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アイを失くすと甘くなるもの

 黒瀬ロクは携帯電話の着信音で目を覚ました。夏の昼下がり、午睡のまどろみから引き離された彼はのろのろとベッドから起き上がり、薄明の中にある自室を見回した。ぴろぴろと光を発しながら、携帯は学習机の上でのたうちまわっている。黒瀬は恨むようにその様態を見ながら、立ち上がった。机の前に立ち、黒瀬はじっと携帯を見つめる。携帯はぷるぷると震え続ける。少しすると、ぴたりと死んだ。黒瀬は満足したように頷き、エアコンのリモコンを手にとり、ぴっと電源をいれた。ごうんごうんと室外機が回りはじめる。黒瀬はそよ風に頬を撫でられたのち、ベッドに身を投げた。それから、暑いなあ、眠いなあと呟く。長期休暇を満喫する彼は怠惰という病に罹っていた。

 黒瀬はごろりと寝返りを打ち、仰向けになって天井を眺めた。そこにはシミが点在している。シミを一つ一つ数えるようにして黒瀬は瞳を動かしながら、あくびをした。夏の彼には計画がない。予定もない。どこかに出かけようとする気もない。彼は天井のシミに気を引かれて、あくびをするだけだ。いずれはナマケモノに進化するであろう。彼はそんな将来を恐れることなく眼を瞑り、また昼寝をしようとする。だが、運命は彼を矯正しようと決めたらしい。携帯がまた鳴り出した。

 黒瀬はしぶしぶといった感じで、ベッドから立ち上がり携帯を取った。彼の手の中でぶるぶると震えるそれは所有者に電話に出るよう指示している。黒瀬は通話を開始した。元気な声が彼の耳を貫いた。

「ろっくん、起きてる? いま、ひま? というか暇でしょ。ちょっとウチに来てよ」

「おかけになった電話番号は現在使われておりません」と黒瀬はぼそぼそと言いながらベッドに腰掛けた。

「図書館行こうよ、図書館! 本借りすぎちゃってさあ、重いのなんのって。今日返さないきゃいけないのに、自転車、父ちゃんが使っちゃってるし。ということで、ううんと、ええっと、じゃあ、あと五分後くらいにくるように。麦茶、用意しておくからね。あっ、あとウチには私しか居ないよ、うふふ」という言葉を最後に黒瀬の耳から少女の声は消え去った。

 通話を終えた黒瀬は、麦茶かよとぼやきながら溜息を深くつき、立ち上がり背伸びをした。嗚呼とあくびをしてから、藍色のジーパンとオレンジのポロシャツというなんとも言えない服装に着替えて、彼はエアコンを消すこともなく部屋を出た。値上がりしていく電気料金など彼の前では問題ではないようだ。居間に降りると、人の気配はなくもやりとした空気が充満していた。黒瀬はその暖かさに顔をしかめながら、整然とした台所で口をゆすぎ、冷蔵庫を確認した。さまざまな飲み物はそろっているが彼が飲みたい物はなかったようで、黒瀬は口をへの字にしながらぱたんと戸を閉じた。それから居間を出て玄関に行き、靴を履いて外に出た。日はぎらぎらとアスファルトを焦がしている。ちきしょう、と黒瀬は覚悟を決めてから家の鍵を閉めて、道に出る。皮膚が焼けていく感覚を一歩ごとに感じながら、二軒ほど先にある目的地に向かった。黒瀬は木造二階建ての一軒家の門前に立ち、表札の横にあるインターホンを押した。表札には山田と書かれている。がちゃりと家の扉が開いて、その山田が顔を出した。

「ごくろう」と言って、山田という少女は手招きをする。庭先に自転車が置かれていないことを確認しながら、黒瀬は慣れたように家の中に上がった。

 室内は涼しく、快適な環境を維持しようと努めているようだった。居間に通された黒瀬は食卓の上に置いてある本の山を見て、溜息をついた。五十冊程度はあった。これらの本たちはみな図書館から貸し出されたものである。半袖に短パンというラフな格好をした山田は黒瀬にコップをさしだしながら、言った。

「ふっふっふっ、これ全部、五十六冊、二週間で読んでやったぜ」

 黒瀬はちびりと麦茶を飲み、内臓を冷やしてから尋ねる。

「……、これどうやって運んだんです?」

「お母さんの車で図書館まで行った」と簡潔に言って山田もごくりと麦茶を飲む。

「なるほど。それで、お母様は?」

「今日は仕事。だから車もない。自転車もない。歩くしかない」

「……、なるほど」と黒瀬はぽりぽりと頭を掻いた。その横で山田は一気に麦茶を飲み干し、グラスをテーブルの上にぽんっと置いた。

「よおし、気合い入れていこうっ!」

「……、なんかテンションおかしくないっすか?」

「ふふふ、徹夜は人を昂ぶらせるのだ。黒瀬少年、さあこの二つのカバンに本を詰め込んで、最果てにあるといわれる図書館へと向かおうじゃないか」

「はあ」

 そうして黒瀬と山田は仲良くカバンを背負って、山田宅から徒歩二十五分ほどの図書館へと向かった。自宅を出て数歩も歩かない内に山田は、なんかふらふらする、重いよお、眠いよお、ああ世界がくるくる回ってる、などとを呟いて、黒瀬に自分の荷物を押し付けた。こうして、黒瀬はその双肩に五十六冊の本を背負うことになる。

「おれ、また脱水症状になるかもしれないっす」黒瀬は額から汗をだらだらと流しながら切実な声で申告した。存外涼しげな山田は短めのお下げを揺らしながら機嫌良さそうに笑った。

「だいじょうぶ。ライオンダンスの時に応急処置の方法学んだからね。なんとかなるよ」

「あの時だって、死にそうだったんですよ。着包みのまま炎天下で踊るとか、マジ、笑えなかったっす」黒瀬は山田から支給されたタオルで額を拭いながら、ぼやいた。

「良いじゃん、目立ってたし。それに、みんな大うけしてたよ。夏の子ども会の催しとしては、歴代最高の出来だったんじゃないかな。次もよろしくね、って会長さんも言ってたし」

「いや、次はないっすよ」と黒瀬は断言する。

「ふうむ、そうだな、つぎはかなちゃんも誘おうっと。ろっくんも次までにはしょぼいトランプ手品じゃなくて、もっとおおがかりなの習得しておいてね」と山田は人の話を聞かない。

「はあ」と黒瀬は溜息をつき、立ち止まり荷物を背負い直す。怠け者としてはよく従順に働いているほうだ。彼は、ああ、あついと文句を垂れながら軽快な足取りで前を行く山田の後を追った。

 そうやって、彼らはとことこと歩き、三階建ての図書館へとたどり付いた。汗みずくの黒瀬は、冷水機に直行し砂漠から帰ってきたラクダのように水を補給しだした。そんな黒瀬から、二つのカバンを奪って山田は司書のいるカウンターへと向かう。山田は笑顔で本をカバンから出して、どさどさと机に置き、返却ですと明るく言った。熊が笑うエプロンをつけた女性司書は引きつった笑顔で、ありがとうございますと言って山田を追い払う。空になったカバンを肩にかけて、晴れ晴れとした表情の山田は一人掛けソファに座り込んでいる黒瀬のもとへと向かう。

「すこし、休む?」

「……、もちろん」

「うんうん。しっかり休んで次に備えておいてね」と言って山田は新たなる推理小説を求めて旅立った。黒瀬は深く背もたれに寄りかかり、天を仰いだ。はあ、と彼の口からは声にならない諦念が洩れる。

 黒瀬は行く当てもない視線をロビーに向ける。ロビーには新聞や雑誌を読む老人、貴婦人がのさばっており、受付近くにあるコピー機には目の下にくまがある男が張り付いていた。各々が各々の思う夏服を着込んでいて、肌を隠そうか、曝そうか迷っている。肌の露出の多い若年女性はいなかった。されど雄雄しくも頭皮を曝す男性は数多く居たのだが、黒瀬は格別そのことに興味を持つこともなくロビーから眼を離し、出入り口を見た。

 その出入り口の両脇にはセンサーが取り付けられている。勝手に本などの貸し出し物を持ち出せなくするためだった。事実、たまに警告音を鳴り響かせたりする。気が向いたら笛を吹く審判のようだ。役に立っているのかそうでないのかは不明であった。好奇心から一度は鳴らせてみたいと考える男が黒瀬である。迷惑千万な野郎だ。

 黒瀬がすべてに飽きて天井を見上げシミを数え上げ始めたころ、たったかたったかと階段を跳ねるように降りてくる音がロビーの密かな騒音に混じった。暇なので黒瀬はその音の方向を見る。少年が一階に下りてきた。その少年は肩掛けカバンをしており、両手には六冊の本を持っていた。黒瀬はその浅黒い肌を持つ少年をじっと見る。その目つきは不審者の目であった。だが、少年は黒瀬の怪しい視線に頓着することもなく、ロビーを横切り、出入り口へと真っ直ぐ向かった。黒瀬は片眉を上げる。

 少年は難なくセンサーを通過した。

 黒瀬は首を傾げながらも、椅子から身を乗り出して少年の観察を続ける。

 少年は出入り口近くにあるコインロッカーの前に立った。慣れたようにその内の一つの戸を開けて、どさどさとその中に本を入れた。それから、少年はカギを閉めることもなくプラスチックの透明な扉をぱたんと閉じて、満足したように日差しの中へと走り去っていった。その一連の動作を見届けた黒瀬は、ふうむと唸りまた首を捻る。バカでも首を捻ることはできるのだ。

 黒瀬は総合カウンターを見る。司書たちがぼんやりと突っ立っていた。特に少年を怪しく感じなかったようだ。

 黒瀬はむーんと考え始める。もぞもぞと身体を揺らしながら、顎を掻いたりして、時を見逃していく。そうこうしているうちに山田がやってきて、黒瀬の頭をはたいた。ぽこんっと小気味のいい音がした。

「休憩終わり。さっ、帰ろ」

「ういっす」と黒瀬はこともなげに立ち上がる。

「借りたい本、あと一冊あったんだけどなあ」と言いながら山田は手元のカバンを覗き込む。十冊ほど入っていた。黒瀬はそのカバンをすばやく奪った。

「まあ、今日のところは勘弁してやりましょうよ」

「むむーん。借りたかったんだけどなあ。『やっぱり七号室のなぞ』」

「……なんすか、それ。駄作の匂いしかしないんっすけど」

「『またまた七号室のなぞ』の続編。あの妙な終わり方がいいんよ。通の味というかなんというか」と言いつつ山田は手ぶらで出口に向かう。黒瀬もその後を追った。彼女たちはセンサーに笛を吹かれることもなく、自動ドアの外に立った。そのときに黒瀬はコインロッカーを見た。ある一つのロッカーの中には、六冊の本が背表紙を見せ付けるようにして並べてあった。

「おっ」と黒瀬は呟き、立ち止まる。

「なにやってんの?」と山田もつられて、振り返った。

「ありましたよ。『やっぱり七号室のなぞ』」

「はあ?」

「こんなかに」と黒瀬はロッカーを指差した。

「なになに?」と山田は黒瀬の元に戻る。黒瀬はロッカーの前を山田に明渡しながらぼやいた。

「なんだ、『太公望の生存戦略』って」

「あっ、ほんとだ。あるじゃん」とロッカーの中を見た山田は驚いた。

 ロッカーの中には以下の六冊が入っていた。左から順に書き下していく。先ず初めに『現代思想と時間論』。次に山田の獲物である『やっぱり七号室のなぞ』があり、その右隣には『子ども十字軍とヴェニスの商人』というワケのわからない単行本が居座っている。そして、『動物園における生物学』、『太公望の生存戦略』と並び、最後、つまり正面から見て右端には『南の国から六万里』という意味深長なタイトルの文庫本が置いてある。

「これ、取っちゃっていいのかな。カギもかかってないし」と山田はそわそわし始めた。

「まあ、ダメでしょうね」

「でもさあ、ここに飾っておくくらいなら、読まれた方が本のためじゃないかなあ、ろっくん」

「まあ、本も読まれたいかもしれませんけど」

「じゃあ、いいよね」と山田は扉を開けて、ためらうこともなく獲物に手をかける。

「でも、どうするんですか? たぶん一回返さなきゃ借りられないと思うんですけど」と黒瀬は顎を撫でつつ呟くように言った。山田は手を止める。

「……、どういうこと?」と山田は黒瀬を見上げる。

「いや、だってその本、ココに置いてあるんですよ」

「うん、だから?」

「つまり、貸し出されてるってことです」

「うん。ちゃんと返せば問題ないわ」と山田は目を据わらせて言い放つ。

「いや、そういう問題じゃ……」

「ううん、そういう問題なのよ、ろっくん。悲しいことにね」と言い切った山田は獲物を引き抜き、黒瀬の持ったカバンに入れた。その様子を呆れたように黒瀬は見る。

「よし、帰って、ちゃんと読まないとね」と山田は嬉しそうに歩き出すが、黒瀬は立ち止まったままロッカーの中身をぼんやりと見ている。それから、鼻で何かを笑ってから山田に声をかけた。

「山田先輩、貸し出しカード貸して下さい」

「はあ? なんで?」と山田は振り返ってめんどくさそうにポケットを探り出す。

「まあ。気にせずに貸してくださいよ。本借りるだけだから」

「ふん、はやく借りてきてね」と言って山田はカードを黒瀬に渡した。

「五分くらいかかるから、ロビーで待っててください」

「言われなくても、そうするよ」と山田は黒瀬を置いて、ロビーに戻っていく。黒瀬は再度、ロッカーの中を見た。それから、ぽつりと呟く。

「古風なもんだ」

 黒瀬は二階に行き、『南極海の七不思議』という本を発掘してきた。誰からも読まれたことが無さそうな本であった。実際、昔の名残である貸し出しカードには誰の名前も書かれていない。よほど深く掘らなければ、出てくることはなかっただろう代物である。だが黒瀬は満足そうにその本を司書に渡し、山田のカードを利用して借りた。妙な男である。隣で黒瀬が借りるところを見て山田もそう思ったのか、こう尋ねた。

「なに、ろっくん。どうしちゃったのさ。そんなネジがだいぶ弛んじゃってる本借りちゃって。暑さにやられたの?」

「前に読んだことありますがけっこう真面目な内容でしたよ」

 黒瀬は五冊の本が入っているロッカーを開けて、山田が強奪した本と同じ位置にその本を入れた。

「それ、なんか意味あんの?」と山田は首を傾げる。

「まあ、ただのおまじないですかね。あるいは、埋め合わせ」

「はあ?」と山田は黒瀬を睨む。

「よし、じゃ帰りますか」と黒瀬はその睨みを無視してとっとこ外に出ようとする。山田はむむーんとひと唸りして、ロッカーを睨みつける。六冊の背表紙たちが山田を睨み返してきた。

「山田先輩、帰りますよ」と一足先に外に出た黒瀬は日差しに目を細めながら催促する。

「わかったよ、もう」と山田は駆け出して、黒瀬にとび蹴りをかました。そして軽やかに着地した山田は太ももを擦る黒瀬に聞いた

「ねえ、なんであそこにあんな本入れたのさ」

「だから、ただのおまじないですよ。特に意味はないですって」と黒瀬はかすかににやける。

「うそ。おまじないってのは意味があるからやるのよ」

「はあ、ただ同じサイズの本を入れただけですよ。それだけ」

「ほんと?」

「ホントです」

「むむーん。なんか怪しいな」

「はあ」と黒瀬はため息をついて歩き出した。山田もその後ろをついていく。国道を二人はとことこと歩いていった。信号をいくつかやり過ごした後、山田は何かを思いついたように立ち止まった。

「あ、そうだ。ねえ、マープルに寄ろうよ。すごく冷たいあいすこーひー飲もうよ」

「マープル?」と黒瀬は立ち止まった山田を見た。

「あれ、行ったことなかったっけ?」

「ないっすよ」

「商店街の喫茶店だよ。プリンがおいしいよ」

「はあ、お金あるんですか?」

「あるよ。あるあるだよ。おごっちゃうよ」と山田は無い胸を叩きながら、ふふんと笑った。

「ならいいっすけど」と黒瀬はポケットの財布に手をやりながら答えた。

「よし。じゃあ、れっつらごーだ」と山田は駆け出して、結局信号につかまった。

 二人は国道を越えて、商店街に行き着いた。その通りには夏の日差しのなか人々が行き交っている。駄菓子屋の前で半ズボンの少年たちが群れていた。その横を行く黒瀬の耳にこんな声が届いた。ミズバクを買い占めろ、ナンコウで全面戦争だかんな。はしゃぐ少年たちを目端で眺めながら、黒瀬は懐かしそうに笑った。端から見ると不気味な笑いであった。そんな不審者に山田は尋ねた。

「ナンコウってどこよ?」

「南公園でしょ。知らないんっすか?」と黒瀬は驚いた。

「えっ、あそこってミナミじゃないの?」

「なんすか、その帝王が居そうな略し方は」

「みんなそう言ってたけどなあ」と山田は首を傾げながら、立ち止まった。喫茶店マープルに着いたのだった。黒瀬に説明することなく山田は木製のドアを開ける。カランカランと鈴が鳴った。涼風が二人を包んだ。黒瀬はにまにまする。いやらしい笑みである。店長らしき人物がカウンターに座って、本を読んでいた。客は居なかった。ショパンのノクターンがぽろんぽろんと流れている。黒瀬は閑散という言葉を体現している店内に軽く物怖じしながら、後ろ手でドアを閉めた。山田は、おっすマスターと明るく気軽に挨拶した。マスターと呼ばれた白髪交じりの男は柔らかく微笑んで、読んでいた本にしおりをして立ち上がった。

「いらっしゃい」

「いやあ、外は暑いね」と山田は笑いながら通りに面した窓際の席を陣取る。

「夏ですからね。昔はもう少し涼しかったんですよ」とエプロンをした初老の男性はコップとおてふきを二つ持ってくる。

「私は、あいすこーひーとプリン。ろっくんは?」と山田はテーブルに置かれた水をさっそく手に取る。

「あぁ、いや、ううん、えっと、じゃあアイスココアで」とメニューを探し当てて黒瀬は答えた。

「かしこまりました」と店長は微笑み、カウンターの奥へと引っ込んだ。

 黒瀬は店内を見回した。ブラウンとくすんだ白が室内の基調だった。テーブルも椅子もカウンターも棚も、すべて焦げ茶色で木製だった。床も当然のごとく木材で敷かれていた。気安いわけでもなかったが、格調高いわけでもなかった。落ち着いてるなと黒瀬は呟きながら、顎をなでる。そんな黒瀬の正面では、山田がおてふきで顔をごしごしと拭いていた。爺くさい少女である。

「いやあ、涼しいねぇ、まったく」と山田はおてふきを畳みながら、独りごつる。

「あんなとこにペットサロンってありましたっけ。ペットの家庭教師やりますとか書いてますけど」と黒瀬は窓の向こうを指差した。黒瀬の指の向こうにはペットサロンが確かにあった。デンタルクリニックという看板を掲げていても違和感はなかろう外装であった。山田は、お冷をごきゅごきゅと飲み下しながら黒瀬の指先を見た。

「ぷはっ、水うまっ。うんん? あそこね、最近できたらしいよ。さわやかイケメンが店長らしくてね、ペット好き有閑マダムたちにちょこっと有名らしいね」

「……、よう知ってますね」

「まあね。子ども会とかの付き合いでぽつぽつ聞こえて来るんだわさ」

「へぇ、なるほどねえ」と黒瀬が呟き、顎をなでたときにペットサロンから男が出てきた。背の高い細身の青年だった。彼は三匹の犬を連れて出てきた。散歩に行くようであった。笑顔と挨拶を振りまきながら彼らは歩き去っていった。

「なるほど。さわやかだ」と黒瀬は感想を漏らした。

「動物に好かれそうな感じ」と山田も評価する。

「おまたせしました」と二人の間に割り込む声がした。その声の持ち主であるエプロンをかけた男はテーブルに二つの大きめなグラスと一つのプリンカップをこつんこつんと置いていく。

「ありがとー。仕事が早いねえ」と山田は無邪気に笑った。店長もその笑みに微笑みを返して答える。

「暇な店ですから」

「そこがいいのよ」と山田はガムシロップとミルクをグラスにどばどばとぶち込みながら言った。

「ありがとうございます」と店長はお辞儀をする。顔を上げるが、立ち去る気配はなかった。黒瀬はぼんやりとそのふさふさした白い髭をたくわえる顔を見上げた。その顔はさらににっこりと皺を刻む。

「当店では、ただいま夏期キャンペーンを行っております」と店長は二人に言った。

「へえ、どんなキャンペーンですか?」と黒瀬はちゅるちゅるとすでにアイスコーヒーを飲みだしている山田の代わりに聞いた。

「クイズで半額、というやつです」と店長は黒瀬ににやりと笑いかけた。

「へえ、おもしろそうですね」

「ありがとうございます。それで、クイズは伝票の裏に書かれていますので、会計をなさる際にその答えをお申し付けください。正解であれば代金を半額とさせていただきます」

「ふっとぱっらじゃん、マスター。プリンもうまいし言うことないねえ」と山田はプリンを頬張りながら言う。

「ありがとうございます。それではごゆっくり」と店長は軽くお辞儀をして、カウンターへと戻った。山田はぱくぱくとプリンを食している。黒瀬はアイスココアをからんからんとかき混ぜながら伝票の裏を覗いた。流麗な筆跡で、こう書かれていた。

『アイを失うと、甘くなるものはなに?』

 それを見た黒瀬はふうむと唸ってから、ココアを飲みだした。プリンを食べ終えた山田はがさごそとカバンを漁って、釣果である図書館の本を出した。その文庫本をぺらぺらとめくる。

「うん。ちょっとだけ読んどこ。ちょっとだけ」と独りごち、山田は本の世界へと埋没していった。カフェインが山田のやる気を少し刺激したらしい。現実に残された黒瀬は特に気を悪くするふうでもなく、むしろ黙ってくれてありがたいという感じで、ちびちびとココアをなめていく。それからもう一度伝票を見やってから、わからんと呟いた。

 ショパンが五曲ほどピアノを披露したのち、店内に客がやってきた。黒瀬は暇だったので、通りにその二人の男女を見かけたときから観察していた。二人はアイスコーヒーを頼んでから奥の席へと座った。大学生くらいのカップルのように見える。彼らはぼそぼそとテーブルに座って話し出した。黒瀬は暇すぎるので聞き耳を立てた。暇は人を素人探偵にするようだ。この定理からやじ馬はみな暇人であるという系が出てくる。

 会話の端々はピアノの音色の狭間から浜辺のさざ波のようにして聞こえてきた。スピーカーは。うん。大丈夫。許可取った。市役所。練習しなきゃ。明日も。お待たせしました。ああ、ありがとうございます。そして会話は途絶える。黒瀬は断片をつなぎ合わせて、彼らは何らかのイベントをやるのだろうと結論付けた。それ以上のことはわからなかった。黒瀬は顎を撫でて、思案に暮れる顔を作った。はたから見れば、何も考えていないようなうつろな表情である。その視線はゆらゆらと揺れていて、口は少しぽかんと開いている。右手は無精髭を愛でるかのようにして、顎を行き来している。空調はどんなバカ面にも等しくかかる。乾いた風は開いた口の中に侵入し、唾液を蒸発させて黒瀬に口をもぐもぐと動かすように強いた。アホ面が崩れて、黒瀬はココアに手を伸ばす。その正面では山田が本にしおりをして、う~んと伸びをしている。それからあーあ、とあくびをした。山田は目を擦って、溶けた氷が主成分のアイスコーヒーを一気に飲み干し、眠いようと独り言を言う。

「じゃあ、帰りますか」

「うん」と素直に言って山田はポケットをまさぐった。ぱたぱたとズボンの上をはたいてから首をかしげて、ポケットを外に出した。白い裏地が出てきた。それだけだった。

「ないよ」と山田は端的に状況を述べた。

「はあ?」

「サイフがない。落としたのかなあ。家かなあ。もういいや。眠い、帰りたい」と山田は机に突っ伏す。

「いやいやいや、何言ってんすか。金払わなきゃでれないっすよ」と黒瀬は自明なことを述べる。

「うん。じゃ、ここで寝る」と山田は机で寝る態勢に入った。それから、すやすやと山田は眠り始める。わずか二秒のことである。黒瀬は唖然とその様子を見届けてから、自身の財布を確認した。伝票の代金を見る。半額になれば二人分を払えそうだった。少なくともアイスココアだけの料金は支払えた。山田を置いて帰ればいいだけだった。黒瀬はそうしなかった。代金を半額にしようとしたのだった。

 黒瀬が伝票の裏の文字とにらめっこを開始して数十分がたった。カップルたちはいなくなっていた。ショパンは楽屋に帰っていた。代わりにベートベンが苦りきった顔をしてぽろぽろと月光を弾いていた。カウンターにはぺらぺらと本を読んでいる店長がいる。山田は苦しみを知らないような表情で、安眠をむさぼっている。黒瀬はぽりぽりと頭を掻き、ぶつぶつと呟いている。

「愛がない。いや、アイがない。そう。アイ、だ。うしなう。その何かにはアイがある。アイがなくなる。甘くなる。甘い。あめえ。水アメ、砂糖、ショ糖、ぶどう糖、スクラロース、サッカリン、ベンゼン環。関係なさそう。アイ、アイ、アイ」と三回ほど愛を唱えてから口の動きを止めた。それから、にやりと笑った。アイスココアを飲み干してから、黒瀬は山田の頭をぽんと叩いた。もぞもぞと山田は体を動かした。

「山田先輩、帰りますよ」

「う~ん」と山田は伸びをした。

「会計済ませてきますね」とにこやかに言って、黒瀬は立ち上がりレジの前に立った。店長がやってきて、にこにこと黒瀬を見た。

「わかりましたか?」

「えぇ、目薬です」と黒瀬は伝票を白髪の男に渡す。

「半額とさせていただきます」と店長はにっこりと笑って、レジを弾いた。

 こうして、二人は無事に店を出ることができた。山田は黒瀬に感謝すべきところなのだが、特にそういう気配を出すこともなく家路を眠そうにとことこと歩いている。黒瀬は度量が深いのか鈍いのか判断しかねるが、特に山田の反応を気にする様子はない。むしろ、財布の中身が少し減ったのにもかかわらず喜色がにじみ出ている。その不審さに犬が気付いた。黒瀬は唐突にわんわんと吠えられる。

「こら、ポチ」と飼い主の少女が制止する。犬はそれでもわんわんわんと黒瀬に吠えた。黒瀬は首を傾げながら、その犬を見た。ポチと呼ばれている犬はやはり柴犬だった。なぜだか知らないが、その柴犬は嬉しそうに吠えていた。見様によっては黒瀬を挑発しているようであった。犬にもなめられるのが黒瀬である。先を歩いていた山田が騒ぎを聞きつけて戻ってきた。

「何、騒いでるのよ」と山田は保護者のようにして黒瀬をたたく。

「いや、こいつが勝手に吠えてるだけですよ」

「アンタが怪しい動きしてるからでしょ」

「あっ、まーやだっ」と飼い主は柴犬を宥めるのをやめて、山田に近づいた。犬も吠えるのを止めて、山田を見た。山田は少女を見る。子ども会でよく遊ぶ小学生だった。

「おっすおっす。賢そうな柴犬を連れてたのはのぞみんか。楽しんでるかね、夏休みは?」と山田は自分と同じくらいの背たけである少女の頭を撫でた。その隣で黒瀬は屈みこんで、柴犬とにらめっこをしている。

「まあまあかな。あのさ、まーやはこんどの子ども祭りもくるの?」

「いくいく。もちのろーんさ。まーやは楽しげのとこにはふらっとあらわれんのよ」と怪しげなテンションで山田は答える。黒瀬は柴犬の頭に手をのせようとするが、ポチはぐるると唸ってそれを許さない。

「ほんと? やったあ。こんどもなんか面白いことしてくれるんでしょ」

「まっかせなさーい。祭りをアゲアゲ、ウキウキにしてやんよ」と出る予定が先ほどまでなかった山田はピースしながら言った。柴犬が吠え始める。黒瀬が無理に撫でようとしたからだった。

「こらっ」とのぞみはリードを引いて、ポチを黒瀬から離した。

「散歩中なの?」と山田は黒瀬の頭をたたいてから訊いた。

「うん。南公園に行くの。ポチ、あそこが好きだから」

「ふ~ん。気を付けてね」

「うん。バイバイ」と手を振りのぞみはポチと共に去って行った。ポチはちらちらと黒瀬の方を見てから、わんわんと吠えて公園のある方向へと駆け出した。のぞみはまってよーと言いつつポチに牽かれて駆けていく。屈んだままの黒瀬はその背中を見ながら、元気だなあと呟いた。

「ろっくん、おぶって」とその横で目を擦りながら山田はぼそりと言った。

「はあ?」

「いまので体力を使い果たしました」と片言のように山田は言って、屈んでいる黒瀬の背中に乗っかる。こうして黒瀬は山田を背負って道を歩くことになる。いつものことだ。

 そして、以上のことがポチが誘拐されるちょうど一週間前のことである。

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