8
翌朝。眩い朝日は東の峰巒から身を乗り出し、それを喜ぶかの様に小鳥達は囀りの歌を紡ぐ。
天窓から降り注ぐ光は閉じられた環那の目蓋を通し、朝を告げた。
微睡んでいた意識が覚醒を始める。環那は未だ少しぼんやりした意識の中、寝台を下り、起床の準備を始めた。
身支度と朝食を済ませ、椅子に腰を下ろしたそのとき、控えめに扉が叩かれる。
「環那、起きているかい?」
扉越しに聞こえてきたのはグレイシアの声だった。
そう言えば昨夜、彼は環那を迎えに来ると言っていたか。
「起きています。」
環那がそう答えると、扉は静かに開く。そこから、グレイシアが姿を現した。
初対面の時と変わらない微笑を湛えて、環那との距離を詰める。
「お早う、環那。ヘイルから聞いたよ。もう朝食は済んだんだって。」
「あ、はい。お部屋に運ばれて来ましたので、もう頂きました。」
そう、知らぬ内に運ばれて来ていたのだ。
身支度を済ませ、リビングルームへと足を踏み入れたそのときには、既に作りたての料理があった。
恐らくは執事や侍女が用意してくれたのだろう、と思いながら、環那は朝食を済ませたのだった。
「そう。じゃあ、もう準備はいいの?君の準備が整い次第、この地を離れることになるからね。帰って来れないこともないけれど、決して近くはないから………君の準備を待つよ。」
そのグレイシアの言葉に環那は首を横に振った。
余り長く留まれば、離れ難くなる。
それならば、最後に家族に顔を見せることもなく、さっさとこの地を離れた方が良い。
この国を出て、知らない景色が見えれば、名残惜しい未練も薄まることだろう。
それに、環那は準備する様なものも持ち合わせていないのだ。
「そうか。―――ヘイル!」
慣れた手つきで環那の髪を撫で、グレイシアは唐突にヘイルの名を呼んだ。
刹那、直ぐさま扉が開き、ヘイルが白い何かを持って入室してきた。
そして、一直線に環那の前まで来ると、手に持っていた白い外套を環那に被せ、ずり落ちない様に固定する。
暖かい外套に包まれた環那は疑問に首を傾げた。
今は温暖な気候の春だ。外套が必要な時期はもう過ぎ去ったはず。
纏った外套に怪訝な表情を浮かべる環那に、グレイシアは口を開く。
「僕達の住むジエロ領はここよりもずっと寒冷だ。それに君は僕が連れて行く。出来るだけ君には負担を与えない様に飛ぶけれど、肌の露出があれば体感温度も下がってしまうからね。」
グレイシアの説明に、環那は納得した様に頷いた。
彼等、氷竜の住まうジエロ領は大陸の東北の山岳地帯だ。馬車などでは行けるはずもない。
そうか、彼の背に乗って行くことになるのか。
環那は少しばかり目を瞬かせながら、グレイシアを見た。
ヘイルと何か話し合っているグレイシアの顔は真剣そのものだ。
恐らく、環那のことで話し合っているのだろう。
それから少しして話が纏まったのか、グレイシアは環那に視線を寄越し、氷晶の瞳を細めた。
「さあ、行こうか。環那、僕の花嫁。」
グレイシアは自然な動作で環那の手を取り、扉を開け放し、バルコニーへと導く。
バルコニーに足を踏み入れるとグレイシアは環那の手を離し、自分から少し距離を置く様に言った。
次の瞬間、グレイシアの身体から光の粒子が弾け、そこには一柱の竜が鎮座していた。
昨日の夕陽の中に現れた白竜とは、また雰囲気が違う。
環那の目の前にいるのは茜色を映した白竜ではなく、蒼天の氷鱗を纏った白竜だった。
グレイシアは環那の足場を作る様に片翼を地に付ける。
どうやら、そこから乗れということらしい。
初めての経験に戸惑う環那に、早く触れてくれとばかりにグレイシアは擦り寄る。
意を決して、環那は静かにその身体に乗った。
環那の下の氷竜は鋭い氷晶の瞳をこれ以上ない程に輝かせて、キュルキュルと喜びの声を上げる。
いつの間にか竜体になっていたヘイルが先に翼をはためかせ、大空へと飛び立つ。
そんなヘイルに続く様に、グレイシアも大きな飛膜を広げ、緩やかに地上を蹴った。