「毛並みを整えるだけ」と虐げられたので円満退職します。転職先の黒龍神様が、私のブラッシングなしでは眠れない体になってしまいました!
「――というわけですので、今月末の契約満了をもちまして、私は退職させていただきます」
朝の光が差し込むギルフォード帝国・聖獣庁の執務室。
私、リリア・アシュレイが差し出した一枚の書類を見て、聖獣部部長のハロルドは、持っていた紅茶のカップをソーサーに激しく叩きつけた。
「退職だと? おいおい、冗談はやめてくれよリリア。お前のような平民の小娘を雇ってやっているのが誰のおかげだと思っている?」
ハロルドは不愉快そうに眉をひそめ、ふんぞり返った。 彼の隣では、ひらひらとしたドレス風の制服を着た新人魔導士のプリシラが、これ見よがしに彼にすり寄っている。
「そうですよぉ、リリア先輩。先輩のお仕事って、聖獣たちの毛並みをブラシでとくだけの、誰にでもできる雑用じゃないですか。それを『聖獣部の一員』として置いてあげているハロルド様に感謝すべきです!」
「ええ、その『誰にでもできる雑用』の契約が、今月末で切れるのです。更新の合意書に署名をしておりませんので、法に基づき自動的に退職となります。お世話になりました」
私は努めて穏やかに、そして完璧な一礼をした。
心の中は、すでに満開の桜のように晴れやかだった。 やっと、この地獄から抜け出せる。
私の実家は、代々「魔力の糸を整える」という、少し変わった生活魔法を継承してきた家系だ。
私自身、その魔法を使って、聖獣たちの乱れた魔力を「ブラッシング」によって整える仕事をしてきた。
魔獣や聖獣は、体内の魔力が滞ると、毛並みが荒れ、凶暴化したり衰弱したりする。それを専用のブラシで優しく梳きほぐし、魔力の流れを正常化させるのが私の役目だった。
しかし、ハロルド部長はそれを「ただの毛並み整え」と見下した。 そればかりか、私の基本給の八割を「育成費・管理費」という名目で差し引き、自分の懐に入れていたのだ。
私の毎月の手取りは、路地裏のパン屋のアルバイト以下。
さらには、私がブラッシングをして大人しくなった聖獣たちを、後からやってきたプリシラが「私の飼いならし魔法の成果ですぅ!」と横取りし、手柄はすべて彼女のものになっていた。
「おい、勘違いするなよリリア」 ハロルドは冷酷な笑みを浮かべた。
「お前がここを辞めて、他にどこで雇ってもらえると思っている? 聖獣の世話ができるのは我が帝国だけだ。他国に行けば、ただの行き倒れになるのがオチだぞ」
「ご心配ありがとうございます。ですが、次の就職先はすでに決まっておりますので」
「はっ、どうせどこかの安い宿場の皿洗いだろう。せいぜい泥にまみれて働くがいいさ!」
プリシラもクスクスと下品な笑い声を上げる。
「うふふ、お疲れ様でしたぁ、リリア先輩。これからは私が、ハロルド様と一緒に聖獣たちを可愛がってあげますから、安心して消えてくださいね?」
「はい。引き継ぎ書はデスクに置いておきました。それでは、失礼いたします」
私はもう一度、深く頭を下げて執務室を出た。
彼女たちが、私の引き継ぎ書(といっても「毎日ブラッシングをすること」としか書いていないが)に目を通すことはないだろう。
そして、彼女たちは根本的な勘違いをしている。
聖獣たちが大人しいのは、ハロルドの威圧魔法や、プリシラの「魅了魔法」のおかげではない。
ただ単に、私のブラッシングが気持ちよくて、彼女たちのために魔力のコリをほぐしていたから、暴れずにいただけなのだ。
(みんな、今までありがとう。元気でね)
裏庭の飼育舎に向かって心の中で手を合わせ、私は一歩も振り返ることなく、帝都を去る馬車に乗り込んだ。
* * *
私が向かったのは、帝国の隣国である「ヴェリタス聖龍国」。 そこは、強大な魔力を持つ「龍族」が治める、緑豊かで平和な国だ。
実は一ヶ月前、私のブラッシング技術を偶然見かけたという聖龍国の使節団から、一通の手紙を受け取っていた。
『貴殿の「魔力整糸技術」は至宝である。我が国で、その力を振るってはいただけないか。待遇は現在の二十倍、完全週休二日制、社宅完備、有給休暇ありでお迎えする』
怪しい詐欺かと思ったが、送られてきた契約書には、聖龍国の国章がしっかりと刻印されていた。 手取りが二十倍。しかも、有給休暇がある。
迷う理由など、どこにもなかった。
聖龍国の王宮に到着した私を迎えたのは、仕立ての良いスーツを着た、上品な老紳士だった。
「ようこそおいでくださいました、リリア殿。私は当宮殿の侍従長を務めております、セバスチャンと申します」
「初めまして、リリア・アシュレイです。本当に、私のような毛並み職人が、このような立派な場所に……?」
「何を仰いますか。貴女の技術は、我が国にとって救いの神なのです」 セバスチャンは真剣な表情で、少し声を潜めた。
「実は……我が国の守護神であり、最高統治者であらせられる『黒龍神・ヴァレリウス様』が、ここ数ヶ月、深刻な『魔力滞留』による不眠症に悩まされておりまして……」
「黒龍神様、ですか?」
「はい。その強大すぎる魔力が体内で絡まり合い、ご自身でも制御できなくなっておいでなのです。常に全身がイライラと凝り固まり、お優しかった性格も、今や近づく者すべてを威嚇するほどに荒んでしまわれました。どうか、貴女の力で、閣下をお救いいただけないでしょうか」
話を聞く限り、かなり重度の「魔力もつれ」のようだ。
人間で言えば、全身の関節がガチガチに凝り固まり、一睡もできない状態。それは確かに、どれほど心優しい存在であっても暴れたくなるだろう。
「わかりました。私の力でできる限り、お力添えいたします」
「おお、ありがとうございます! では、こちらへ……」
案内されたのは、王宮の最奥にある、広大な屋内庭園だった。 そこは頑丈な魔法障壁で覆われており、中に入った瞬間、肌がヒリつくほどの圧倒的な圧力を感じた。
庭園の中央。 そこに、山のように巨大な、漆黒の龍が横たわっていた。
(美しい……)
その第一印象は、恐怖ではなく「美しさ」だった。
夜空を切り取ったかのような、深みのある黒い鱗。しかし、よく見ると、その鱗の表面は至る所で毛羽立ち、細かな火花のような魔力の残滓がバチバチと弾けている。
「グルルルル……ッ!!」
私たちの気配を察知した黒龍が、黄金の眼眸を開いた。 その瞳には強い疲労と、それゆえの凶暴な光が宿っている。
地響きのような唸り声に、案内してくれたセバスチャンですら、青ざめて一歩退いた。
「リ、リリア殿、やはり危険です。まずは遠隔からの魔法で――」
「いえ、大丈夫です。あの子、すごく体が痛くて苦しいだけですから」
私は、使い慣れた「星銀のブラシ」を取り出した。 これは私の魔力を通しやすくするために、特注で作った柔らかい金属製のブラシだ。
私はゆっくりと、黒龍に向かって歩み寄った。 黒龍は大きな牙を剥き出しにし、今にも私を噛み砕かんばかりに頭を下げてくる。
普通の人なら腰を抜かすところだろうが、私には見えていた。彼の首筋から背中にかけて、青黒く濁った魔力の糸が、ぐちゃぐちゃの毛玉のように絡み合っているのが。
「痛かったですね。今、楽にしてあげますからね」
私は優しく声をかけながら、黒龍の鼻先に手を触れた。 一瞬、黒龍の動きが止まる。
その隙に、私は彼の首筋、最も魔力の澱みが集中している場所にブラシをあてた。
(「魔力整糸」――解れよ)
心の中で念じ、ブラシを引く。 しゃり、と、心地よい音が響いた。
その瞬間。 バチバチと弾けていた黒い火花が消え、代わりに柔らかな光が溢れ出した。
絡み合っていた魔力の糸が、私のブラシに導かれるようにして、するりと一本の美しい線へと整えられていく。
「……キュ?」
黒龍の口から、およそその巨体には似合わない、可愛らしい鳴き声が漏れた。
「ふふ、ここが一番凝っていますね。もう少し強く梳きますよ」
『しゅっ、しゅっ、しゅっ』
静かな庭園に、ブラシが鱗を撫でる、規則正しい音が響き渡る。 首筋から背中、そして翼の付け根へ。
私がブラシを動かすたびに、黒龍の全身を覆っていたトゲトゲしい空気(魔力の棘)が霧散し、代わりに極上のシルクのような、艶やかな漆黒の輝きが戻っていく。
「ふあぁ……」
黒龍の大きな瞳が、とろんと弛緩していく。 やがて、彼は満足そうに長いため息をつくと、私の足元にその巨大な頭をごろりと横たえた。
まるで「もっとやってくれ」と甘える犬のように。
「いい子ですね。よしよし、反対側もやりましょうね」
私は彼の大きな鼻先を撫でながら、一心にブラッシングを続けた。 背中のコリが完全にほぐれた頃。 地響きのような大音量の「ゴロゴロ……」という音が響き始めた。
龍が、喉を鳴らしているのだ。
そして、黒龍は完全に緊張の糸が切れたように、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠りについてしまった。数ヶ月間、一睡もできなかったという守護神が、私の膝(正確には足元)の横で、泥のように眠っている。
「な、なんということにございますか……!」
後ろで見ていたセバスチャンが、驚愕のあまり膝をついていた。
「国中の高名な魔導士や治癒術師が集まっても、触れることすらできなかったヴァレリウス様が……ただのブラッシングで、これほど安らかに……!」
「聖獣も龍も、魔力を持つ生き物は皆同じです。力で抑え込むのではなく、滞りを整えてあげれば、自然と落ち着くものなんですよ」
私が微笑むと、セバスチャンは涙を流して私の手を握りしめた。
「リリア殿! いえ、リリア様! 我が国は、貴女を国賓としてお迎えいたします! 給与は当初の予定のさらに倍、王宮専属の『神獣首席絵師(筆頭トリマー)』としての地位をお約束いたします!」
「えっ、倍ですか!? そ、それはさすがに多すぎでは……」
「いいえ、全く足りないくらいです! ああ、これで我が国は救われました!」
こうして私の、聖龍国での新しい生活が始まった。
* * *
それからの毎日は、まさに天国だった。
素晴らしい個室を与えられ、三食は超一流の宮廷料理人が作った美味しい食事。 仕事は一日に数時間、ヴァレリウス様のブラッシングをするだけ。
残りの時間は、王宮の美しい庭園を散歩したり、図書室で好きな本を読んだりして過ごしていい。有給休暇もいつでも取れる。
そして何より、ヴァレリウス様が私にものすごく懐いてくれた。
朝、私が庭園に行くと、彼はすでに目を輝かせて待っている。
私がブラシを持つと、嬉しそうに尾をパタパタと振り(その風圧で木々が揺れるのだが)、自分からブラッシングしやすい位置に寝転がるのだ。
「ヴァレリウス様、今日は少し羽の付け根が凝っていますね」
「グルルゥ(そこ、すごく気持ちいい)」
すっかり艶々になった黒い鱗は、光を浴びるとまるでダイヤモンドのように美しく輝いた。
そんなある日のこと。 いつものようにブラッシングを終え、私が「はい、おしまいです」とブラシを片付けようとした時だった。
「……もう少し、続けてくれないか」
突然、低く、ベルベットのように心地よい男の声が響いた。
「え?」
驚いて顔を上げると、目の前にいたはずの巨大な黒龍の姿が消えていた。 代わりにそこに立っていたのは、見たこともないほどの美青年だった。
流れるような、輝く銀髪。 吸い込まれそうな、神秘的な金色の瞳。 仕立ての良い漆黒のローブを身にまとった彼は、少し頬を赤らめながら、私をじっと見つめていた。
「ヴァ、ヴァレリウス様……ですか?」
「うむ。これが私の、人の姿だ。龍の姿の方が、ブラッシングの面積が広くて気持ちよいのだが……人の姿の時も、君に触れてほしくてな」
そう言って、彼は私の手を取り、自分の頭へと導いた。 銀糸のように美しい髪の隙間から、小さな、しかし美しい黒い角が二本、ちょこんと生えている。
「ここを、君の手で直接、撫でてはくれないだろうか。君の指先から流れ込む温かい魔力が、たまらなく愛おしいのだ」
「あ、あの……!」
普段の雄々しい黒龍の姿と、目の前の超絶美青年の「甘えん坊」な態度のギャップに、私の心臓はバクバクと激しく鳴り響いた。
しかし、彼の金色の瞳に宿る純粋な懇願に抗えず、私はそっと彼の頭に触れ、優しく撫でた。
「ふぅ……やはり、君の手は素晴らしいな。リリア、私はもう、君なしでは生きていけない体になってしまったようだ」
ヴァレリウス様は、幸せそうに目を細め、私の手に自分の頬をすり寄せた。
……なんだか、ものすごく愛されている気がする。気のせいだと思いたいけれど、彼の視線は、単なる「技術者」に向けるものにしては、あまりにも熱を帯びていた。
* * *
一方その頃、私が去ったギルフォード帝国の聖獣部では、未曾有の大パニックが発生していた。
「な、なぜだ! なぜ聖獣たちが暴れ出す!?」
聖獣部部長のハロルドは、耳を塞ぎながら悲鳴を上げていた。 飼育舎の中では、かつて大人しかった聖獣たちが、目を血走らせて暴れ狂っていた。
壁を壊し、柵をなぎ倒し、職員たちに襲いかかろうとしている。
「ハロルド様ぁ! 助けてくださいぃ! 私の魅了魔法が、全然効かないんですぅ!」
プリシラが涙目でハロルドの背中にしがみつく。
彼女は「魅了の香水」や「強制服従の魔法」を使って聖獣たちを操ろうとしたが、それが逆に、魔力の滞りで苦しんでいた聖獣たちの神経を逆撫でした。
彼らは、リリアのブラッシングによって、かろうじて理性を保っていたのだ。
そのリリアがいなくなり、さらに追い打ちをかけるように乱暴な魔法を使われたことで、彼らの怒りと苦痛は限界に達した。
「ええい、使えない役立たずめ! お前が『リリアのやっていた仕事など簡単です』と言うから任せたのだぞ!」
「だって、ただブラシをかけるだけじゃないですか! 私がブラシを持っても、あの子たち、噛みついてくるんですよ!?」
当たり前である。 リリアの「魔力整糸」の技術がなければ、ただでさえ敏感になっている聖獣の肌にブラシをあてるのは、傷口に塩を塗るような激痛を伴う行為なのだ。
そして、最悪の事態が訪れた。
「――おのれ、ハロルド! これは一体どういうことだ!」
飼育舎に現れたのは、ギルフォード帝国の皇帝その人だった。 その傍らには、国の象徴であり、皇帝の相棒でもある「黄金の獅子」がいる。
だが、その黄金の獅子の毛並みはボサボサに荒れ果て、口から恐ろしい熱線を吐き散らしていた。
「あ、陛下! これには深いわけが……!」
「わけなどどうでもいい! 建国記念祭でのパレードを明日に控え、我が相棒がこの荒れようとは何事だ! お前たち聖獣部が、日頃の世話を怠っていた証拠ではないか!」
「そ、そんなことはございません! すぐに、我が部の天才魔導士であるプリシラが、獅子様を落ち着かせます!」
ハロルドに背中を押され、プリシラはガタガタと震えながら、黄金の獅子の前に進み出た。
「お、お利口さんですねぇ、獅子さん……。ほら、いい子ですから、大人しく……」
プリシラが、無理やり獅子の頭に手を伸ばし、自慢の「高級ヘアブラシ」をあてた瞬間――。
「ガルルルル……ッ!!」
激痛に怒り狂った黄金の獅子が、巨大な前足でプリシラを薙ぎ払った。
「キャアアアアアアアッ!?」
プリシラは吹っ飛び、豪快に泥水の中に頭から突っ込んだ。 さらに、獅子はハロルドに向かって、強烈な咆哮(魔力波)を放つ。
「う、うわああああっ!」
ハロルドは防御魔法を展開したが、怒り狂った聖獣の力には抗えず、吹き飛ばされて壁に激突した。
その衝撃で、聖獣部の執務室の棚が崩れ落ち、中から「これまでの裏金(リリアの給料をピンハネしていた証拠)」が記載された秘密の帳簿が、皇帝の足元へとバラバラと落ちた。
「……む? これは何だ?」
皇帝がその帳簿を拾い上げ、中身に目を通す。
そこには、リリア・アシュレイに対する不当な搾取と、ハロルドおよびプリシラによる手柄の横取り、そして国からの聖獣管理予算の私的流用の記録が、克明に記されていた。
皇帝の顔が、怒りで真っ赤に染まっていく。
「ハロルド……貴様、国宝級の『魔力整糸師』であったリリア嬢を、このような卑劣な手段で虐げ、追い出したというのか!?」
「ひ、陛下! あれは、ただの平民で……!」
「黙れ! 隣国のヴェリタス聖龍国から、『我が国の至宝を譲っていただき感謝する』という親書が届いた時、何のことかと思えば……! 彼女は今や、聖龍国で国賓として扱われているのだぞ!」
「え……?」
ハロルドと、泥まみれのプリシラは、呆然と目を見開いた。
「あの無能が、国賓……?」
「無能はお前たちだ! リリア嬢がいなくなったことで、我が国の聖獣部システムは完全に崩壊した! 建国祭は中止だ! ハロルド、プリシラ、貴様ら両名を国家反逆罪および業務上横領の罪で逮捕する! 生涯、牢獄の中で聖獣のフン尿の掃除でもしているがいい!」
「そんな! 嫌ですぅ! 私は美しい魔導士として生きるはずだったのにぃ!」
プリシラの悲鳴と、ハロルドの絶望の叫びが、荒れ狂う聖獣たちの咆哮にかき消されていった。
* * *
ぽかぽかと暖かい午後。 ヴェリタス聖龍国の、美しい中庭。
私は今、人間の姿になったヴァレリウス様の膝枕を体験している。 ……いや、私が膝枕を「されている」のではなく、私がヴァレリウス様に膝枕を「している」のだ。
「リリア……君の手は、本当に心地よいな。こうしているだけで、全身の魔力が、まるでお日様に照らされた小川のように、穏やかに流れていくのがわかる」
ヴァレリウス様は私の膝に頭を乗せ、私の手を自分の髪に絡ませながら、うっとりと目を閉じている。 その長いまつ毛と、完璧な彫刻のような横顔に見惚れてしまう。
「お気に召していただて光栄です、ヴァレリウス様」
「ヴァル、と呼んでほしいと、何度も言っているだろう?」
「うぅ、ですが、一国の守護神様をそんな風に呼ぶのは……」
「君は、私の命の恩人であり、今やこの国で最も尊い女性だ。誰も文句など言わせない。それに……」
彼が薄く目を開け、金色の瞳で私をじっと見つめた。
「私は、君をただの『お抱えの職人』として、ここに置いておきたいわけではないのだ。いつか、私の『番』として、生涯を共にしてほしいと思っている」
「え、ええええっ!?」
あまりにもストレートなプロポーズに、私の顔は一瞬でリンゴのように真っ赤になった。
そんな私を見て、ヴァレリウス様――ヴァル様は、いたずらっぽく、しかしこの上なく愛おしそうに微笑んだ。
そこへ、侍従長のセバスチャンが、一枚の手紙を持って慌ただしくやってきた。
「リリア様、ヴァレリウス様。ギルフォード帝国の使者から、緊急の嘆願書が届いております」
「ギルフォード帝国?」 ヴァル様は、先ほどの甘い表情から一転、冷徹な守護神の顔になって眉をひそめた。
「はい。聖獣部が壊滅状態にあり、皇帝自らが『どうかリリア嬢に戻ってきてほしい。給与は以前の百倍にする。ハロルドたちの罪も、彼女の望む通りに処罰した』と、泣きついているとのことです」
セバスチャンの報告を聞いて、私は少しだけ考えた。 百倍の給料。それは確かに大金だ。 だけど――。
「お断りしてください」 私は、迷うことなく答えた。
「私にとって、お金よりも大切なのは、私を必要としてくれて、私の技術を正しく評価してくれる人の側にいることです。今の私は、ここが世界で一番、幸せですから」
私の言葉を聞いた瞬間、ヴァル様の瞳が歓喜に濡れた。 彼は起き上がると、私の体をそっと抱きしめた。
「リリア……! ああ、本当に愛おしい。我が愛しい番よ」
そのまま、彼はセバスチャンに向かって、冷酷極まりない、しかし頼もしい声で言い放った。
「セバスチャン。ギルフォードの使者には、こう伝えておけ。『我が国が誇る未来の「龍妃」に対し、無礼な勧誘をするな。これ以上、我が愛しい妻に近づくならば、ギルフォードの国土ごと、黒き炎で焼き尽くす』とな」
「畏まりました。その通りに伝えておきます」
セバスチャンは、非常に満足そうな笑みを浮かべて一礼し、去っていった。
焼き尽くす、というのはさすがに冗談けれど、ヴァル様がそれほどまでに私を大切に思ってくれていることが、何よりも嬉しかった。
「さて、リリア。ギルフォードの不愉快な話で、少し魔力が乱れてしまったようだ。……龍の姿に戻るから、また、たくさん撫でてくれるか?」
「ふふ、はい。喜んで、ヴァル様」
光が収束し、目の前に現れたのは、あの大きくて愛らしい黒龍様。 彼は嬉しそうに尾を振り、私の前にごろんと横たわった。
私は愛用のブラシを手に取り、彼の一番お気に入りの場所へとあてる。
『しゅっ、しゅっ、しゅっ』
心地よい音が、二人の間に響き渡る。 私の紡ぐ魔力の糸は、今やこの愛おしい黒龍様と、そして私の未来と、しっかりと、固く結ばれているのだった。




