似た者どうし
(あ、汗くさい)
久しぶりのライブの帰り、初めてそう感じた。思わずシャツの襟をつかみ、自分のにおいをかぐ。違う。自分で自分のにおいは分からないとよく言うが、くらべれば自分のかどうかは分かる。私は、助手席に座る彼女の横顔を見た。
(汗のにおいって、遺伝子が似てるとくさく感じるとか、どっかで読んだな)
遺伝子が遠い者どうしが子孫を残した方が有利だとかなんとか、そんな話だったはずだ。体臭が気になるのは、近縁で交配するのを防ぐ効果があるとか。つまり、彼女と私の遺伝子は、まずまず近いということなのだろう。
(まあ、子供つくる訳じゃないから関係ないけどね)
そう、彼女と交配、もとい子づくりをするわけではない。私たちは、ただの友達だ。そういえば、遺伝子が近い人を友達に選ぶとも書いてあったような。
何より、女どうしで子孫を残すのは、まだまだ科学的に簡単ではないだろう。将来は分からないけれど。
「あー、シャワー浴びたーい!」
彼女が、ばふばふ音をたててシャツの胸元に空気をとりこんでいる。
「もうやだー、おふろ行こうよー」
「え」
「スーパー銭湯とかさー」
私はためらった。スーパー銭湯、おふろ、裸。家族や赤の他人なら気にしないけど、友達だとなぜか恥ずかしい。正直、自信をもってお見せできる代物ではない。
「あ、恥ずかしい?」
「うん、ちょっとね」
「そっかー、私は気にしないけどなー」
それと、もうひとつ。体を洗っても、汗でビショビショの服はそのままだ。特に下着は、一度脱いだらまた着けたくない。
「ノーブラでよくね? 帰るだけだし」
「ひぇ!?」
変な声が出た。
「パンツは売ってるっしょ」
「……」
「前見て、前」
運転中なのに、思わず彼女の顔を見つめてしまった。あわてて向き直る。
「汗くさいまま、あと一時間帰るよりいいじゃーん! ねー入ろーよー気持ちいいよー」
あと一時間、を運転するのは私だ。帰りが遅くなるし、ふろ上がりに運転するのも、ちょっとしんどい。あったまってリラックスしたら、眠くなる危険性も出てくる。
「あ、運転する人は疲れるよね? でも、寝ていいからさー! 待ってるからーねー入ろー」
(くっ……かわいいなあもう!)
悔しいことに、彼女は甘え上手なのだ。他の人が言ったら「わがまま言うなバーカ」と思うくらいのレベルでも、なぜだか許せてしまう。いいキャラしてんなあ、私の引き出しにはないわあ、と毎回、軽く嫉妬する。
「入ってけば、帰ったらそっこー寝れるよ?」
なんだかもう、これを却下したら私が分からず屋みたいだ。疲れと裸とノーブラとパンツ入浴料貸しタオル代、もろもろひっくるめて秤にかける。
「……極楽湯でいいのね?」
「うん! いいよー!」
満面の笑み。やはり、今日も勝てなかった。少しため息をついて見せつつ、内心それほど嫌ではない自分も、いつもと同じだ。彼女にうまく操られているのか、それとも私がドMというやつなのか。
決まったからにはしょうがない。入浴料と貸しタオルセットの券を買い、受付を通り、売店を物色する。そんなに選べるほど種類があるわけもなく、結局、色違いの商品を手に取った。
「お揃いのおパンツー!」
彼女は、とにかく楽しそうだ。ショーツとか言え、と突っ込もうかと思ったがあきらめた。地味で無難な色柄のパンツを前に、なんでこんなにはしゃげるのか。ライブで出たアドレナリンの余韻かもしれない。
脱衣室に入り、ロッカーに荷物を入れる。私がどこを隠そうかともぞもぞしている間に、彼女は脱ぎ終わって体重を量っていた。
「やせてたー! ライブの効果だね! 先に行ってるねー」
私が恥ずかしがるのを気にしてくれたようだ。こちらには視線を向けずに歩いていく彼女を、私は体重計に足をかけながら見送った。プリっとしたお尻がかわいい。少し遅れて大浴場の引き戸を開けると、掛け湯を浴び終えて浴槽に入るようだ。湯気の向こうで、彼女の裸は美しかった。
(なんで、彼氏と別れたんだろう?)
彼女は先月、二年つきあった彼氏と別れた。彼は、彼女のことが大好きだった。彼女も、彼のことが好きだった、はずだ。なんとなくだけど、結婚の話も出ていた。それが、突然の破局。泣きながら電話をかけてきた彼女は、あのとき何と言っていただろうか。
くっつかない程度に近くで湯につかり、隣どうしで髪と体を洗い、それぞれ好きな浴槽をめぐる。見知らぬ人たちの裸が視界に入りすぎて、だんだん自分の裸も気にならなくなってきた。大きな全身鏡に映りこんだときには「うわああ引き締まらない体ー!!」と衝撃をうけたが、現実は受け止めざるをえない。
失礼を承知で言うが、彼女の体もけっしてナイスプロポーションではない。だが、私にはない美しさがある。それが何かは分からない。
彼女が静かになったことに気づいたのは、ドライヤーをかけ終わったあたりだった。あれほど高かったテンションが見る影もない。アドレナリンがお湯に流れたのではないか、というくらいだ。
温まったら疲れが出たのかもしれない。休憩コーナーの畳の上に座り、彼女はフルーツ牛乳を、私はコーヒー牛乳を飲む。少しでもカフェインをとっておけば眠くならずに帰れるかと思ったのだ。一応、バッグにはメガシャキも入れてあるが、こんな時間に飲んだら朝まで眠れない気がする。体の熱と湿気が飛んだら、早めに帰ろう。
牛乳ビンを片づけに行った彼女は、戻ってくると隣に座り、背中合わせに寄りかかってきた。驚いた。あまり人の体に触れたがるほうじゃないのに。
「どうしたの」
「ううん」
あいまいな返事で、さらに寄りかかってくる。もう一度聞こうとして思いとどまった。背中ぐらい黙って貸しておけばいい。
「わがまま言ってごめんね」
しばらく動かないので、寝ているのかと思っていた。
「わがまま?」
「おふろ寄ろう、とか」
「ああ」
湯船につかりながら、思えば彼女も、私の汗のにおいを感じていただろうと気づいた。人の汗くささばかり気にして、失礼なヤツだと自分を叱る気持ちになったので、わがままとかは忘れていた。
「いや、私、汗くさかったでしょ? 入ればやっぱりさっぱりできたし、べつにいいよ」
「やっぱりさっぱり、ってなんかリズムいいね」
「あー、ほんとだねー」
「……」
「どうしたの?」
私に寄りかかっていた体を起こし、彼女は手を頭の上で組み、大きく伸びをした。
「やっぱりさっぱりしたから、帰ろっか!?」
車が市内に入った。ここまで来れば、家まではあと十五分ほどだ。
「ありがとうね」
またも突然、彼女がつぶやく。十分ほど前から静かだったので、眠ってしまったのだと思っていた。
「んー? 何?」
「運転もだけど、おふろ寄ってくれて」
「あー、それは」
「いや、聞いて」
一呼吸おいて、彼女は話しだした。
「実はさ、最後のデートで寄ったんだ、あそこ」
信号が点滅する交差点にさしかかる。こちら側は黄色だ。少しスピードを落として通過する。
「けっこう寄ってたの?」
「いや、それ一回きり」
私の頭に疑問がよぎる。聞いていいものか一瞬悩んだが、すぐに口からこぼれ出た。
「えと、ラブホ寄ればよかったんじゃないの? 次の日、仕事だったの?」
「ううん、もうね、そんな気にもならなかった。向こうは分かんないけど」
ちらりと左側を盗み見る。彼女は前を向いていた。
「なんでだろ、エッチどころか、体さわるのも、どうでもよくなってきちゃって」
「嫌になった?」
「ううん、嫌ではなくて。ほんとに、どうでもいいや、って感じだった」
私は、元彼との日々を思い出していた。一年しかもたなかったけれど、一緒にいる時間はできるだけ近くにいた。肩と肩が触れるくらいの距離で座っているだけで幸せだった。どうでもいい、なんて思ったこともなかった。
「倦怠期の夫婦みたい……」
「そう、そんな感じ! 恋とか、過ぎちゃったみたいになったの」
「二年で?」
「一年半くらいで」
「えー……」
「早いよねー? あたしさー、なんでかなって考えてたんだよね、ずっと。そんでね、分かったんだよね」
だんだん早口になってくる。言いたいことがたまったしるしだ。私は相づちをうち、彼女の次の言葉を待った。
「似た者どうしだったじゃん?」
「うん」
「それがよくなかった」
「えっ、趣味や好みも合っててうらやましかったのに」
「楽しかったよ? 変な気もつかわなくてよかったし」
ほんとうに、いつも仲良しのカップルだったのだ。恋人に会うたびについつい気合いを入れすぎて不自然になる私からすれば、自然体で隣にいられる二人は特別な運命の下にいるのだと感じられた。だから、彼女から「さっき別れた」と連絡があったとき、傷つけると思いながらも聞き返さずにはいられなかった。
「でもさ、あっという間に新鮮さがなくなっちゃった。刺激が、毎日なくなってくんだよ、すごいスピードで。男の自分とつき合ってるみたいになってきた。彼も、おんなじように感じてたみたい」
「自分と?」
「そう。恋、じゃなくなっちゃった。ドキドキしなくなって、会いたくてさみしい気持ちもなくなって。美味しいものとか面白いものとか伝えるのも会ったときでいいの、予想通りのリアクションだから。自分だもん」
そうなのか、そんな風になるのか。似た者どうしに、そんな落とし穴があるのか。私は、元彼とは全然似た者どうしではなかった。趣味も好みも、九割は合わなかった。それも一因になって別れたので、なおさら彼女たちのことはうらやましかったのに。
「恋のあとに愛になる、って言うけどさー、ダメだったわー。あたしも彼も、愛に変えられなかった。今思えば、未熟者だったかなー」
早口でそこまで言い終えて、彼女は大きく息をついた。大きく短く吐いた息は、一仕事終えた安堵の色合いで車内に響いた。
「なんでだろ……好きだったのになー……」
次の角を曲がると、間もなく彼女の家だ。なんとか眠くならずに送り届けられそうで、少しホッとする。
「今日は、ほんとにありがとうね」
「え? あー、いいよいいよ」
「おかげで、記憶上書きできたよ!」
「……はい?」
玄関前で車を止める。足元に置いていたバッグを抱え直し、彼女がにこやかな顔をむけてきた。
「あそこのおふろ、前回が初めてでさー。『元彼と最後に行った場所』って思い出だけ残ると、通るたびにつらいじゃん? だから、誰かと行って上書きしようって、実は思ってて」
「あ? え、そういうこと!?」
「いや、もちろん、汗だくだったからってのは本気だったよ?」
はっとした。彼女が珍しく私に寄りかかってきたのは、彼にしたことと同じだったのではないか。触れあって、どうでもよくて、その時に心の中で別れの決意が固まったのではなかったろうか。
「わがまま言ってごめんね、今日はありがとう! また行こうね、おやすみー」
車のドアを優しく閉め、彼女は手を振る。私は窓を少しだけ開けて「おやすみ」と小さく声をかけ、手を振った。深夜の住宅地を抜け、まっすぐな農道を自宅へ向かって走る。
下世話な話だが、彼女は、彼の汗のにおいを、どう感じていたのだろう。私はどうだったろう。元彼のにおいなんて、特に記憶に残ってはいないけど、遺伝子が遠かったのだろうか。その点だけは、相性がよかったのかな……古傷が、ちょっぴり痛む。
駐車場に入る。うちを含め、周りの家はみんな真っ暗だ。早々にエンジンを切る。
ぼんやりした光が色を変えながら点滅している窓がある。またテレビつけっぱなしで寝たな、あそこのおばさん。
バッグとライブのグッズ、さらにブラジャーが入った袋を、ガサガサいわないようにしっかり抱えて玄関へ急ぐ。さっきから、なんだか心がふわっとしている。
彼女が、記憶の上書きに私を選んでくれたことが、じわじわと胸にしみる。それほど深い意味はなく、今日たまたま思いついたことだとしても、それでも、嬉しい。
そっと鍵を開け「ただいま」とささやく。親を起こさないように、そっとドアを閉めて戸締まりをする。おふろに入ってきたから、着替えればすぐに寝られる。彼女のわがままに感謝しつつ、私はそっと階段をのぼった。