吠えなかった犬
その日は大村のぞみにとって不幸な日だった。
ケチにつけ始めはこうだ。昼食後、飼い犬ポチの散歩を母親に命じられた。ソファでエアコンにあたりながらごろごろと少女マンガを読んでいたのぞみは当然のごとく嫌がった。マンガのページをめくりつつ、ポチと散歩するには暑すぎるし、ポチはわんわん吠えて駆け出すおかげですごく疲れるからイヤだ、と駄々をこねる。母親はニコニコとマンガをのぞみの手元から取り上げて、散歩に行きなさいと催促した。のぞみは頬を膨らませて不満の意を示したが母親は歯牙にもかけず、床に転がってる帽子をのぞみに被せ、お散歩セットの手提げ袋をのぞみの足元に置く。
こうして、のぞみはしぶしぶポチと炎天下の中散歩に出ることになった。しぶしぶでも母親に従ったのは一週間ほど暑さを理由にポチの散歩をサボっていたからかもしれない。人間はなにかしらの自責の念を感じていると唯々諾々と権力に服従する傾向がある。許しを強制された苦役からしか得られないとは不幸な動物である。
炎天下の庭先で番をしているポチはのぞみを見るとしっぽを振った。だいたい大村家の誰かがポチの前を通ると、ポチはしっぽを振る。散歩に連れていってもらえると期待するからである。のぞみが接近するにつれ、ポチのしっぽは細かく振動していく。そのまましっぽを羽根にして飛んでいきそうなぐらいであった。のぞみがリードを取ると、わんわんわんわんとポチは笑顔で吠えた。
「うるさいよ、もう」とのぞみは呟く。それでもポチはわんわんとしっぽを振って、喜びを全身で表現するのを怠ることはない。飼い主の命令より、感情表現の方が優先されるようだ。気楽な犬である。主従関係でストレスを感じることはあまりないだろう。ポチにとってみなが対等な地位にあるのだ。平和な価値観である。
のぞみはあついとぼやきながら、いつもの道のりをたどった。家を出る。右に曲がる。大通りに着く。右に曲がる。商店街を通る。ポチが電柱にマーキングをする。店先のぬいぐるみに吠える。直進する。信号を渡って、公園に着く。いつも通りの道のりだった。怪しげな気配などまったくなかった。のぞみはあついよおと呟きながら、ポチに牽かれて公園に入った。第二の不幸がすぐそこにあることも知らずに。
たいてい不幸の前には些細な幸せがやってくる。基本的に人生は小さな山から深い谷底へと突き落とされていくことの連続で構成されているのだ。のぞみの幸福はわずかな驚きと共にやってきた。のぞみが公園に入って、まず目にしたのは人だかりだった。真夏の昼間だというのに結構な人が集まって、何かを見ていた。汗を耐え忍んでも見る価値のあるものらしい。ポチを引きずりながら遊具の合間を縫って、木の下に集まる人々の端に加わった。のぞみは口を開けた。木の下でピエロが5個のゴムボールでお手玉をしていたのだ。
ピエロの服装は完璧だった。完全無欠のピエロを表現していた。その芸も手慣れたものだった。空中からボールが吊るされているんじゃないかと思えるほどだった。のぞみはぽかんと口を開けたままだった。周りの子どもたちもそんな感じだった。暇な大人たちはそうでもなく、にやけ顔を維持したままだった。そんな大人たちの前では、ピエロは風と木陰だけを味方にしていた。蝉の鳴き声は人々の関心をどこかへと吹き飛ばしかねなかった。暑さの最中でジャグリングする不毛さに気が付いたのか、白く化粧された顔で縮れたオレンジの髪を持つピエロは首を傾げてボールを回すのをやめた。それから観衆を見まわして、ひょいと肩をすくめ、地面を見た。地面には電子ピアノらしきものが置いてあった。ピエロはボールをじろじろと見てから、一つを鍵盤の上にぽんと落とした。ぽろんと一つの音が響いた。それを聴いて、大人たちはますますにやにやしだした。子どもたちは口を開けたまま、首をひねるばかりである。ぽんぽんとピエロはボールを鍵盤にたたきつけた。ぽろんぽろんとリズムよく音が連なる。ピエロはうなずいて、両腕を広げてから、うやうやしく頭を下げた。指揮者が拍手を止めるためにやるお辞儀と同じものだった。ピエロは顔を上げ、首を傾げてひとつ間をおいてから、五つのボールで鍵盤をたたきだした。リズミカルで軽やかな音楽が五つのボールによって演奏され始める。音はすべてボールが鍵盤をたたいた後に出てきた。ボールはタップダンスを踊るようにして鍵盤の上を跳ねていく。のぞみは思わず声を上げた。他の子どもたちのそうだった。大人たちもとうとう小さな歓声を漏らすほどだった。だれかが興奮した声で、あのCMみたいだなと呟いた。うん、すごいなと誰かが答える。遠巻きに見ていた人々も集まってきた。のぞみの背中が押されるくらい込み合ってきた。ピエロは観客が増えたのが嬉しいのか、自分の弾く音楽に合わせてちょこちょこと踊り始めた。その動きは滑稽で、少年たちをあははと笑わせた。のぞみもくすくす笑った。ちょびっとだけ幸福だった。
ピエロは最後に一つのボールを大きく跳ねさせてから、演奏を終えた。蝉に負けないほどの拍手が彼のお辞儀を迎える。だれかお調子者が口笛を鳴らすほどだった。のぞみも笑顔で拍手をしていた。ピエロは手を振って、芸が終わったことを示した。人々は晴れやかな顔で木漏れ日のもとを去って行った。残ったのは蝉の声と、遊具で遊ぶ子どもたちの声だけだった。満足した面持ちでのぞみは片づけをしているピエロに背中を向けた。興奮して汗をかいたので、家に帰ってエアコンの下で麦茶を飲もうと考えた。のぞみは軽い足取りで出口に向かった。引きずられることも引きずることもない軽い足取り。そこではたと気が付く。ポチがいない。
のぞみは自分の手首にリードのわっかが残っているだけで、その先にいるはずのポチが消えていることを信じられなかった。リードは真ん中あたりで切断されていた。きれいな切断面だった。人為的に切られたとしか考えられなかった。のぞみはくらくらする気持ちをどうにか押しとどめて、とりあえず周囲にポチの姿を求めた。子どもたちの合間や、ベンチの下を覗いた。トイレの中だって見た。だが、どこにもいなかった。のぞみは泣き出しそうになるのを堪えて、唇を噛んだ。このとき初めてのぞみは途方に暮れるという意味を知ったのだった。
ぼやけた視界で子どもたちのはしゃぐ様を見ていると、なんだか悔しかった。地面をふみならして、ふんと鼻をならしてのぞみは公園を出て、駅前の交番に向かった。迷い犬が届けられてるかもしれないと考えた結果だった。そのとき、ぷるるとのぞみのポケットで携帯が鳴った。防犯のためにのぞみの母が持たせていたものだった。のぞみは浮かない顔で電話に出た。
「のぞみ、今どこっ!?」と緊迫した母の声がのぞみの耳を貫いた。
「公園の近く。あのねお母さん、」
「アナタ、変な手紙が届いてるんだけど、もしかしてポチ、そこにいないの?」
のぞみは息を呑んだ。その空白が母親に答えを与えた。
「まさか。……、いないのね」
「うん」とのぞみはかすれた声で返事をした。
「そうなの。いいわ。とにかく、いちど帰ってきなさい。まっすぐ、急いで帰ってきて。でも車には気を付けてね。おちついてよ。大丈夫だわ。なんとかなる」
「うん」
「じゃあ、気を付けてね。大丈夫、きっとなんとかなるから」と母は励ますように言ってから電話を切った。のぞみは大きくため息をついてから、とぼとぼと家路についた。
こうして、ポチは誘拐された。当然、誘拐なのでポチには身代金が付いた。のぞみはそのことを家に帰ってから知った。奇妙な手紙にそのことが書いてあったのだ。それはこんな風に書いてあった。
『貴君の愛犬を誘拐した。返してほしいのならば以下の条件にしたがって行動せよ。警察等に連絡すれば貴君の前に愛犬は決して帰ってこないだろう。
条件 身代金は6000円である。その金は封筒に入れろ。南公園内の現代美術館にあるロッカー室に子ども一人で来るべし。他に付き添うものがいれば、犬は帰ってこない。隠れても無駄だ。我々は見ている。ロッカー室に入ったら26番のロッカーに封筒を入れろ。鍵はかけなくてもよい。これで受け渡しが完了だ。期限は今日、現代美術館が閉館するまでだ。
以上の条件を守らなかったら、犬は帰ってこない。無駄なことをするな。我々は見ている。』
のぞみと母親の間にあるテーブルの上には以上の文章が書かれている手紙が置いてあった。のぞみはちょこんと椅子の腰かけて、母親の前に座っていた。エアコンが稼働していても、のぞみの額からは汗が消えなかった。向かいに座っている母親は悩ましげにため息をついた。
「どうして誘拐されちゃったのよ。ずっとポチを見とけばこんなことにならなかったのに」
「ごめんなさい」とのぞみはうつむいたまま呟くように答えた。
「でも、まあ過ぎたことは仕方ないよね。ポチはいなくなったし。どうする?」
「どうする?」とのぞみは顔をあげて、自分の母をまじまじと見た。
「このままいなくなってもいいんじゃない? この数か月くらい、のぞみ、ポチにあんまりかまってなかったでしょ? いなくても構わないじゃない。あの子、ごはんよく食べるから食費もかかるし」と母は娘の瞳を射抜きながら言った。のぞみはうろたえた。母親はたたみかけるように言う。
「あの子がいなくても、のぞみはもう困らないんじゃないの?」
「そんなことないっ」とのぞみは激しく首を振った。
「ほんと? だったらあなた、ポチのために6000円出せるの?」
「だせるっ」とのぞみは豪語する。
「ほんと?」と母親は娘を試すように見つめた。もはや、のぞみはうろたえなかった。
「ほんとだよっ」
「そう。ならいいのよ」と母親は少し笑った。それからエプロンのポケットから茶封筒を出した。それをテーブルの上に置く。
「ここに身代金が入ってるわ」
「えっ?」と娘は母を見た。
「お金はお母さんが出します。だって、お母さんもポチに帰ってきてほしいもの。のぞみ、届けられる?」
「うん」とのぞみは力強くうなずいた。母親はにっこりとほほ笑んでから時間がないと急かし、のぞみを再度公園へと向かわせた。のぞみは封筒を持って、家を駆けだしていった。まるで、親友を身代りにして妹の結婚式に向かう男のように。
のぞみが公園内にある現代美術館に到着したとき、閉館まであと二時間程度あった。のぞみはそんな時間的余裕などお構いなしに、すぐ目的のロッカー室へと向かった。館内はほどほどに人がいた。ロビーで涼しさを求めてたむろする老人やら、コンセプチュアルアートの熱心な愛好者たちやら、行くところがないカップルやらが各々の欲望に従って館内をうろついている。だがのぞみがロッカー室に入ったとき、中にはだれもいなかった。ロッカー室内の隅のスピーカーからはある芸術家へのインタビューが流れていた。
「アートはまず人をカテゴライズするのです」
「それはどういうことですか」
「つまり、簡単に言えば作り手か観客かというように」
「なるほど」
「ええ、もちろんこれはアートだけの現象ではない。人間の認識の一般的な作用です」
「そうですね。理解することは分けることですから」
「そう。アートはそこに留まらない。作品によって分化した状態を克服しようとするのです」
「作品によってアウフヘーベンするということですか」
「いえ、止揚、すなわち統合とは異なります。作品は我々を一つの地点に立たせてくれる。そして、それは全体的な存在を損なうことがないようなやり方なのです」
「個人として作品に参加できるということですね」
「そう。美的経験は異なる主体がいなければ成り立ちません。バフチンが言うように」
バフチンだろうが赤チンだろうが、のぞみには関係のないことだった。のぞみは戯言が垂れ流されているロッカー室で指示されたロッカーを探し出した。それは入り口から遠い端の方の列で、下から二番目にあった。26と番号付けされたそのロッカーはハンドバックを収容できるくらいの大きさだった。ドアは半透明になっていて、中に何が入っているかを見分けることができた。このときには中は空だった。のぞみはためらうことなくドアを開けて、封筒を中に入れた。ふんすと鼻息を鳴らしてから、ドアを閉じてロッカー室から出た。微かなざわめきで満たされているロビーに足を踏み入れると、のぞみの脳髄に閃光がきらめいた。
「監視しちゃえば、いいんだ」とのぞみは呟いた。確かにそうだった。ロッカー室への出入り口は一つだけで、人の出入りがあればすぐ分かる。誰かがロッカー室に入って出たあと、26番ロッカーを見に行って封筒がなくなっていればそいつが誘拐犯である、とのぞみは考えた。ということで、のぞみは適当な物陰に隠れてロッカー室の出入りを監視し始めた。健気なことだ。
ロビーにはさまざまな形をした椅子やらソファやらが並べられている。そのデザイン自体が作品のようだ。座り心地の悪そうなのもあれば、そもそも人を座らせる気がないのもある。だがロビーは無料で居座れるので、夏の暑さからの避難所として機能していた。人々は奇怪な椅子に座って新聞をめくったり、本をぱらぱらと覗いたり、タブレット端末をいじったり、売店で買ったであろう画集を見たりしている。この光景自体が一つの作品とも言えよう。適応というのがふさわしい題名かもしれない。ロビーに適応していたのぞみはロッカー室の対面にある背もたれが異常に高い椅子の陰に隠れていた。人はまだ誰も出入りしていなかった。のぞみは閉館まで粘るつもりでいた。だが、そうはいかなかった。五分ほど監視した後に、のぞみのポケットで携帯がぶるぶる揺れた。母からだった。のぞみはロッカー室から目を離さずに、電話に出た。
「もしもし。よくやったわ、のぞみ。ちゃんとポチが帰ってきたわよ」と母はおだやかな声で言った。のぞみは目を剥いて、耳を疑った。
「ほんと?」
「ほら」と言って母は、わんわんとはしゃいでいる犬の鳴き声をのぞみに聞かせた。その鳴き声はたしかにポチのものだった。のぞみは呆然とした。のぞみが出た後、だれもロッカー室に入っていなかったのだ。
「なぜだか知らないけど、新しいリードも付いてるわね。前のよりいいやつだわ。ヘンなところで親切な誘拐犯ね。とにかく、早く帰ってきなさい。ポチが待ってるわ」
「うん」とぼんやりのぞみが答える。
「気を付けて帰ってきてね」と母は言って通話が終わった。のぞみは首を傾げながらもポケットに携帯をしまう。それから夢遊病者のようにロッカー室へと向かった。ロッカー室に入ると、ぼそぼそと喋る男の声がのぞみの耳を撫でる。同じ内容のインタビューを流し続けているようだ。だが、こんどもやはりのぞみの耳には入ることはない。のぞみはてくてくと、26番ロッカーに向かう。屈んで、ドアを開ける。
封筒はなくなっていた。