喫茶店マープルにて
中田かなはアイスココアをストローでかき混ぜながら言った。
「つまり、犬が誘拐されてたと」
「さっき言ったじゃねえか、電話でさ」と黒瀬は隣にいる中田を見る。中田はそんな黒瀬を横目で睨んだ。
「再確認してるだけ。あと近いから離れて、暑苦しい」
「プリンうまい!」と山田は二人にまったく頓着せずにスプーンでマープル特製プリンを頬張っている。
「誘拐されたっていうのはやっぱ身代金目的なのか? どう思う?」と黒瀬は中田のとの距離を少し開けながら訊いた。
「どうって、身代金とられてるから当然そういうことじゃない! バカなの、ろっくん?」と山田は唐突に口をはさんだ。「そういう小悪党には鉄槌を下さないと! 正義の鉄槌!」
山田がぶんぶんと小さな手を振り回すのを眺めながら、中田はアイスココアを音も立てずに飲み始める。黒瀬はその横顔をじっと見つめる。気持ち悪いやつだ。
「なに?」と中田は不審な視線を咎めるように言った。
「お前、ホントに焼けたな」
「うるさい。黒瀬くんには関係ないでしょ。それに夏はいつもこんな感じだし」
「そうそう、中学の時のかなちゃんは褐色系陸上娘だったよ! 夏の合同強化合宿とかでもこんがり焼けててねえ。一緒にお風呂入った時とか、こう、際立ってたよ! 白いとことかの境界線が! 私もそうだったけどさ。ああ、あれはあれで青春だったなあ」と山田は遠い目をする。
「ほお」と黒瀬は中田をじろじろ見ながら意味ありげに頷く。不気味な頷きである。
「でもね、そんな昔のことはいいのよ! 私たちが考えなきゃいけないのは薄汚い誘拐犯どもの足取り! 受け渡しにあんなロッカーなんて使っちゃってさ。きっと頭の足りない奴らなのよ!」と山田はふんすと鼻息を荒くしながらのたまう。
「どうしてっすか?」
「どうしてって、あの美術館には監視カメラがあるじゃないの。のぞみちゃんが居なくなった後にロッカーに入った奴が犯人よ! それでお仕舞じゃない」
「けど顔、隠してたりしたら意味なくないっすか? それか変装してた可能性もあるし」
「……、そこは歩き方とかでなんとかなるはずよ。日本の警察は優秀だから」
「え、警察沙汰にする気っすか?」と黒瀬は眉間にしわを寄せた。
「まだ、しないわよ。まだね」と山田は意味ありげににやけた。クリスマスのプレゼントの中身をあらかじめ知っていた少女のような笑みである。
「はあ、そうっすか」
「のぞみんだってことをおっきくするなって言われてるわけだし。それに私たちが許可なく警察に行っても、のぞみんのお母さんは何もなかったっていうかもしれないじゃない。また何かされるのが怖いからって」
「はあ、なるほど」
「だからね、私たちはなるべく人に悟られずに調査しなきゃならないの! 自分たちの足だけで事実を積み上げていくのよ!」
「はあ、そうっすね」と黒瀬はこくこくと頷く。
「どうして誘拐されたときに犬は吠えなかったんでしょうね」と中田はストローでココアをかき混ぜながら呟くように言った。黒瀬はココアが撹拌されていく様子を見ている。
「そうよね。そこも謎だわ。催眠術でも使ったのかしら?」と山田は首を傾げた。
「聞いた話だと元気なお犬さんらしいし、そこが引っ掛かります」
「元気なのは確かだが、その上バカそうな犬だったぜ。案外エサにつられたとかそういうくだらない理由かもしれないぞ」と黒瀬はにやけながら言った。
「そうね、そうかもしれない」と中田は呟くように答えて、ストローに口を添える。
「なんにせよ、まだ分からないことだらけね。とりあえず、ピエロを探しましょう! のぞみんの犬が連れ去られるとこを見てるかもしれないし!」
「そのピエロなら、私も知ってるかもしれません」とテーブルの横から声がした。思わぬ場所から応えが来たので、テーブル席に座る三人は顔を上げてその声の主を見た。
「お冷、おかわりいりますか?」とマープルの店主は顔を上げる三人に問いかけた。黒瀬と中田は無言で首を振った。
「私も大丈夫だけど、マスター、ピエロのこと知ってるってどういうこと?」
「いえ、南公園でピエロの姿をして芸をしている方ですよね? そのお方なら私も少し知っているのです」
「そうだけど、どうして知ってるの?」
「ちょっとした縁でしてね。ここに来られたこともあるんですよ」と水差しを持ったまま店主は微笑んだ。
「へえ、じゃあ素顔も知ってるってことね」
「そういうことになりますね。彼なら、明日も芸をやるそうですよ。先日言っておりました」
「ほっほお。なるほど、なるほど」と山田はしたり顔で頷いた。
「じゃあ、明日見に行きましょうか」と黒瀬は言った。その横顔を中田はちらりと見て、言った。
「めずらしいね、黒瀬くんがそういう提案するの」
「そうか? まあ、ピエロの芸が気になるのもあるな。すごいらしいぞ。夏なのになんでも見物人が大勢いるとか、そうなんでしょう?」と黒瀬は店主を見上げる。
「ええ、ウチのお客さんたちの中でも話題になっております。芸を始めるのがちょうどお昼時でして、美術館のレストランでランチを取った方々がその足で見に行ったりしているそうですよ」
「そうですか」と中田はアイスココアをかき混ぜながらうなずいた。
「へえ、あのレストランでランチねえ。オシャレじゃん」と山田は妙なところに感心しつつ、アイスコーヒーを氷ごと飲み下していった。
「実は、あの芸も芸術作品らしいですよ」と店主は笑う。
「だおういうこと?」と頬に詰め込んだ氷を噛み砕だきながら、山田は店主を見上げた。
「美術館からのバックアップもあるそうで。芸の仕掛けも美術館の機材を使わせてもらっているようですね」
「ほえぇ。じゃあ、ホントにけっこう大がかりなわけだ」
「ええ。期待しても損はないはずですよ」と店主は笑って、ではごゆっくりと言い残しカウンターの奥へと帰って行った。
「じゃあ、明日行きましょうか」と山田は正面に座る二人を見る。見られた二人はただこくこくと頷くのみであった。
それから三人はよもやま話を始める。今までの夏休みはどう過ごしていたのか。山田は読書。黒瀬は惰眠。話のタネにもならぬ過ごし方だ。中田は夏休み初めに家族で旅行に行った、そのときちょっとした事件に遭遇した、と話し出した。山田は目を光らせて、その事件を根掘り葉掘り聞いていく。黒瀬はときおり中田の横顔を眺めながら、二人の会話を聞き流していく。行方不明のおじいさん、生き返った孫、多額の遺産、吠えなかった忠犬。そういった言葉がぽろぽろと交わされていった。至極、平和な時間である。
中田の一大スペクタクルがすべて開陳されたころには、日は傾き、影は長くなり、店内の客も少し増えていた。
「かなちゃん、すごいじゃないそんな難事件に出くわしちゃうなんて!」と山田は目を煌めかせながら言った。
「ついてましたね」と中田は微笑む。
「それって、ついてんのか? 疫病神っぽいのは憑いてそうだが」と黒瀬は半笑いで言う。中田はそんな黒瀬を横目で睨んだ。
「けど、そんな大がかりな詐欺があるんだねえ。私ならころってだまされちゃうかも」
「悪いやつらはいろいろ考えるんです。だから、悪意にはニオイが付きまとう」と中田はグラスに残る水をストローでかき混ぜながら呟いた。
「今回の犬の誘拐はどうだ? なんか臭うか?」とにやけ面のまま黒瀬は中田に訊く。中田は顔を上げて、黒瀬を正面から見据える。
「あたし、思うんだけど、黒瀬くん今日は調子乗ってない? なんかむかつく」
「べつに乗ってないんだが?」と黒瀬は真顔で言う。
「いいや! ろっくんはかなちゃんと私に会えて嬉しいわけ! いつもひきこもってるからね! で、自覚なしにヘンにテンションあがっちゃってるわけ。そんなろっくんはそんなカンフル剤な私たちに感謝して、ここの代金をおごってくれるわけだ! さすがだね、ろっくん!」と山田は笑顔で言う。
「なるほど」と中田は頷く。
「なるほどじゃねえよ。今日は山田先輩のおごりでしょ? 前は俺が出したんですから」
「サイフ無い」と山田はズボンのポケットをひっくり返して見せる。何も入っていない。払う金もないのにどういうつもりでプリンを頬張っていたのかは謎である。
「はあ?」と黒瀬はさすがに口を開ける。それから中田の方を見た。
「あたしも定期しかない」と中田はズボンから定期入れを出して見せる。
「お前なあ」
「んじゃ、ろっくんごち!」と山田は言って、すたこらと店内から出て行った。黒瀬には追いかける暇もなかった。
「黒瀬くん、お金あるの?」と中田は立ち上がりながら言った。
「まあ、あるけどさ」と黒瀬は伝票を手に取りつつ答える。
「ふうん。じゃあごちそうさまだ」と中田は振り返ることもなく去って行った。
一人残された黒瀬は伝票の金額と財布の中身を比べ、ため息をつきながら会計へと向かうのであった。