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現代美術館のロッカー室

 その早朝、山田まやは公園で行われているラジオ体操に参加した。昼夜逆転の生活を是正するためであった。山田が寝ボケまなこを擦りながら噴水広場に着くと、町内会の人々に小学生たちの前で体操をしてくれと頼まれた。こうして山田は踊りとも体操ともどっちつかずの動きを小学生たちに披露することになる。終わると、小学生たちは山田の横でともに踊っていた老人の前にスタンプを貰う列を作りだした。山田はむーんとうなりながら伸びをして、家に帰ろうとした。そんな折に声をかけられる。

「おーい、まーや!」

「むむむ?」と山田はその声の主を見た。ちょうどハンコを貰い終わった大村のぞみだった。

「のぞみんか。おはよーさんがりあ」と山田は言う。

「へんなあいさつー」とのぞみは笑って、山田の隣に来る。「あのさ、まーやって探偵なんだよね」

「ほほう、私の正体を知ってるとは。そうなのだ、私は探偵なのだ!」と山田は貧そうな胸を張った。

「でさでさ、この前おかしなことがあったんだ!」とのぞみは山田の手を握って、振った。

「むむむ? どんなこと?」

 こうして山田はポチ誘拐事件のあらましを知ることになる。事件発生から三日後のことであった。

 その日の午後に黒瀬は山田から電話を受けた。その時、珍しくも机に座って何やら勉強らしきことをしていた黒瀬は、これまた珍しくも鳴り出した携帯を素直に取り通話を開始した。

「はい」と黒瀬は椅子にもたれかかりながら言う。

「はい、じゃないわよ! なにゆったり構えてんのよ! 誘拐事件よ! 誘拐!」と山田の吠える声が黒瀬の耳を貫いた。

「はあ。課題が忙しいんで、切りますよ」と黒瀬はにやける。

「何言ってんの!? 課題なんて最後の一週間にやるもんよ。そんなことより、誘拐事件があったの。被害者から捜査を頼まれたから、捜査するの!」

「はあ。いまいち状況がよくわかんないんですけど」

「いいから、今からうちの前に集合! わかった!?」と山田は電話を切った。

 黒瀬はため息をついて、机から立ち上がった。机の上には落書きで埋まったノートが置かれている。どこまでも救いようがないやつだ。

 黒瀬がぼんやりとした足取りで山田家に行くと、山田はすでに門の前にいた。腕組みをしてむーんと黒瀬を睨んだ。

「遅いよ、ろっくん。事は焦眉のキューなんだから」

「いったいぜんたい、なんだっていうんですか?」と黒瀬は山田に言う。

「だからポチが誘拐されたんだって!」

「ポチ?」と黒瀬は首を傾げる。

「のぞみんの家の犬。あのアホそうな柴犬よ」

「ああ、あいつか」と黒瀬は顎を撫でた。「あいつを誘拐してもメリットはなんもなさそうですけど」

「身代金を取られたって。六千円!」

「はあ。じゃあ、あいつは無事に帰ってきたんですか?」

「ええ、新品のリード付きで。まあ約束は守る犯人だったみたい」

「へえ」と黒瀬は気のない返事をする。

「でさ、もっと謎なのはその身代金の受け渡し方法なのよ」

「はあ。カバンを走行中の新幹線の窓から放り投げるとかですか」

「そんなんじゃなくて、なんというか、封筒が消えちゃったんだって」

「はあ。よくわかりませんが……」

「とにかく現場に向かうの。ミナミの現代美術館なんだって」と言って山田は歩き出した。黒瀬もその後ろをついていく。その道中に山田はポチ誘拐事件のあらましを黒瀬に語った。

「そのピエロ見てみたいっすね」と聞き終えた黒瀬はにやにやした。

「もちろんよ。そいつも容疑者の一人なんだから」と山田はふんすと鼻を鳴らす。

 二人は昼下がりの南公園にたどり着いた。子どもたちやら老人たちやらカップルたちやらがわらわらと夏の日差しの中、各々の思うがままに活動していた。黒瀬と山田は芝生広場を突き抜けて、現代美術館に向かった。

 館内は静かであった。ロビーにいる暇な人々は冷房の効いた空間を思う存分に享受している。黒瀬は妙な形をした椅子たちに視線を配りながら、たかたかと前を行く山田の後を追った。

「ここよ」と山田はロッカー室の前に立った。

「はあ、懐かしいですね」と黒瀬は周囲を見回しながら顎を撫でる。

「懐かしい?」と山田は首を傾げて、黒瀬を見た。

「いや、小学生の頃、ここの冷水機を飲みによく来てたんですよ。まだあるかなあ」と黒瀬は遠い目をした。

「はあ? どうでもいいわ、そんなこと。とにかくこのロッカー室の、二十六番ロッカーなの」と言って山田はずかずかとロッカー室に入った。黒瀬も後に続く。

 ロッカー室は無人であった。相変わらずラジオじみた会話が流されている。山田は番号を数えていき、当該のロッカーを見つけた。下から二番目。周りと変わるところは特になかった。山田はむむむと唸りながらロッカーの扉をぱたぱたと開けたり閉めたりする。無駄なことである。黒瀬はその様子をにまにまと眺めている。奇怪な二人組だ。

「ふつーのロッカーね」と山田は立ち上がって不満そうに言う。

「でしょうね」と黒瀬は笑った。

「じゃ、どういうことさ。なんで封筒はなくなったの?」

「誰かが嘘をついてるんですかね」

「どういうこと?」と山田は首を傾げて黒瀬を見た。

「もとから封筒はなかった、とか」と黒瀬はにやりと笑った。

「はあ?」

「大村のぞみさんは封筒をロッカーに入れなかったてことです」

「ああん? それじゃ犬が帰ってこないじゃない」

「誘拐なんてなかったってことです。犬はその辺の友達に預けてた。頃合いを見て家に帰した。そういうことですよ」

「んなわけないじゃん。そんなんだったら私にわざわざ依頼する理由も意味わかんないし、のぞみんのお母さんが次の誘拐を気にしてる理由もわけわからないし。ちょっと考えが足りないんじゃないの?」

「ま、そうっすね」と黒瀬は簡単に認める。「というか、また誘拐される可能性なんてあるんですか?」

「のぞみんのお母さんは、変にことを広げると報復されるかもしれないから、誰にも言わず静かにしてなさいって言ってたらしいわ。だからのぞみんは私に頼んだわけ。おーけー?」と山田は頬を膨らませて、黒瀬を睨んだ。

「オッケっす。了解っす。つまり実際に、誘拐があって、その上封筒が消えていたってことですね。まあ、不思議な状況ですな」と黒瀬はにまにまして顎を撫でる。

「うーん。手詰まりね。このロッカーに仕掛けがないなら、別の出入り口があるのかも知れないわ。あるいはどこかのロッカーがドアになってたり!」と山田は興奮し始めて、とたとたとロッカーを無作為に開けていく。ぱたんぱたんという音がロッカー室に響いていった。無為に時間が過ぎていく。その間人は入ってくることはなかった。このロッカー室を使う入館者は殊のほか少ないようだ。山田が異常探しに飽きてきたころになっても、ロッカー室にいるのは二人だけであった。

「なんもない」と山田は不満げにぼやいた。

「逆にあったらびっくりですよ」

「むむむー、しょうがない。人手を増やすしかない」と山田は言った。

「はあ。だれを呼ぶんですか?」

「誰って、一人しかいないじゃない。かなちゃんよ、かなちゃん」

「ああ、中田か。あいつ、生きてるんですかねえ」と黒瀬はにやける。

「生きてるに決まってるでしょ、バカ。一度、外に出ないと、携帯かけられない」と言って山田はすたこらとロッカー室を出ていく。黒瀬は逡巡の後、一度ロッカー室を見回してから山田を追った。

 山田は外に出て、ポケットから携帯を出して通話を開始する。

「あ、かなちゃん。最近どう? え、走ってばっか? 暇すぎて? ほんと、ならよかった。ちょっと事件があってさ、かなちゃんの知恵を借りたいわけ。うんうん。そう、事件。犬が誘拐されたらしいんだけど。そうそう。でさ、今その現場の現代美術館にいるのよ。うん、そう。分かる場所? えっと駅降りたら、南公園って場所に向かえばいいから。うんうん。わかった。待ってるわ」と山田は電話を切った。

「あいつ、暇なんですか」と黒瀬は日陰の中から言った。

「うん。積読くずしたり、走ってたりしてたんだって」

「なんでこのクソ暑い中、走ったりするんだ? バカなのか?」と黒瀬は眉間にしわを寄せた。

「かなちゃんに言ってよ。あと三十分くらいしたら来るってさ」

「じゃあ、美術館の中で待ってましょうよ。ここ暑いですし、干からびちまう」

「そうね、そうしましょうか」

 二人は再び館内に侵入して、山田はロッカー室に舞い戻り、黒瀬は適当な椅子に座ってくつろいだ。そうやって彼らは時間を消費した。暇な人々である。

 中田かなは宣言通り三十分後にやってきた。黒瀬がまずその姿を見つけた。とことこと中田は館内に入ってきて、周囲に一瞥を加えた。黒瀬はその様子をじっと見る。そこに山田がぼんやりとした足取りでロッカー室から出てきた。中田は山田に近寄って、ぺこりと挨拶をする。山田は中田に抱き着いたのち、その手を引っ張って、ロッカー室へと連れ込んだ。黒瀬は立ち上がることなく、その一部始終を眺めていた。ものぐさな人間である。

 数分後、中田は一人でロッカー室から出てきた。ロッカー室と書かれた標識を眺めて、その周囲をきょろきょろと観察しだした。黒瀬は顎を撫でてその様子を見守る。中田は屈んで、出入り口の壁にはめ込まれていたプレートを見つけ出した。それから立ち上がり、受付カウンターまで歩いていく。中田は受付嬢にいくつかの質問をしているようだった。受付嬢は笑顔でそれに答えていた。中田は頭を下げて、ロッカー室に戻った。

 数分後、ぎゃっという短い叫び声がした。館内の注目が一瞬だけその音源に集まる。そして、音源がロッカー室であることを知るとだいたいの人間は、興味を失った。いくらかの人々は微かな笑みを浮かべていた。山田が呆然とした様子で、ロッカー室から出てくる。壁にはめ込まれたプレートを見つけて、背後にいた中田に何かを聞いた。中田はうなずき、受付カウンターのほうを見る。山田は立ち上がって、とたとたと受付カウンターに向かった。そんな山田を受付嬢は笑顔で迎え入れる。黒瀬は顎を撫でたまま、中田が近づいてくるのを眺めていた。ワンポイントの半袖と七分丈のズボンを着こんだ中田は黒瀬の前に立った。

「ヘンな椅子」と中田はぼそりと言った。

「お前、ずいぶん焼けたな」と黒瀬は中田をじろじろと見ながら言った。

「黒瀬くんはなまっちろくなったね」

「引きこもってるからな」と偉そうに黒瀬は言った。

「ふうん。ロッカーのなぞはもう終わったよ」

「……、まじ?」

「まじ。あそこも作品だって。ただそれだけ」と中田はロッカー室を見る。

「作品?」

「そう。体験型作品。ナンバー26って題名」

「はあ。よくわかんねえけど、山田先輩は納得したのか?」

「したよ」

「じゃあ、いいさ」と黒瀬は天井を見上げた。それから思い出したように付け加えた。「そういえば、借りてた本読んだぜ」

「借りてた本?」と中田は短い髪を揺らした。

「クリスティのやつ。ポアロもの。ヘラクレイトスの冒険だったっけ」

「ああ、ヘラクレスの冒険ね。ヘラクレイトスは哲学者」

「そう、それ。まあまあ、おもしろかったぜ」と黒瀬はにやけた。

「なんか、なまいき」と中田はにやけ面をさらす黒瀬を睨みつける。そんな二人のもとに山田がふらふらとやってきた。

「かなちゃん、見つけるの早すぎ」と山田は中田に言った。

「ちょっと事前に調べてたんです」と中田は答える。

「むむむーん。盲点だったわ。たしかにここは現代美術館だし、そういう発想もありっちゃありね」と山田は独り言のように言った。

「終わったんですか。じゃあ、どっかで一服しましょうよ。中田もわざわざわが町に来てくれたことですし」と黒瀬は立ち上がって、山田に言う。「マープルでも行きますか?」

「マープル?」と中田は目を光らせる。

「はあ? ああ、マープルっていう喫茶店がこの近くにあるんだよ」

「へえ。ちょっと期待」と中田は呟いた。

「じゃあ、行きますか。今度こそ山田先輩のおごりで」

「むむむ。ろっくんは見なくてもいいの? あのロッカー、底が抜けるんだよ」

「それを聞いただけで十分ですよ」

 こうして三人は現代美術館を出て、閑古鳥が居座る喫茶店マープルに向かった。

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