光陰
がたがたと立て付けの悪い扉に負けまいと力をこめて横に流すと、細かな塵を落としつつも観念したようにガタンともう一度鳴いて、後は静かに滑り出す。
薄く埃の積もった中に一直線に伸びた道を踏みしめ、その疎らに散った足跡を一つ一つ掻き消すように一つの壁の前へと進む。
ぴたりと道の絶えた目の前には壁。そして壁の前には大きなキャンバスが年老いたイーゼルを玉座に鎮座していた。
僅かに傾いでいるが少しもその威厳を損なわない風体を、今日も私は時が許す限り見つめ続けるのだった。
私がここへ通うようになったのは、そう前の話じゃない。きっかけは、そう。じわりじわりと進んでいた老朽化で、遂に起こった崩落事故の有様を面白半分に見物に来たことだった。
元々この旧校舎は取り壊される予定ではあった。けれど仕事の遅い機関の常か、予定は未定とはっきりした日取りはまだ組まれていなかったのだ。新校舎も随分と前に完成し半ば物置として使用され続けていたここへは、既に殆ど人は寄り付かなくなっていた。場所は取るが解体費が嵩むよりはマシとでも思っていたのだろう学校側は、半年前までその考えを変えることなく日々朽ちていくここにどんな形であれ手をかけることはなかった。
そんな時、所用でここへ来たらしい教員と生徒数名が事故に遭った。階段が、その重みに耐えられずに崩れたのだ。
それは死人が出なかったのが不思議なほどの事故で、学校側は保護者や教育委員などからそれまでの放置状態を激しく責められた。
そうして今、ここの寿命は来月末に定められたのだ。
忍び入ったその先で、私がこのキャンバスと出会ったのは偶然だった。
最初に目を奪われたのは鮮やか過ぎる色彩。けれど派手だとはまるで思わせない色使い。なんと、言えばいいのかわからないが、それがそうあるのは当然で、そうあるべきだからこその姿…とでも言うのか。上手く言えないが、派手だとか地味だとか、そんな後付の言葉を付ける余地も湧かないほど真っ直ぐに身の内にその印象を叩きつけるような、そんな絵だった。
それがどうして運び出されもせずに使い古された画材と共にここに置き捨てられているのかといえば、それは恐らくこの傷のせいなのだろうと知れる。
この"綺麗"な絵に不似合いとも取れる、斜めに走った大きな虚ろ。けれどもそれが何故だか私にはこの絵の魅力に見えてならなかった。
この傷がなければ、ただ綺麗の標本のような絵だとしか認識できなかったと思う。でもこの傷が、この醜悪な壊死と美の同居するその不安定さが私を惹き付けてやまなかった。
このままこの絵がここで朽ちるのは惜しいと心底思った。しかし運び出すのはあまりに大きいそれ。
なら…。
せめて私の記憶にだけでもずっとこの姿をとどめておこう。この空気も場の匂いも受ける威圧感もそのまま、可能な限り全てを私の中に息づかせよう。
記憶とは曖昧なもの。どんなに欠けたものであれ、記憶にとどめられたものは美化という磨耗に苛まれてしまう。けれどこの絵に磨耗は存在しない。これは初めから、いや、逢瀬を重ねるごとにその印象をより強く認識させる極限の化身だったからだ。
静寂が満ちる。
置き捨てられた時計は既に止まっていて、この静謐を破ることはない。
視線と一緒に絵の作者の心情が一体どんなものだったのだろうかと思考を巡らせる。
筆の置き方、はらい方、色の溶き方などの些細なものからそれを探る。思う以上に鏡となるそれらは彼、もしくは彼女の裏側を伝えてはくれないだろうか。穏やかに激しやかに始点へと続くはらいの流れ。やがて一筋の激流となって大海へ流れ出し、そして何れ一つの大きなそれに同化する。その先にあるものこそが私の思考の終着地なのだろう。
追うように幾筋もの視線を本流に向けて流していく。
けれど、いつも辿り着くのは何かが欠けた模造品のそれ。些細な、ともすれば見逃してしまいそうな違和感がこれまでと同様拭えず胸にわだかまる。
それが何か。わからない何かを求めて、再び流れを追い始めるのだ。
視界の端で、風に揺すられた落ち葉が舞う。
けれど届いたのは風を孕む音ではなかった。
重みに軋むその音は明らかに人が立てる複数の足音。
どうやら件の崩落跡を見に来たようだが、聞き飽きたそれを気に留めることはせず流れを追うことへ集中する。
件の現場はこの部屋のすぐ横、丁度このキャンバスの裏辺りになるだろうか。毎日のようにここへ通う私には既に慣れてしまった音だ。みしり、と軋む一定のそれが単調に響く中、けれど時折聞き慣れぬ異質の音が混ざった。
束の間気を取られたそれが何か考えつく前に、足音は件の階段へと辿り着く。
そして――
一際大きな音がしたかと思うと、いつの間にか目の前に板張りの木目が現れた。
ぱらぱらと降ってくる埃や塵と一緒に鈍い痛みが私が転んだことを教える。耳に届く落下音が、ようやく二度目の崩落が起こったことを悟らせた。
私は咄嗟にキャンバスへ目をやり、間を置かず身を馳せた。
その巨体はすぐ後ろからの衝撃に傾ぎ、今にも崩れた壁に押し潰されそうな様だ。未だ作者の心意を読み取れないそれをまだ壊れさせるわけにはいかない。
それに。同じ時間を長く過ごしたその友をやはり失いたくはなかった。
轟音が暴力となって降り注ぐ中で、私は必死に縋り付いたキャンバスと共に夕日の中から切り離されてしまった。
空気が煙っていて呼吸が苦しい。
どこかから呻くような声がするのは先ほどの集団の誰かの声か。
けれどそれはここから随分と遠く聞こえる。
それなら、私にのしかかる柔らかな体は誰のものだろう…。
「こんにちは」
すぐ傍で放たれたそれに向ける、視線の先。
そこには人骨が、しかも何の支えもなく頭をもたげてこちらを覗き込んでいた。
頭でも打ったのだろうか。いや、それにしたってこんな夢やら幻覚を見る理由はない。最近ホラー映画やら理科準備室に行った覚えもないし人体標本を見た覚えもない。
頭蓋骨の細部までを覚えているはずもなければ腐敗の巻き戻しのように徐々に肉付いていく様を想像することができるほどの構築力は、多分ない。
ならこれは現実なのだろうか。
でも、そんなはずはないだろう。そんなことより、さっき転んだ拍子に打った肘と重いものに挟まれたような左足が痛い。
「どこか痛いの」
…頼むから話しかけないで欲しい。
声をかけてきた心地良い音程の発信源に意識を向けないために他のことへと気を巡らせる。
先ほど呻いた声の主は無事だろうか。この崩落の音は外にいた者へも聞こえただろうか。そもそも外には誰かいたのだろうか。誰もいなかったら、少しまずいな。怪我人はいるだろうし春とは言え夜はまだ冷える。助けが来るのが遅ければ風邪をひいてしまう。ああでも、ここであの絵と少しでも長く過ごせるのならば、それは悪いことでもないかもしれない。
このままの状態が続けば必然私の方が絵よりも早く朽ちるだろうが、それからでもゆっくりあの絵を鑑賞できるだろう。未練があるのだからここに留まることはできるはずだ。
そして肝心要のキャンバスの容態に思考が移ったそのとき、眼前から伸ばされたひやりとした手が頬に触れる。
反射的に向けそうになった視線の端で、クス、と零れる吐息を捉えた。
「大丈夫。俺は無事だよ」
そう言って笑う様をさすがに無視することは出来ず、観念して声の主に目を向ける。すると思いのほか近くにあった秀麗な顔が綻び、ややきつく吊った目元がふわりと和らいだ。
「あなたの心配なんてしてない」
意図しているでもないだろうに絆されそうな笑みに負けまいと、やや気を張った言葉に返って来たのは感情の読み取れない微笑。居心地が悪く感じ、そしていつまでもこうしているわけにもいかないと瓦礫と、この得体の知れない人物から離れようと体を動かした。
けれどそれはより深く被さってきた彼と、頭のすぐ上に落ちてきた塊とに阻まれて断念を余儀なくされる。
「大人しくして。動かなければ多分そんなに危なくはならないから」
「…話カケナイデクレマセンカ」
予期せぬ落下に心臓が破裂しそうな鼓動を刻む。あれが頭に当たっていたらと思うと、先ほどの考えがどれほど向こう見ずだったのかが知れて血の気が引いていく。その上こんなわけのわからない存在に気を裂くことなど今は到底できるはずもなかった。
それなのに、横向けた視界には彼のものらしい腕が映り込む。剥き出しの腕は筋の付き方さえもが見て取れる。どうみても、普通の人の腕だ。
「俺はもっと話をしたいな。さっきようやく友達だって認めてくれたことでもあるしさ」
嬉しそうに話かけてくる声が気に入らなくて、睨みつけるように再び視線を彼へと据える。そうして紡ごうとした言葉は先に彼へと奪われてしまった。
「俺が何かはわからなくても見当はついてるだろ?それならわざわざ説明する必要はないんじゃないかな」
「そんなの、信じられるわけないでしょ」
「なら信じなければいい」
何を言われたか一瞬わからず、ぽかんとしている間に更に言葉が紡がれる。
「見たモノをどう思うかより、どう感じたかを信用すれば?絵から捜すより俺を見てた方のがきっとすぐ見つかる」
あんたがここへ来てくれてた理由はそれだろう、と続けられた言葉に反発以外の何かが混ざりこむ。まるでそれがわかった様子で彼が再び笑みを刷いた。
「俺は朔。始まりの名だ」
「はじまり…」
反復すると彼は少し皮肉気に目元を眇めた。その視線に晒されていることに居心地の悪さを感じ、私もぼそぼそと名乗り返す。
動くに動けず、顔を突き合わせている相手を無視し続けるのも何だか居た堪れない気持ちになって、ぽつぽつとだが答え始める。その内に時間は経って、どうやら完全に日が沈んで夜の訪れを迎えたようだった。
状況に変化はなく、時折誰かのくぐもった声が聞こえるきりで救いの手は未だ現れない。
「ユエ?寒いの?」
至近距離にいるためか、微かに震えた動きが伝わったのだろう。心配げに見つめてくる眼差しが妙にくすぐったく感じて虚勢を張って否定する。すると若干気に触ることを呟きながら、朔の腕が緩く私を抱きこんだ。
私の首をくすぐる頬も、私が触れる朔の首筋も少し冷たい。
これじゃ余計に寒いなと笑うと、朔も苦く笑い返してくれる。
「ずっとね。ユエとこうして話してみたかった」
「私は話したいなんて思ったことなかったよ」
「思いつかなかっただけのくせに」
そんなの当たり前だ、とすまして答えればそれはそうだとまた笑い合った。けれど小さく落としたくしゃみの音が、道連れのように笑みの余韻を掻き消した。
無言になった朔の顔は見えない。代わりに映るのはずっと見続けてきたキャンバスの裏側。表と違い、ただ静かに枠木を晒すそれからは何も読み取ることはできなかった。
「俺はね」
表情の伺えない声が耳をくすぐる。それを覗くことはせず、正面を見据えたまま私は小さく相槌を返す。
「ずっとユエを待ってたんだ。ユエみたいな子が俺に気付いてくれるのを、ずっと、長い間。でも待ちくたびれて、その間にあいつはどこかへ行っちゃった。俺はあいつを追わなきゃならない。だから体が必要だった」
緩やかな風が瓦礫の間を吹き抜けた。それに乗って微かに外の喧騒がここまで運ばれてくる。
「少しずつ集めてきたけど、もう俺には時間がなかった。だからちょっと強硬手段を取ったりもした。けど、一番必要なものはなかなか手に入らなかったんだ」
朔が僅かに身を起こすと冷えた空気が入り込む。そのことに朔にも温みがあったのなだと、どうでもいいことを思った。
届く喧騒はやがて忙しなく方法から寄せられ始める。
胸に、夜風とは違う冷たさが触れる。けれど私はそれを払いのけようとは思わなかった。それは暗がりでも明らかな彼の表情のせい、だったのだろうか。
悔しいが見惚れてしまった彼の唇が小さく動いた後、故意とわかる無表情で告げられた言葉を私は黙って目を瞑ることで応えに換える。
最後に残ったのは一瞬柔らかな温もりが鼓動に重なる感触だった。
あの時告げられたことが本当なら、彼はいつか再び私に会いに来るだろう。
それを疑うことは決してないが、時々ふと不安になる。
彼はきっと会いに来る。あんなに長い時を、ただただもう一度彼の半身に会うことのためだけに費やしてきた彼だ。私に植え付けた約束の種を摘み取るとは思えないし、それは私が許さない。
朔はいつか必ず現れる。
その時を迎えた私が、果たしてこの私の姿であるかはわからないけれど。
早く来い。
逢いに来い。
私の時間はあと僅か。
(2007/3/26)