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「さあ、僕の名を呼んで。環那。」
依然、環那の滑らかな黒髪を愛でながら上品な、それでいて妖艶で誘惑的な声色でグレイシアは囁いた。
思わず環那の肩がぴくっと揺れ動く。自身でもわからないものが背中を這い上がり、脳を貫いたのだ。
彼の纏う妖しい雰囲気に流されて、環那は口を開いてしまう。
「………グレイシア、様。」
自身の名を紡ぐ環那の声が心地良い、とばかりにグレイシアは氷の様な貌を綻ばせて、手に取っていた一房の黒髪に口付けた。
「ずっと、待っていたんだ。君が僕の名を呼んでくれる時を。十八年なんて、僕達からすれば一瞬にも満たない年月だけれど………長かったよ。君が僕の元に来てくれるまで。」
念願の花嫁を得た竜は、まるで純情な乙女の様に頬を染め、熱を帯びた恍惚の瞳を惜しむことなく環那に向ける。
初めて向けられる異性のそんな視線に、環那はたじろいだ。
なんて表情をするのだろう。
それではまるで、本当に自分に恋をしている様だ。
最初に見た彼は、美しい。ただ一言、それのみの表現しか出来なかった。
それはこの世界にこれほど美しい個体があるのだろうかと、疑問に思うほどに。美醜にさして興味を抱かない環那でさえも、彼は圧倒的に美しいと思う。
人型に化けた竜は、残酷なまでに美しいという。それは同性も異性も問わず、全ての生き物を魅了する。
彼もその例外に漏れず、非常に美しかった。
その氷の化身たる冷たい美貌は環那の言葉一つで甘く咲き綻ぶ。
そのことに環那は戸惑いを感じていた。
「ふふ、食事にしようか。僕の我侭で君を待たせてごめんね。」
そう言うと彼は向かいの席に座る。
そうして二人だけの晩餐が始まった。ぎこちなく環那はカトラリーを手に取り、食事に手を付け始める。
食卓の中央に飾られた豪華な燭台の上から、蝋燭の灯が陽炎の様に揺れるのを視界に入れながら、環那は視線をやや下に向けた。
「何故、俯いてしまうの?」
グレイシアは気分を害した様子は無く、ただ純粋な疑問として環那にそう問い掛けた。
彼は気付いていないのだろうか。
自身の視線が一瞬たりとも外されることなく、環那で固定されていることを。
「気分でも悪い?」
「いいえ。そういう訳では……。」
ただ一言、貴方の視線が気になります。
そう言えれば、どんなに良かったことだろう。
しかし、あいにく環那は母国でそういう教育はされていない。
淑やかに、謙虚でありなさい。それが母国での女性の振る舞いの教えだ。
「……ああ、僕の視線が気になってしまったかな?」
そのグレイシアの言葉に環那は顔を上げた。
ふふ、と控えめな苦笑を口元に浮かべているグレイシアが視界に映る。
環那のその様子は、グレイシアの言葉を肯定している様なもので。
「ごめんね。年甲斐も無く浮かれているんだ。余りにも可愛らしい花嫁に、はしゃいでしまっているんだよ。」
はしゃいでいる?この目の前の彼が?
それは言い過ぎではないか。環那はそう思った。
冷静で怜悧な貌は確かに綻んでいる。しかし、我を忘れて陽気に振舞っている訳ではない。
「君も疲れているだろう。今日はもう休むといい。」
そう言うと、彼は食べきれなかった料理を執事達に運ばせ、環那の手を引いて寝室へと送り届けた。
寝室に足を踏み入れると、天窓から淡い月光が降り注ぐそこに、天蓋に遮られた寝台があった。
「明朝、君を迎えに来るから。お休み、僕の花嫁。」
環那の髪に一つ、口付けを落として、グレイシアは環那の部屋を後にした。
「ふう……」
環那は寝台に腰掛け、溜息を零す。
やっと一人の時間が出来た。彼の視線は不快ではないけれど、落ち着かないのは確かだ。
「何故、私なのだろう。」
思わず、そんな呟きが漏れる。
彼程の美丈夫であれば、態々自分を娶ろうとせずとも、もっと美しい女性がいたはずだ。
元々、環那はこの婚姻に不信感を抱いていた。
「彼等は無条件に聖痕を持った女性を愛する。聖痕さえあれば、それが私でなくともいい。彼は、私自身を見ている訳ではないのに……。」
環那は養女とはいえ、貴族の娘だ。
いずれは政略結婚するものだと分かっていた。勿論、そこに愛情などないことも。
しかし、まさか自分が竜に嫁ぐなど。考えもしていなかったのだ。
「私は偽りの愛などいらないのに。」
偽りに纏われた愛の言葉など悲しくなってくる。
それならばまだ、ただの知人の様に扱われた方が良い。
環那の小さな呟きは虚空へと消えていった。