約束
鼻腔の奥にこびりついて離れないのは、湿った土の匂いと、それを塗り潰すような、どろりとした鉄の臭気だった。
視界が上下に、不規則に揺れる。
私は、お兄ちゃんの背中の上にいた。
かつて私を乗せて腕立て伏せをしてみせた、あの岩のように硬く、誇らしかった背中。けれど今のそれは、荒い呼吸に合わせて激しく上下し、ひどく熱を持っていた。
「お兄ちゃん……」
「……大丈夫だ!」
もう声は震えていない。顔を覗き込むと、今まで見たことないほど真剣な眼差しで前を向いていた。まるで何かと戦っているかのような、研ぎ澄まされた表情。
「ほら、着いたぞ。歩けるか」
そこは村の近くの森だった。
夏になれば、厚い葉が陽光を遮り、心地よい木陰を作る場所。かつて、ここで兄様と虫取りをした記憶が、不意に脳裏を掠めた。
五歳の夏。どうしてもカブトムシを捕まえたくて泣きべそをかいた私を、
お兄ちゃんは「よし、任せろ」と笑ってこの森へ連れ出してくれたのだ。
樹液の甘ったるい匂い。見つけたカブトムシの、漆黒の甲殻。
『ほら、ヴェラ。手を出してみろ。……虫だって生きてるんだ。痛いのも怖いのも、人間と同じなんだぞ。だから、優しくしてやれ』
手のひらを這う脚のチクチクとした感触。兄様が教えてくれた、不器用な慈愛。
その記憶を呼び起こそうとするたびに、今のお兄ちゃんから漂う「血の臭い」が、美しい思い出を黒く塗り潰していく。
お兄ちゃんの背中から降りて、スカートについた土を払う。それを見て微笑むお兄ちゃんは、まるでお父さんみたいだった。いつもより大人びていて、どこか寂しそうで。
「お兄ちゃん、お父様は?お母様は?」
お兄ちゃんは後ろを振り返った。燃える村の方を一瞬だけ見つめてから、腕を伸ばして深呼吸した。そしてこちらに向き直り、私の身長に合わせてゆっくりとしゃがみ込んだ。
「守れなかった。ごめんな」
その言葉は、私の理解の範疇を超えていた。
何を? 何が? どうして?
問いかけようとした瞬間、お兄ちゃんの腕が私を強く、壊さんばかりに抱きしめた。
胸から伝わる、異常なまでの鼓動。そして、私の肩に落ちた、熱い雫。
その時、初めて理解した。
感情の洪水が喉元までせり上がり、声にならない悲鳴が漏れる。私は兄様のボロボロになった服に爪を立て、しがみついた。
「お兄ちゃん……なんで……こんなことになるの。私……悪いことした?」
鼻を啜り、声を震わせながら泣きじゃくる。お兄ちゃんの服を強く握りしめた。
「なんでだろうな」
お兄ちゃんはそれだけ言って、他には何も喋らなかった。その声は、震えていた。お兄ちゃんも泣きそうだった。でも泣かなかった。
けれど、その腕の震えが、彼もまた、ただの十代の少年に過ぎないことを残酷に物語っていた。
お兄ちゃんは私が泣き止むまで抱きしめてくれた。どれくらいの時間が経ったのか分からない。ただ、お兄ちゃんの温もりだけが、壊れた世界の中で確かなものだった。
やがてお兄ちゃんはゆっくりと立ち上がった。村の方をじっと見つめて、悲しむように目を細めた。
だが——
「ヴェラ、立てるか」
「……どうしたの?」
「ここから南に走るんだ。南に城下町がある」
「なんで?どうして?お兄ちゃんは?」
お兄ちゃんが腰の剣を引き抜いた。
銀色の刃が、夕闇の中で青白く光る。
そして、私の頭にゆっくりと手を乗せて撫でた。いつものように。でも、今日は違った。これが最後だと言っているような撫で方だった。
「後で行くから、大丈夫さ」
遠くから足音が聞こえる。ズシン、ズシンという大きな音。明らかに人間の足音ではない。
巨木をなぎ倒し、こちらへ迫る「何か」。
「嘘だ!お兄ちゃん死んじゃやだ!」
木々の間から影が見えてくる。ツノが見える。巨大な拳が見える。
「ヴェラ、お兄ちゃんが嘘ついたことあるか?いや、あるな」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「でもヴェラを裏切ったことないだろ?」
「……うん」
声が震える。でも嘘じゃない。お兄ちゃんは一度も私を裏切ったことがなかった。
お兄ちゃんはゆっくりと私の背中を押した。
「後ろを振り向くなよ。転ばないで、下を気をつけろよ」
「……わかった」
私は何と言っていいのか分からなかった。お兄ちゃん、ありがとう?違う。お兄ちゃん、行かないで?それも違う。言葉が見つからない。
「最後に、ヴェラ」
「なに?」
「ハイタッチ、ほら」
お兄ちゃんが手のひらを差し出した。いつも遊んだ後にやっていた、あのハイタッチ。
バチッ
いつもより大きな音がした。
「じゃあ行ってこい!」
私は無我夢中で走った。約束通り、後ろを振り向かなかった。振り向いたら、走れなくなる気がした。振り向いたら、お兄ちゃんを置いていけなくなる。
だから走った。ただひたすらに、南へ。
『ヴェラ、愛してるよ』
風に乗って、何か微かな声が届いた気がした。
それは幻聴だったのかもしれない。私の臆病な心が作り出した、慰めの残響。
けれど、私は答えなかった。
答えれば、そこに立ち止まってしまうから。
——
私は振り返れなかった。だから兄が最後どうなったか知らない。
でもこいつは生きている。
森の冷気は、あの日のままだ。
私の目の前にいるのは、あの時、村の炎の中にいた魔族の「一つ」だ。
幹部だろうと関係ない。
こいつの爪に、父の肉が付いていたのかもしれない。こいつの牙が、母の悲鳴を断ち切ったのかもしれない。
カブトムシを優しく扱えと言った兄は、もういない。
今の私にあるのは、殺意だけだ。
お兄ちゃんとの約束を果たすために。
そして、あの日答えられなかった言葉を伝えるために。
今後は18時更新で一週間に3回は話を上げたいと思います!Twitterで更新する日は報告しようと思います!




