10
あれからどれだけの時間が経っただろうか。
王宮を出た頃はまだ東に傾いていた太陽は、既に真上に近い位置にある。
目に見える景色もすっかり移り変わっていた。
環那の視界いっぱいに広がるのは一面の銀の世界。
氷に閉ざされたジエロ領は、四季はあれど温暖な気候の国出身の環那にとって、見たこともない未知の世界だった。
ここにあるもの全てが氷晶と冷気で構成されている。
グレイシアに守られていてもなお、環那の吐く息は既に白く色付き、頬は紅みを増す。
「ほら、環那。ここがジエロ領の中心だよ。」
環那を乗せた氷竜はその顎で眼下を指した。
それに釣られる様に環那は少し身体を乗り出して見下ろす。
そこにあったのは、一つの街の様な景色だった。
雲より高い険しい山々に囲まれたその中に、そこだけ抉られた様に盆地となっている。
途轍もなく広いその土地には、透明感溢れる氷晶で作られている竜達の住処であろう、人間の世界でいう神殿の様なものがいくつも等間隔に並んでおり、その中でも中心に位置する一際高い氷の城に環那の目は行った。
その視線に気付いたかの様に、グレイシアは口を開く。
「ああ、あれは長や幹部達の住処だ。故に、必然的に僕等の住処でもあるのだけれど。」
え?と環那が問い返す暇もなく、グレイシアは氷の城に向かって降下しだす。
急のことに驚いた環那は、思わずグレイシアに縋り付いた。
しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には既にグレイシアは城の庭園らしき場所に足をつけていた。
グレイシアの背から降りた環那が四顧する先に咲く花も、地に根を張り逞しく枝を広げる木々も全て、やはり氷晶で出来ている。
心の内で感嘆の息を吐くと、いつの間にか人型になっていたグレイシアに腰を抱かれた。
「さあ、こちらだ。」
環那はグレイシアの導くまま、歩き出した。
「……あの、ご挨拶に行くのですよね?」
「まさか。あんな老いぼれに君を見せるだなんて、勿体無い。」
控えめに口を開いた環那に返ってきたのは、随分な言い草だった。
予想外のグレイシアの言葉に、一瞬環那の思考回路が固まる。
随分と不敬なその言葉は長に向けられたものなのだろうか。否、問うまでもなくそうだろう。
そのとき、コツと靴音が響いた。
「駄目だ。長にくらい披露してこい。」
玲瓏たる寒声がグレイシアに向けられる。
グレイシアはうんざりといった様子で、その声の方に視線を移した。
「―――君か、フロスト。」
「レージア。行ってこい。長も待っている。」
「嫌だよ。何故、僕の花嫁を見せびらかさなければいけない?」
「レージア。」
フロストの語尾が強くなる。
抑揚のない淡々とした言葉と凍寒の様な声色に、環那は恐る恐るグレイシアに遮られた向こうを見た。
そこにいた彼もまた、稀なる美貌の持ち主だった。
グレイシアと同じ銀糸の髪は周りの氷晶に反射した淡い光のベールを纏い、グレイシアを見据える細められた瞳は紫水晶の様だ。
竜の定義に漏れず、美しい―――が、その美貌が動くことはない。生きた心地のしない彼の表情に、環那はグレイシアの後ろでぶるりと震えた。
すると不意に、フロストはグレイシアの後ろにいた環那を見た。
「―――!!」
「こら、僕の花嫁が怯えているじゃないか。」
「怯えさせた覚えなどない。」
グレイシアの言葉をしらっと流し、フロストは環那を視界に捉え続ける。
「……彼女がお前の花嫁か。」
「そうだよ。だから、余り見ないでくれるかな?」
フロストの視線から環那を隠す様に、グレイシアは眉を顰めながら環那を背に庇った。
不機嫌とまではいかないが、拗ねた様な態度を取るグレイシアに、フロストは深く溜息を吐く。
大方、呆れ返っているのだろう。
「分かったから、可愛い花嫁を愛でるのは後にしてくれ。長が待っていると言っただろう。」
「勝手に待っているだけだ。そのままいつまでも待たせておけばいい。」
「レージア。」
再び咎める様に名だけで催促するフロストに、グレイシアは髪を掻き上げながら、渋々と納得した。
溜息を吐きながら、環那の手を取る。
本人は乗り気ではなさそうだが、その足取りに迷いはない。
環那はグレイシアに手を引かれながら、数歩前を歩くフロストに視線を遣った。
「彼が気になる?」
環那の視線の先を追って、グレイシアはそう問うた。
気にならない、と言えば嘘になる。竜騎士の一柱であるグレイシアに恐れることなく口を開くフロスト。その存在は環那にとって、不思議なものだった。
「彼はフロスト。僕よりほんの五十年ほど年上で、俗に言う幼馴染なんだ。それに、彼は竜騎士の一柱、パーシヴァルでもあるんだよ。」
パーシヴァル卿。
そうか、と環那は納得する。
同じ竜騎士であるから彼は、グレイシアを敬うわけでもなく対等に接していたのかと。
そう話している内に、環那達の前に氷晶で出来た巨大な扉が現れる。
グレイシアを見上げると、彼は心底面倒そうに表情を歪ませていた。そんな彼を見て、環那も緊張に身を硬くする。
グレイシアはそんな環那に視線を向け、柔らかな微笑を浮かべた。
「そんなに肩に力を入れずともいい。この先にいるのは、恐れるほどの者ではないからね。」
次の瞬間にはフロストが扉に手を掛け、躊躇無く扉を開け放していた。