赫い残響
私は大剣ごと宙を舞っていた。
魔族。
あの日以来、一度としてその姿を忘れたことはない。だが、目の前の個体は、記憶の中のどの異形とも異なっていた。
高さは私の身長の三倍近く。腕の一本一本が古木の幹ほどに太い。しかし、その体格は異様に「人間に近い」均衡を保っていた。肥大化した筋肉の隙間から、冷徹な暴力が、獣臭と共に立ち昇っている。
お兄ちゃんは、こんな「絶望」を真正面から受け止め、私を逃がしてくれたのか。
胸の奥で、鉛のような感情が沸騰した。
考えるより先に、身体が跳ねる。
「死ねッ!!」
背負った大剣を抜き放ち、私は重力を味方につけて頭上から急降下した。空気を切り裂く風切り音が、私の絶叫をかき消す。
渾身の力で叩きつけられた刃は、魔族の硬質な胸部へと深く食い込んだ。
黒い、粘り気のある返り血が顔に飛ぶ。だが、こいつは悲鳴すら上げなかった。
魔族は、己の胸を裂いた刃を凝視し、それからゆっくりと口角を吊り上げた。
不意打ちを食らった驚きではない。命のやり取りが始まったことへの、生理的な、吐き気のするような笑いのように見えた。
魔族が、天を衝くような咆哮を上げる。森の樹々が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「……はは、やっぱそうじゃないとな!」
笑いが止まらなかった。頬を伝う返り血を拭うこともせず、狂気を含んだ笑みを魔族に返す。
恐怖はとうに、殺意に焼き殺されていた。
魔族の丸太のような拳が、真横から迫る。
私は大剣を盾のように構え、その衝撃を受け止めた。
――重い。
まるで、全力で走る荷馬車が衝突してきたかのような圧力。足元の土が深く抉れ、私の体は数メートル後方へと押し流される。
間髪入れず、私は踏み込んだ。
一撃。二撃。大剣の重みを利用した旋回斬りが、魔族の四肢を狙う。
しかし、硬い。鋼の鎧など比較にならないほどに発達した筋肉が、私の刃を弾き返す。
(両手を使えば…一撃で沈められるのに……!)
分かっている。だが、できない。
魔族の執拗な連撃を捌くのに必死で、剣を構え直す余裕がない。片手で防ぎ、片手で牽制する。そんな、ジリ貧の力勝負。
私の腕力をもってしても、この暴力の化身には届かないのか。
「ガアアアアアッ!」
魔族の重い蹴りが、私の足元を払った。
体勢が崩れる。地面が迫る。
そこへ、山が崩れるような追撃の拳が振り下ろされた。
「……っ!」
私は泥を舐めるようにして転がり、間一髪でその場を逃れた。
轟音。私が一秒前までいた場所が、直径一メートル以上のクレーターと化している。
私は止まらない。背後の木を力一杯に蹴り、反動を利用して瞬発的なスピードで加速した。
(もらった……!)
魔族の懐に潜り込み、横一閃。
ズブリ、という確かな手応え。魔族の右腕が、肘のあたりからガタンと音を立てて地面に落ちた。
勝機。
狂喜に震える手で、私はすぐさま振り返る。咆哮を上げようとする魔族の胸部、最初の傷跡をなぞるように、深く、重く、大剣を叩き込んだ。
「…………勝った」
荒い息が白く濁る。
視界は自分の返り血と、魔族の黒血で赤黒く染まり、まともに目を開けることすら難しい。
足元には、切り落とされた巨大な腕が転がっている。
まだ生きてるはずだ。確実に、なぶり殺してやる。指一本、牙一本残さず――。
だが、そこには、何もなかった。
魔族の巨体が、掻き消えるように消え去っている。
「な……!?」
背後に、冷気が走った。
反射的に振り向こうとした私の視界に、あるはずのないものが映る。
切り落としたはずの、あの腕。
それが、魔族の肩に何事もなかったかのように繋がっている。
鈍い音が、私の腹部で響いた。
「が……はっ!!」
肺の中の空気がすべて弾き出され、口から鮮血が噴き出す。
私の体は木の葉のように宙を舞い、背後の大樹に激突した。
ベキベキと、自分の骨が折れる音が嫌なほど鮮明に聞こえる。
衝撃で視界が明滅し、大剣が手から滑り落ちた。
「……なんだ……? 何が、起きた……」
立ち上がれない。肋骨が肺を刺しているのか、呼吸をするたびに鋭い痛みが脳を焼く。
正面から。
回避も防御も間に合わない速度。そして、あり得ない再生。
魔族は、嘲笑っていた。
無傷のまま、獲物が動けなくなるのを鑑賞するような、残酷な瞳。
ああ。私は、ここで死ぬのか。
お兄ちゃんの仇を取りたかった。
でも……いいのかもしれない。
お兄ちゃんと同じ森で、お兄ちゃんと同じように、化け物に蹂躙されて終わるなら。
ようやく、お兄ちゃんのところへ行ける。
「……なんで、私、泣いてるんだ……」
視界が滲むのは、血のせいだけではなかった。
これでいい。満足だ。最後にこいつと戦える機会があったんだ。
自分にそう言い聞かせる。言い聞かせるたびに、喉の奥からせり上がる「悔しさ」が、私の胸を掻きむしった。
悔しい。
死ぬことが怖いんじゃない。
こんなゴミのような化け物に、一矢報いることもできず、ただ餌として終わることが、死ぬほど、悔しい。
魔族がゆっくりと、止めを刺すために拳を構え、歩み寄ってくる。
死の影が、私を覆う。
私は静かに目を閉じ、あの日からずっと会いたかった人の名前を、最期の息で言った。
「……お兄ちゃん」
「なんだ、お前も涙を流すんだな」
不意に、絶望を切り裂くような、場違いに明るい声が響いた。
轟音。
私の鼻先数センチのところで、魔族の巨大な拳が止まっていた。
いいえ、止められていた。
一人の男の背中によって。
男は、魔族の拳の圧力を流すように受け止めると、その両腕から鮮血が激しく吹き出した。
魔族の規格外の圧力が、受け流しきれなかった衝撃となって、筋肉を内側から引き裂いたのだ。
だが、踊るような足運びでその懐へと滑り込んだ。
銀色の閃光が走り、魔族の肉が流れるように切り裂かれる。
「……間に合って良かったよ。ヴェラ」
逆光の中に立つその姿は、眩しくて、直視できなかった。
あの日、私を守ってくれたお兄ちゃんの姿と、重なって見えた。
だが。
光が落ち着き、見えたその顔は、私が一番嫌っている男の顔だった。
勇者ごっこの、なりきり勇者。
前の勇者の影を病的に追いかける、狂信者。
「なんで……来た。」
「なんでって……パーティだからだろ?ライゼル様も仲間は大切にしていたはずだ。」
どこまでも「ライゼル」だ。
人が死に際でも、こいつは変わらない。気持ち悪い。反吐が出る。
私はこいつを信用していないし、今でも生理的に受け付けない。
けれど。
差し出されたその手が、あの日、最後にお兄ちゃんと交わした「ハイタッチ」の残響を、どうしようもなく呼び起こすのだ。
私は、震える手を伸ばした。
かつて失った光を、もう一度だけ手に入れるように。




