演技
化け物
その言葉が、錆びた鍵のように記憶の扉をこじ開けた。
木製の桶を両手で抱え、井戸から汲んだ水を揺らさないよう慎重に歩く少女がいた。スカートの裾が風に踊り、小さな足が土の道を蹴る。
「お父様!お母様!ただいま!」
少女の声は村中に響くほど大きくはなかったが、両親には確かに届いた。人見知りで、知らない大人に話しかけられると母の背中に隠れてしまう臆病な子供。けれど家族の前では太陽のように笑えた。毎日が、当たり前のように温かかった。
それが幼い頃の私だった。
そして——自慢の兄がいた。
「お、ヴェラ!いつも偉いぞ!水汲み完璧だな!」
「ほら、乗れ」
兄は腕立て伏せの姿勢のまま、背中をぽんと叩いた。
「ルークお兄ちゃん大丈夫?重いよ?」
「当たり前だろ!誰に言ってんだ」
私が背中に乗っても、兄の体は微塵もブレなかった。筋肉が岩のように硬く、呼吸すら乱れない。子供の私には、お兄ちゃんは無敵の騎士に見えた。
「ルークもヴェラも私の自慢の子供だ」
父は晩酌のたびにそう言っては、母と顔を見合わせて笑っていた。
「ヴェラのお兄ちゃんはいいよねー」
レイナはいつもそう言った。私の親友で、村で一番元気な女の子だった。
「だってさ、強いし頭もいいし性格もいいし、何より"イケメン"じゃん!村の女の子みんな憧れてるよ?」
私とお兄ちゃんは10歳離れていた。普通なら面倒くさがる年頃のはずなのに、お兄ちゃんは毎日私と遊んでくれた。木登りを教えてくれたり、剣の構えを見せてくれたり、夜には星座の名前を教えてくれた。
「村一番の剣士でしかも来年は勇者パーティ候補でしょ?ほんと才能しかないよね。うちのバカ兄貴と交換して欲しいよー」
毎日そんなことを言われては「レイナの方がすごいよー」と言い返していたが、内心では、お兄ちゃんがこの世で一番すごいと思っていたし、誰よりも誇りに思っていた。
***
ある日、お兄ちゃんが「勇者パーティ」という輝かしい称号に飲み込まれた。
村は狂乱した。普段は道端の石ころのように私を無視する大人たちが、家を壊さんばかりの勢いで押し寄せ、お兄ちゃんの手を、肩を、執拗に撫で回した。
「今日はパーティだ。ヴェラ、花を拾ってきてくれるか」
「花?」
「パーティには必要だろ?家を彩らないとな」
父にそう頼まれた時、お兄ちゃんが
「一緒に行ってやろうか」と声をかけてくれた。けれど明日から王都へ旅立つのだから、疲れさせたくなかった。
「大丈夫!一人で行ってくるね!」
明日には兄様が王都へ旅立ってしまう。その背中を見送るための、せめてもの飾り付けがしたかった。
籠いっぱいに、陽光を吸った花を摘み、村へと戻った。
村に戻った時、最初に耳に入ったのは悲鳴だった。
村の入り口を抜けた瞬間、視界が歪んだ。
人々が、顔を「ぐちゃぐちゃ」にして走ってくる。鼻水と涙を垂れ流し、人間とは思えない叫び声を上げながら。
「どうしたんですか……っ」
声をかけようとした瞬間、すれ違った男の肘が私の肩を強打した。謝罪も、視線もない。
空気が焦げ臭い。何かが燃えている匂い。
でも家に戻らないと。お父様とお母様が待ってる。
ここを曲がればいつも通り——
燃えていた。
私の家だけではない。隣も、その隣も、見える範囲すべてが炎に包まれていた。
足が動かない。
「お父様……お母様……」
声が震え、膝が笑う。驚愕が一定ラインを超えた時、人は叫ぶことすら忘れる。ただ、肺に冷たい泥を流し込まれたように、呼吸が浅くなる。
「ヴェラ!ここにいた!」
レイナの声が聞こえた。彼女が全力で走ってくる。
「そんなとこで止まってないで!早く!」
レイナの手が私の腕を掴み、力任せに引っ張る。私の足が動かないから、引きずるように。
だが、突然その手は軽くなった。
諦めたのかと思った。
レイナの顔を見ようと振り返った瞬間——顔はなかった。
首から上が消えていた。
そこには、本の挿絵でしか見たことのない異形がいた。魔族。それが、レイナの頭を咀嚼していた。ぐちゃぐちゃという音が聞こえた。
……レイナ?
一瞬だった。言葉を交わす間もなく、呼吸をする間もなく、あっけなく。
私は悲しむより先に理解した。ああ、次は私だ。ここで死ぬんだ。
レイナの体が、ゆっくりと倒れる。断面から噴き出した熱い液体が、私の頬に、そして摘んできたばかりの花の上に降り注いだ。
魔族の血塗られた手が、ゆっくりと私へ伸びてくる。
次の瞬間、魔族の体が空中で四散した。まるで透明な刃物が無数に走ったかのように、細切れになった肉片と血飛沫が私の視界を赤く染める。
「もう大丈夫だ」
いつもより高く、無理やり張り詰めたような声。
返り血を全身に浴びたお兄ちゃんが、そこに立っていた。
「ヴェラ! 俺の背中にいろ! 絶対に守ってやるから!」
強引に背負い直され、兄様は走り出した。
その時、私は見た。
兄様の、あの岩のように硬かった背中が、微かに、けれど絶え間なく震えているのを。
必死に私を安心させようと語りかけるその声が、裏返るのを。
今なら分かる。あれは私を安心させるための、精一杯の演技だったのだと。
背後で、村が消えていく。
かつて平和を誇った景色は、もうどこにもない。
ただ、兄様の背中に伝わる激しい動悸だけが、私が生きている唯一の証明だった。




