだよ」
「ふーん。その人たちの中になんか怪しそうな人いた?」
「さあ、至って普通そうな方々だよ。犬を誘拐する必要もなさそうだった」
「むむむ。けど、その観客の中にいるのよ、のぞみんの犬を誘拐したのがね。それだけは確かなのよ」と山田は独り言のように呟く。
「もういいかな、アツくて仕方がないんだ。この衣装着てると」とピエロは立ち去ろうとした。
「待って、私のほかに誘拐を疑われたってどういうことなの?」
「それは俺よりあの少年の方がよく知ってるはず」とピエロは山田の後ろの方にいる三人と一匹の観察者たちを見た。
「はあ?」と山田はまた振り返った。
「じゃあね、あ、キミ、拍手してくれてありがとうな」とピエロは言い残し、すたこらと去って行った。
取り残された山田と黒瀬は二人と一匹を連れて立つ中田の方へ向かった。
「かなちゃん、その子たちはどうしたの? 親戚?」
「いえ、どうやらこのわんちゃんも誘拐されたらしいですよ」と中田はダックスフントを示しながら言った。
「僕から説明しましょう」と中田の隣に立つ少年が片手を挙げて山田に言った。
「ほうほう。いったいどういうことかね」と山田はにやけながらその少年を見る。よく日焼けした少年は一つ咳払いをした。
「笹川、話してもいいよね?」
「うん」と笹川と呼ばれた少女は頷いた。その手に持つ真新しいリードの先には、ダックスフントがおすわりしている。黒瀬は屈んでその犬に手のひらを向ける。吠えることもなかったが、目も向けることもなかった。犬にも無視される男である。中田はそんな哀れな男の様子を横目で見ていた。
「はじめまして、僕は小林って言います。笹川の友だちで、チロが誘拐されたとき一緒に居たんです。あ、チロってのはこの子のことです」と小林少年はねっころがる茶色い犬を指し示した。
「ほお、チロっていうのね。いい名前だわ」としたり顔で頷くのが山田である。
「チロ、お手」となれなれしく命令するのが黒瀬である。チロはまったく反応しない。正常な判断である。
「ろっくん。しつこい! チロも困ってるじゃない!」と山田は黒瀬の頭をはたく。いてえと呻きながら黒瀬はチロの前から去った。
「で、このチロくんもピエロの前で誘拐されたわけですか」と小林少年を見ながら黒瀬は言った。小林少年は頷く。
「そうです。ぼくたちがあの人のパフォーマンスに夢中になってたら、チロのリードごともって行かれてて、あの時もっとよく見ていればよかったのですが」と悔しそうに言った。
「ミツルくんは悪くないよ! わたしがちゃんとリードを気にしてればよかっただけなんだから」と笹川少女は小林少年を庇った。
「まあまあ、過ぎたことはいいじゃない。どっちが悪いとかはもういいの。チロ結局無事だったわけだし。ね、それでやっぱり身代金を要求されたのね?」と山田は尋ねた。
「ええ、はい。笹川のお母さんから連絡がありまして、7,000円を要求されました。もちろん笹川はそれを出すって言って貯めてたおこづかいを出したみたいですが……」と小林少年は笹川さんを見る。
「ママ、もうお金用意してくれてたの。だからそれをもってあそこに行きました」と笹川少女は美術館を指差した。
「へえ、のぞみんとまったく同じね」と山田は頭をぽりぽりとかく。
「そうらしいですね。中田さんから伺いましたが、ぼくたちもあのロッカーに入れるように指示されてました。それで入れました。そしたら」
「誰も入ってないはずなのに、チロが帰ってきたってわけね」と山田は不敵に笑う。
「そうなんです。だから笹川を家に帰らせて。ぼくは残って見張ってたんです。ロッカーの仕掛けも知ってましたし、たぶん、そういう作戦なんじゃないかって」
「かしこいね」と中田は呟くように言う。いつの間にか屈んでチロの頭を撫でていた。中田に撫でられている犬は特にいやそうな顔をすることもなく、むしろ心地よさそうにしている。そんな様子を黒瀬はうらやましそうに見ていた。
「ほっほ~。キミ、なかなか有望だな! 油断させて後から回収するっていうことね。で、見張ってたらあのピエロが来たわけだ」と山田は小林少年に聞いた。
「ええ。とはいえ、着替えていましたけど。その人がピエロだったって分かったのは捕まえた後のことでした。ロッカールームから出てきてその手に封筒を持っていたので、美術館を出たとこで声をかけました。そしたら、自分も脅されたんだと言うんです。この封筒を回収しろって、さもなくばアヒルちゃんは帰ってこないだろう」
「アヒル?」と黒瀬は小林少年を見た。
「ええ、ジャグリングで使ってたぬいぐるみのことらしいです。それを知らぬ間に盗まれたんだとあの人は言ってました」
「ほっほっほ~。なかなか刺激的ね。そのアヒル質を取り戻すためにあのピエロはロッカーに行って、封筒を回収した。で、その封筒はどうしたの?」
「どうやら近くのコンビニのゴミ箱に入れる予定だったらしいです。けど、ぼくの話を聞いてそりゃおかしいってなって。二人で封筒を開けてみたんですけど」と少年は話を一度止めて山田を見る。
「何も入ってなかった?」
「いいえ。それが一枚の紙が入ってたんです」と言って小林少年は自身のポケットを漁った。それから山田の前に折りたたまれた紙を差し出した。
「これです」
山田は無言で受け取り、紙を広げる。そこには次のような文章がプリントされていた。
『受け取りは完了している。これ以上小賢しいまねをするな』
立ち上がって山田の後ろで見ていた中田は少し首をかしげた。
「おもしろいですね」
「おもしろいか? おかしいだろ。いったい何時どうやって受け取りを完了させたんだ?」と黒瀬は中田に言った。
「それを含めておもしろいってこと。で、小林少年はどう思ったのかな?」と中田は小林少年に微笑みかけた。
「はい! ぼくはピエロが封筒をすりかえたのだと思いました! なのでいろいろ探ってみたのですがボロを出さなかったんです。だから、今日もこうして見に来ました」
「四日前のときも見に来たの?」と山田は小林少年に紙を返しながら聞いた。
「ああ、そのときは残念なことに用事がありまして。笹川もいそがしくて行けなかったんです」と小林少年はすまなそうに答える。
「ま、そういうときもあるわね。となればわたしたちもあのピエロを監視するのが一番なのかもしれないけど……。う~むむ」と山田は考えこみ始める。
「俺らに見られてるとこでやりますかね」と黒瀬は言った。
「だよね。ポチも結局小林くんたちが居なかったからやれたのかもしれないし。まあ、抑止という観点じゃ有効なのかもしれないけど。しっぽを出してもらわなきゃ困るのになあ」と山田はかりかりと腹の辺りを搔く。
「オトリでも使いますか?」と黒瀬は半笑いで言った。
「そういうのは最後の手段ね。それにしても、うーむ」と言って、山田は犬と二人の少年少女の顔を見比べる。「もしやキミたち、前の子ども会に来てなかったかい?」
「前のって?」と小林少年はわずかに首を傾げる。
「あ、あの! ダンスすごかったです!」と笹川少女はぐっと山田に近づいた。
「お~お、やはり! 笹川ちゃんもあれくらいならすぐ踊れるさ!」と山田は笹川少女の頭をわしゃわしゃとなでまわした。そうされて笹川少女はうれしそうにする。それを黒瀬はうらやましそうに見る。気味の悪い男だ。
「あ、もしかしてとなりの着ぐるみで踊ってたのって」と小林少年は疑念の目をその黒瀬に送った。
「ああ、俺だよ」と黒瀬はため息をつきながら答える。
「あ、そういうことですか」と小林少年はなにやら納得したふうである。
「なに、ダンスって?」と中田は黒瀬に聞いた。
「あ~、あれだよ。この前さ子ども会の催しで踊った。それだけ」と黒瀬は視線を逸らして答える。
「黒瀬くん、ダンスとかできるんだ」
「できるよ! 基本ろっくんは運動神経いいからね。ま、わたしの教え方がよかったってのもあるだろうけど。今度、笹川ちゃんたちにもレクチャーしてあげよう!」と山田は笹川少女に抱きついた。夏の昼に密着するとは蛮勇である。しかし抱きつかれている笹川少女はすこし嬉しそうでもあった。不審である。その主人の妙さに気がついたのか、チロは急に起き上がり吠えはじめた。
「あ、チロ、急にほえちゃだめ!」と笹川少女は山田から離れ、飼い犬にしつけをしようとする。チロは吠えるのをやめるが、しっぽを振るのはやめない。その短い茶色のしっぽをぶんぶん回しながら、公園の入り口の方を見ている。
「ちゃんと言うこと聞くんだね。かしこいわんちゃんだ」と中田は呟くように言った。
「いえ、前はこんな素直な犬じゃなかったんですが」と小林少年は頬をかいた。
「へえ、そうなんだ」と中田は小林少年を見る。
「ええ、よく吠える犬でした。笹川と散歩に行くときも勝手に走っていくこともよくありまして。だから誰かに黙って連れて行かれるのも納得いかないんです」と小林少年は眉間にしわを寄せる。
「たぶんエサに釣られただけなんじゃねえか」と黒瀬は笑った。
「そうなんでしょうか」と小林少年はしっぽをふるチロを眺める。そのチロは堪えられなくなったのかまた吠えた。すると今度はべつの犬から返答が来る。山田たちはその新たな鳴き声の方に顔を向けた。
そのコーギー犬は若い男に連れられていた。はしゃぐようにしてチロの方へと近づいてくる。しかし、リードをもつ男の先を行かないようにはしていた。節度はあるようだ。飼い主である男はにこやかに山田たちの方へと近づいてくる。
「やあ、こんにちは。今日も暑いね」と彼は言った。
「ええ、くそ暑いけど、アンタ誰?」と山田は不審そうにその男を見る。
「あ、えっと、チロくんの飼い主さんだよね?」と男は困ったように山田を見る。
「それはこの子よ」と山田はクソ暑いのにも関わらず笹川少女をまた抱き寄せる。
「あ、ごめんごめん。そうか、そういうことね」と男は山田たちの顔をそれぞれ見た。
「で、アンタは誰なの?」と山田は詰問する。その下では平和そうに二匹の犬がじゃれあっている。
「あ、ああっと、僕はペットサロンをやってる村山って言います。おどろかせちゃってゴメンね。チロくんに久しぶりに会えたからこの子も興奮してるんだと思う」と村山はリードの先のコーギー犬を見る。
「ペットサロンって、マープルの前んとこ?」と山田はさらに詰問する。
「そうそう! よくご存知で。いやあ、ほんとマープルさんにはよくして貰ってるよ。商店街のこといろいろ教えてくれたりね。こんな若造にもちゃんと対応してくれるんだ。他の店主さんたちもそう。みなさん、すごく優しくてね、経営の相談とかにも乗ってくださって、僕ほんとに助かってる。あっと、君たちに話しても仕方がなかったね。とにかく、ペットで悩み事があったらうちに来てよ! 短期ならペットホテルとかもやってるし」と村山青年は笑顔で言った。
「うちはペット飼ってないから。で、アンタはどうしてチロくんのこと知ってるの?」
「そりゃあ、トリミングを何回か任されてるからね。大事なお客さんさ」と村山青年は屈んでじゃれあっていたチロの頭をなでた。チロは非常に嬉しそうな顔をする。しっぽはぶんぶん回ったままである。
「ふ~ん。なるほどねえ。ずいぶんチロに懐かれてるみたいじゃない」
「まあね。それも仕事だから。ほんじゃま、ペット関連の御用があればいつでもうちに来てくださいな。サーフ行くぞ! チロくんまた会おう!」と村山青年は言い残し、爽やかに去っていった。残された五人と一匹はぼんやりその後姿を見送る。
それから小林少年たちは塾の時間だと言って山田たちとは別れた。山田たちは暑さから逃れるため、件のマープルに向かった。客は居なく、相変わらずカウンターの向こう側で読書をしているマスターだけであった。
「おや、いらっしゃい」とそのマスターは本にしおりを挟みながら朗らかに三人を迎える。
「おいっす! 今日も来ちゃった!」と山田は言いながら奥のボックス席に座った。
「暑い中、よくいらっしゃる。どうでしたか、今日のピエロさんの芸は?」と店主はお冷を持ってくる。
「なかなかね。まあまあのまあまあくらいだったわ」
「けっこうおどろいてたじゃないっすか」
「そうだった気もする」と言いつつやってきたお冷を早速飲み干した。店主は微笑みながら、山田のグラスにまた水を注ぐ。
「ありがとう! 水おいしい!」
「それはどうも」と笑って、店長はカウンターへと戻っていった。
「今日こそわたしが奢ってあげよう! 好きなの選んでくれ!」と山田は自身のポケットからがま口財布を取り出した。蓋を開けて、テーブルの上に中身をすべて出す。500円玉が三枚出てきた。
「マスター! アイスコーヒー三つ!」と山田は高らかに宣言する。店長は頷いて品を用意し始めた。
「選択肢ないじゃないっすか」と黒瀬はため息をつく。
「おごってもらうのに文句言うんだね」と隣にいる中田がぼそりと言った。
「そうよ! とにもかくにも感謝しなさい!」と山田は胸を張った。
「まあ、いいっすけど。で、どうするんですか。これからピエロを見張っておきますか?」と黒瀬は山田に聞いた。
「う~む。まあ、見張っててもいいんだけど、つまりは共犯者が居るってことよね。ピエロが芸やっている間に、犬を盗む実行犯が。グループでやってるってなると今日のでかなり警戒されちゃったと思うんだよね。だから当分は動きがないと思う」と山田は珍しくまともなことを言う。
「動機が見えないですね」と中田は呟くように言う。そんな中田の横顔を不思議そうに黒瀬は見た。
「動機? そんなの金だろ」
「そうかな?」
「だって身代金とってんだぜ。どう考えても金しかねえよ」と黒瀬は呆れたように言った。
「黒瀬くんがそう言うなら、そうなんだろうね」と中田は興味なさそうに頬杖をついた。
「身代金ねえ。そもそもなんだけどどうして飼い主の家が分かってんだろう。思ってるよりこれってけっこう計画的だったのかも」と山田は腕を組んだ。
「後をつけてただけかもしれないっすよ」
「バカ。それじゃ時系列が合わないじゃん。わんちゃんを誘拐してからすぐ家に手紙よこしてんのよ。はじめからその家の犬ってわかってないとダメなの」と山田は黒瀬を睨む。
「たしかに」と黒瀬は顎を搔く。
「他にもいろいろフに落ちないとこがあるし。うーむ。小林少年の証言だとどう考えてもピエロが怪しいんだけどね」
「おまたせしました」とマスターがアイスコーヒーを持ってくる。トントントンとグラスを三人の前に並べた。それでは、ごゆっくりと言って去ろうとしたところを山田が引き止めた。
「ねえ、マスター。あの前にあるペットサロンの店長のこと知ってる?」
「ええ、村山さんですね。毎朝、よく挨拶してくださいます。それにときおり朝食もここでとってくれますね」と丸いお盆を抱えながら喫茶店の店長は答えた。
「どういう人?」
「どういう人とは?」
「うーんっと。そうね、あやしくない? この商店街に仇なす男じゃないかってこと」
「そんな悪い方ではありませんよ。少し世間とずれていらっしゃるところもありますが」とマスターは笑った。
「どういうこと?」と山田はさらに尋ねる。
「彼はある企業の社長さんの三男坊なんですよ。あの若さで店を持つことが出来たのはおもに親御さんの支援のおかげようです。だからか少々経営という面では弱い部分もありましてね、ほとんどタダで仕事をしてしまったりも以前はしていたんです。生来がお人好しなんでしょう。まあ、最近は商店街の方々からいろいろ学び始めたようで、もとより技術はあるので顧客はこれからさらに増えていくことでしょうね。将来の活躍が楽しみな青年です」と店長は楽しそうに言った。
「ほへ~。社長令嬢なのね」
「令嬢じゃないっすよ」と黒瀬は口を挟む。
「お金には困ってなさそうね。マスター、教えてくれてありがとう」と山田は黒瀬の言葉には反応せずに考え込む。マスターはそれではごゆっくりと言って今度こそカウンターの向こうへと戻った。どうやら本の続きが気になっているようだ。
「金に困ってないんじゃ、べつに共犯になる必要もないっすね」と黒瀬は言った。
「そうね。動機がお金ってなればあの爽やか坊っちゃんくんは容疑者リストから外れる。動機がお金ならばね」と言って山田はアイスコーヒーにミルクとシロップをどばどば入れ始めた。
「疑ってますねえ」と黒瀬は笑った。
「まあね。コレ飲んだらちょっと気になることがあるから、今日は解散!」と山田はずぼぼぼとアイスコーヒーを飲み始めた。
「中田、このあと暇か? どっかいこうぜ」と黒瀬は隣の中田をナンパする。
「暇だけど黒瀬くんとはイヤ。家で本読んでたほうがマシ」
「なるほど」と黒瀬はにやけた。拒絶されるのににやけるとは気味の悪い男である。