毒入りティーカップ事件
「式見さん? もう行かないと講義に遅れましてよ」
実験室の外から声がする。
「はい、今行きます」
顔を上げると外はすっかり明るくなっていた。鳩の間抜けた声がする。私は洗い終えたフラスコを乾燥棚に置き、白衣を脱いだ。
朝の実験室。大小様々なガラス器具が陽の光を散乱させ、無灯の室内の隅々までを白くを照らし出している。出入り口に目を遣ると、引き戸のガラス窓の向こうに黒い頭が見え隠れしていた。声の主は私を待ってくれているようだった。
手鏡で軽く身だしなみを整える。癖っ毛と顔の痣は相変わらずだが、それ以外は問題ない。素肌が誰とも触れないように絹の白い手袋の装着も欠かせない。
「おはよう、稲葉さん。待たせました」
私を呼びに来たのは、寮の同室にいる稲葉透子。ちっちゃくて、童顔なので、兎のような小動物を思わせる。
「あら、部屋を出るときにおはようと声かけたつもりでしたけど?」
透子は悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見上げた。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「いえ、心配なさらずに。おかげで寝坊せずに済みますもの。今朝はどんな実験を先生に頼まれましたの?」
「征露丸ってあるでしょ、前の戦で兵隊さんに配られた感染症予防薬。だけど、風味が独特すぎて飲んでくれなかったって言うから、どうしたら飲みやすくなるか改良中」
「確かにあの味の衝撃は忘れならないわ。でも必要なら嫌でも飲むでしょう」
「飲みたくなくて、飲んだと誤魔化して捨てられたりしたそうよ。先生は砂糖でも混ぜろと言うんだけど、それだと余計に美味しくなくて。だから、薬効そのままに風味を変える方向で――」
私が言い切らないままに透子が遮る。
「まあ、時間がもう」
講堂に架かる大時計はまさに八時半を示そうとしていた。大学の講義の開始時間だ。自然と小走りになる。私達以外に講堂に向かう学生はいない。遅刻だ。
んん?
講堂からこちら側に歩いてくる男が一人。白いシャツに薄茶のズボンの平服。帽子は被っていない。五分刈り。
男が向かう先には女子寮か、私がさっきまでいた実験棟しかない。先生にお客さん? スーツじゃないから事務員さんや、営業の人ではない。先生の友人にしては若すぎる。
変だ――
すれ違いざまに男を観察する。年齢は私と同じぐらいか。捲った袖から適度に筋肉のついた腕が見える。日焼けした肌。でも、頭皮はそうでもないな。歩幅はやや大股、きひきびとしている。
ズボン越しでも分かるほど、臀部は引き締まっており、彼が日常的に肉体労働に就いていることが分かる。黒い革靴に汚れなし。手入れをしているというよりは、シワがないので普段履かないか、新品か。
ふーん
「ちょっと式見さん。何してるんです、遅れましてよ」
立ち止まった私に気付いた透子が言う。
「先に行ってて、戸締まり忘れました」
「あぁ、ちょっと――」
私は来た道を引き返し、男の後を追う。男は研究棟へ向かっているようだ。私は全力疾走で裏の勝手口へと回り込んだ。
私が研究棟と呼ぶこの建物は、名を香雪邸といい、実験室のほかに薬学博士、小山先生の執務室がある。執務室とは名ばかりで、先生は週一度の講義以外ほとんど学校に来ないし、中はただの物置きだ。もちろん今日も不在。
曰く、研究に集中したいから、それ以外のことに巻き込まれないように自分の本当の居場所は他人に明かさないとのこと。
私は実験室を自由に使っていいことの条件として、先生からこの建物の管理をするよう言われている。なので、私が戸締まりを忘れていたことが知られると実験室を没収されかねない。それだけは困る。
「誰かおられますか」
男は玄関戸をノックしている。まずい、せめて執務室は施錠しないと。私は素早く、かつ音を出さず、そっと部屋の引き戸の閂をかけた。
「おられますか」
男は扉に手をかけた。カチャカチャと閂が侵入を拒む音を立てる。これで一安心。すると、心に余裕が生まれたのか、先生の部屋の中を久々にじっくり見たような気がした。うず高く平積みされた資料にノート、学術誌、何かの植物の葉や根っこ。しばらく人が出入りしてないから、埃が堆積しているのが遠目でも分かる。
「おられませんか……」
男の溜息を背中の扉越しに聞いた。足音が遠ざかっていく。私は静かに深呼吸をした。スー、ハー……まずい、埃が気道に入った。
くしゅん。
静寂の館内に、それはよく谺した。
「誰かいるのか?」
「だ、誰もいませんょ」
私は苦し紛れの言葉を返した。
「そうか……仕方ない、なら日を改めるか……ってわけないだろッ!! いなければ返事など聞こえるものか。今すぐそこを開けろ」
ヒィ
私は開けられまいと必死で引き戸を抑える。男も開けんとするために、戸はガチャガチャ音を立て始めた。
「なぜ開けない、答えろ!」
「嫌だからです」
戸の音は一層に激しくなる。というか、
「違う、これは引き戸――」
戸が敷居から外れた。男は戸が開き扉だと思ったらしい。めいいっぱいに押すものだから戸は内側へ、つまり私の方へと倒れ込んできた。
きゃあ――
戸が外れた刹那、咄嗟に戸を払う――上手くいった。しかし、もう一つは避けることができなかった。私は男に押し倒される格好となる。
「お、重い……」
石鹸の匂い。男が私の上に覆い被さる。
「し、失礼しました」
「何なんですか、あなたは」
「居留守を使われたと思ってつい……」
むきになった、と言いたいのだろう。全く迷惑な話である。
「あの、早くどいてくださらない?」
「分かった、今――」
「式見さーん、いますの?」
この声は透子か。今の姿を見られるとマズい。
「私、心配になって戻って……」
きゃあ、という透子の小さな悲鳴。
間に合わなかった。
「待って、透子さん。これにはじッ、ゲッホ、ゲホ」
埃を吸い込みすぎたせいで上手く喋れない……
透子は顔を手で覆っていたが、指の隙間からこちらを凝視しているのが見えた。暴漢に襲われたとみるか、逢瀬の最中とみるか。
「ごめん遊ばせ、私の余計な心配だったようですね。先生には体調不良と伝えておきますわ」
後者だった。透子の言葉には、呆れと少しの怒気を含んでいる。
「違う、違うのよ、透子。ほら、早くそこをどきなさい、不審者」
私の弁明も空しく、透子はそそくさと立ち去ってしまった。完全に誤解された。このままでは私は女子校に男を連れ込む不良学生だ。先生に知れたら怒られるだけじゃ済まされない。実験室を使い込んでいるのは男と会うためと思われては、最悪退学。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
とはいえ、今透子を追いかけても、講義に水差すことになりかねない。講義が終わるまでは待つより他にないか。このような状況でも意外と私の思考は冷静だった。
「申し訳ない、余計な面倒をかけさせたみたいだ」
引き戸を嵌め直し終えた男が言う。
「本当によ。これで退学にでもなったら責任とってもらいますわ」
「責任って――」
変なところに食い付く男だ。迷惑をかけたのだから責任を取るのは当たり前だろう。だが、そう思った瞬間自分の失言に気付く。わーわーわー、顔から火が出そうだ。
「変な意味ではありませんからね」
「そ、そうですよね」
男は咳払いを一つして、
「本日のところは、お暇させていただきます。本当に失礼しました」と頭を下げた。
「お待ちください」と私はそれを引き止める。
「何かご用でいらしたのではなくって?」
「いえ、もういいんです。大したことではありません。帰りますから」
「私を押し倒すほどのことが大したことないと?」
「あの、いいえ、そういうわけでは」
「見たところ、あなた、軍人さんなのでしょうけれど、任務で訪ねたわけではないでしょう?」
私もただで押し倒されたくない。骨を折った分の損益を回収したい気持ちがある。わざわざが軍人が休みに薬学博士を訪ねてくる必要がある面白い話を聞かせてくれるのではないかという期待感少々。
「どうして軍人だと?」
「背中に書いてありましてよ」
驚く男は徐ろにワイシャツのボタンを外し始める。
「ちょ、ちょっと。何していますの? 背中というのは例え話で、本当に書いてあるわけないでしょ」
この男はどれだけ自分に馬鹿を上塗りしたら気が済むのか。
「確かに、鍛えられた肉体を見れば分かることだったか」
そう言って、男は上裸になると、力こぶを作ってみせる。意味不明な行動である。
「実は、君に、一つ、頼みたいことが、あって、訪ねたのだ」
読点ごとにポージングを変えて男が訊く。
「私に? 先生ではなくて?」
突飛な状況に思わず顰めてしまう。
私はこの男のことを知らない。人の顔を覚えるのは得意ではないが、同年代の男との接点なぞ限られている。会ったことがあるなら覚えているはずだ。だが、先生の客ではないことも雰囲気から明らかだ。
「そうだ。どうか私と一緒に茶会に出てはもらえないだろうか?」
はぁ? と思わず言ってしまいそうになったが、すんでの所でそれを呑み込む。それが半裸になることと何の関係があるのか、逡巡しても納得する道理が見つからず、私は、
「まずは、そこにお掛けになられて落ち着かれるのがよろしいかと思います」とだけ言うことにした。男はゆっくりと丸椅子に座る。上裸のままで。椅子はギシリと軋んだ。
「では、あなたが――」
「伊吹でいい」
「は?」
「俺のことは伊吹と呼んでくれ」
「分かりました。では伊吹。あなたが――」
「ちょっと待て。なぜ呼び捨てなんだ」
「今、伊吹でいいと言ったのは伊吹ですが?」
いちいち細かい男である。
「あーもういい。分かったから好きに呼べ」
「では、スキニー。あなたが――」
「最早日本人ですらない」
「スキニー、細かい男は女子に嫌われてよ。あら、私としたことが、スキニーという英語、『細い』という意味で、『細かい』という意味はありませんでしたね」
日本語って難しいよね。私を押し倒した恨み、ここで果らさで置くべきか。
「俺ってそんなに細い!?」
伊吹は上腕二頭筋を指で擦る。
違う、そうじゃない。馬鹿につける薬というものを本気で開発したくなってきた。
私は咳払いを一つ。
「少なくとも神経の方は太くないようね。えーっと、指宿? 指宿が私にお茶会へ参加してほしいとはどういうことですの?」
「あぁ、そうだった」
伊吹は恨めしい視線を返したが、言い返すのは諦めたらしい。伊吹は真剣な面持ちとなり、仔細を語り始める。
「なるほど、指宿は上官の『お前に付き合ってくれる女子なぞおるまい』という挑発に乗って、お茶会に女子を連れて来るという約束をしたわけだ。で、手っ取り早く相手を見つけるために帝女の女子寮へ来たと」
ここは実験棟だから場所も違うし、今の時間は講義中だから寮に人はいない。よくもまあこんな間違いだらけの計画を実行しようとしたものだ。
「じゃあ……」
「待て。一つ解せないのは、指宿は服を脱ぐ必要があったのか?」
「なんか、お前、言葉遣い悪くないか?」
「指宿にはいいのよ。それに私のことは、お前ではなく、式見さんと呼びなさい」
「はい、分かったよ、式見さん。服を脱いだのは、その上官が、『どうせお前が女子に話しかけても相手にされないのが関の山だ。もしかしたら、その筋肉を見せつけたら、ホレる女の一人ぐらいはいるかも知れない』と」
はぁ!? 私は頭を抱える。それは上官とやらに馬鹿にされているのだ。真に受けるヤツがどこにいる。
「上官殿は慧眼だ。いつでも俺に的確な助言をくれる。それで、式見さん、俺の頼みはどうだろうか?」
「私がお茶会に参加する利点を提示しなさい。行くかどうかはそれを聞いてから」
私は頭痛を我慢してそう答えると、伊吹は豆鉄砲喰らったような顔のまま動かなくなった。
あぁ、ダメだな。これは――上官は確かにこいつのことをよく分かっている。助言は概ね正しい。
「どんな人物が来るのか、とか。舶来の美味しいご馳走があるとか。聞いた話を全部教えて頂戴な」
「参加するのは俺と上官の不二川子爵、子爵の婚約者。主催者は子爵の知人で元外交官の男爵夫妻。君と合わせて6人の予定だ」
「その男爵、元外交官というのなら外国にはよく行かれるのかしら?」
勝手に頭数に入れられていることを指摘したかったが、それはもうやめた。
「そこまでは知りませんが、語学に堪能で、前の戦の開戦前にアルゼンチンから戦艦の購入交渉を成功させたとか」
私は考える。その男爵は外国とのコネを沢山持っていそうだ。ならば、外国の珍しい薬草の情報もあるに違いない。あわよくば譲り渡してくれる可能性も。その中に私が探しているものもあるかも知れない。男爵に会ってみる価値はある。それに、今回の一件で、私に縁談が来る可能性もなくはない。
「分かりました。なら一日だけお付き合い致しましょう」
翌日曜日。校門前に赴くと、そこには馬車が停まっていた。丸に三階松の家紋が見える。伊吹の話は嘘ではなかったようだ。
「あら、式見さんもいらしたの?」
馬車の中の先客に透子の姿があった。そう言えば、透子の家は婚約者がいるとか聞いたような。
「やっぱりそういう関係だったのではありませんこと?」
うふふと透子は含みのある視線を私に浴びせる。透子は普段の袴ではなく、萌葱色のドレスに流行りの廂髪だ。世間では203高地髷とも言うらしいが、私には頭に軍艦を乗せたようにしか見えない。
「前にも言いましてよ。あの日初めて会ったのですから、特別な関係などありません」
「じゃあ、そういうことにしておきましょう。それにしても、式見さんのドレス、素敵だわ」
今日の私はレースの刺繍の入った勝色のドレスを持ってきた。
伊吹から着るように言われていたから用意したが、普通の女子はこんな服を持っていないんだぞ、私に感謝しろと言いたくなる。
「透子さんのも色が綺麗で素敵。私は明るい色が似合わないから」
「少々派手かと思ったのですが……」
透子は隣の男を上目に遣りながら言う。なるほど、こいつが伊吹の上官かつ透子の婚約者の子爵か。公家の末席と思ったが、細目ではく、目鼻がくっきりの西洋的美男子。身長もありそうなので、公家というよりは武家。いや、末席だから、公家らしくないのか。
「君には明るい色の方が似合うと思うよ」
なんて惚気けたことを平然と言ってのける。もちろん、私の隣の馬子にも衣裳にすらならない男に比べたら断然優れているのだけど。
「まさか、この私が賭けに負けるとは。式見さんには失礼だが、伊吹が女性とまともな会話ができるとは思えなかったのだ。今日、君の姿を見るまでは虚勢を張っていると思ったぐらいだ」
「何をおっしゃいますか。流石に自分も母や妹と話をするぐらいのことはできます」
不二川子爵はこめかみを指で抑えて、
「粗相をしなければいいが」と漏らしたのを私は聞き逃さなかった。
「こんな男だ。どうやって口説き落としたのか分からぬが、巻き込んでしまって申し訳なく思う」
「ご心配なさらず、閣下。ここには私の意思で来たのです。決して彼の割れた腹筋に惚れたわけではありません。異国に行かれたという子爵様のお話を伺いたいだけのこと」と私は返しておくと、男爵は驚愕の表情を浮かべて口をパクつかせていた。私の読唇術によると『まさか脱ぐとは』と言おうしていたようにみえた。
そうしているうちに、馬車は邸宅に辿り着いた。この距離なら歩いてもそうはかからないのだろうけれど、作法だから仕方ない。
「ようこそ、おいでくださいました。どうぞ中へ」
「お久しぶりです、閣下」
不二川子爵の反応から、石光男爵本人が直々に出迎えてくれたようだ。
男爵は神経質を擬人化したような男だった。年はまだ二十八と聞いていたが、頭髪は白髪混じり、頬は痩けて、ギョロ眼、細長い手脚。
「お体の具合はどうです?」と子爵。
「あんまりだ。最近は吐血までして危うく死にそうになったよ」
「やはり心労が……」
「あぁ、医者の診断は神経衰弱から来る胃潰瘍とのことらしい。戦後処理はまだ終わらないからね」
「なるほど、狩猟をお誘いできるのは当面先になりそうですね」
「そうなるね。生きていればの話だが」
男爵は卑屈な笑いを顔に浮かべて言うと、客間へと皆を導き入れた。
客間は落ち着いた雰囲気の洋室で、ペルシャ絨毯に黒檀のテーブル、六脚の椅子。物が良いのは分かるが、凝った装飾は施されず、持ち主の人柄が窺える。
「どうぞお掛けになられてください。妻も直に来るでしょう」
ヴィクトリア風のロングドレスのメイド服を着た使用人が椅子を引き着席を促す。
「あれは猫ですか?」
伊吹が壁の一角を指差して思いついたように訊く。そこにはネコ科の大型肉食獣の毛皮と短弓が架けられていた。
「バカ言え、あんな大きな猫がおるか。虎だろう」と不二川子爵。
「いえ、あれには縞模様がありませんわ。豹に違いなくって?」
惜しい、透子。毛皮には斑紋があるため虎ではない、猫はサイズ的に論外として、豹であるならばその花柄にも見える斑紋の中心に黒点があってはならない。この毛皮はおそらくアメリカ大陸最大の肉食獣で獅子、虎に次ぐ体躯をもつ――
「ジャガーですよ」と石光男爵。
「アルゼンチンへ赴いた際に少しばかり寄り道を」
「閣下が仕留めたのですか?」
「いいえ。妻が仕留めたのですよ。眉間を一撃でね」と石光男爵は矢を射る仕草をしてみせる。
「へぇ。では前の洋行には奥様もご同行されたわけだ」
「それは凄い」
「妻は武家の娘でね、武芸全般は達者なようだ。義父も生まれる時代と性別を間違えたと嘆いておられたぐらいには」
すると使用人の一人が男爵に耳打ちする。
「そうか、どうしようもないやつだな。皆さん、妻は準備に手こずっているようで、皆さんを待たせるのもどうかと思いますから、先に始めさせてもらってもいかがでしょうか?」
男爵婦人は遅れるらしい。特段男爵の提案を拒否する理由もないので私を含め一同は首肯する。それに男爵は相槌すると、使用人はワゴンの上のティーカップ一つ一つにお茶を注ぎ始めた。
「ささ、どうぞ遠慮なく。お食事もご用意しておりますから」
各人の座席の前には、ティースタンドが置かれ、その中にはスコーンとサンドイッチが入っていた。今回の趣向は英国のアフタヌーンティー形式なのだろう。バターとバニラビーンズの匂いが立ち込める。
「では早速――」
と伊吹がサンドイッチを手に取るが、不二川子爵がその腕を掴んで制止する。
「こういうものはまずお茶を一口味わってからだ。閣下には申し訳ない。不調法な者を連れてきてしまった詫びはまた別の機会にさせてほしい。まさか賭けに負けると思わなかったのだ」
「いえ、そのようなことはお気になさらず。ここは日本です。彼が知らないのは無理もないし、気取った異国の作法も不要です。なによりここは私の屋敷。作法無作法は私が決めることですよ」と言いながら男爵は、お茶の味を確かめもせずに、砂糖一匙、ミルク少々、更にこれでもかいうほどのレモンの輪切りを加えた。丸々1個分入れただろうか、これではレモン汁を飲んでいるようなものだ。
なるほど、男爵の言動は如何にも紳士らしかった。伊吹の無作法に対してあえて自分も道化を演じてみせる。いや……もしかしたら無類のレモン好きなのかも知れない。決めた、今日から彼は私の中でレモン男爵だ。
「それに、どのような賭けをしたのか教えてほしいものですな」とレモン男爵。
不二川子爵は渋々といった様子でことの仔細を語る。時折、透子はふふと笑いを堪えていた。
「不二川君、それは君の負けだ。虚仮の一念何とやらだよ」
少々失礼な物言いではないかと危惧したが、当の本人は、
「苔の一年意思通ず?」などと供述しており心配無用だった。
「どういう意味?」と私は伊吹を睨む。
「苔にも一年ぐらい念じてみれば心を通わせることができる」
伊吹が虚仮にされていると私は思っていたら、いつの間にか伊吹に私が虚仮にされていた。どうやったらこんなに綺麗に間違うのだろう。正しくは、虚仮の一念岩をも通ず。
「皮肉という言葉はもともと仏教の言葉だそうですね。念仏が通用しない獣しか恐ろしいものはありませんわ」と私が言うと子爵は苦笑していた。
念仏が通用しない獣とは馬のこと。馬しかで馬鹿、皮肉が仏教の言葉なら、馬鹿に皮肉は通じないという皮肉である。
「君も帝国女子大の学生の聞いているが」と話題は私へと移る。
「閣下、彼女は小山博士の助手を務めるほど薬学の成績が優秀なんですよ」
透子が勝手に他人紹介をする。透子には分からないだろうが、女子に学業優秀はあまり良い褒め言葉ではない。
「では、将来は薬の販売でもするのかい?」
「いえ、殿下。すべての薬剤師が薬局で薬を売るわけではありませんの。薬剤師とは言わば、薬の警察。昨今は舶来品も含めて様々な薬が売られているわけですが、中には粗悪品や出鱈目な薬効を謳うものもあります。市中に出回る薬を監視し、必要に応じて指導、処分をするのが薬剤師の役目。薬の販売はその結果に過ぎないのです」
「なるほど。だが、薬局は儲かるとも聞くがどうなのかね?」
「信用次第でしょう。役目を果たさない薬剤師がいる薬局は早々に衰えます。信用の対価としての報酬だと先生はおっしゃっていました。それに、薬は売り手と買い手の原理に任せておけないからこそ、その信用に価値を見出されるとも」
「どういう意味かね?」
「クスリは逆さに読むとリスク。容易に毒にも転じます。毒を欲する者に毒を売ることが正しいことでしょうか? 英語で薬学の語源となっているPharmacyは元々、希臘語で毒という意味だったとも言います」
「キュウリだ……」
どこ吹く風の伊吹はサンドイッチの中身を見ていた。
「英国ではキュウリで客を饗すそうだ。異国伝来の高級食材だった頃の名残らしい。そう言えば、お前はキュウリ苦手だったな」と不二川子爵。
「だって苦いだけで他に味しないし」
「子供みたいなことを言う。風味と食感を楽しむものなのだよ」
確かにこのキュウリは並のキュウリだ。普通に苦い。苦み成分はクルルビタシン、過剰摂取で嘔吐を引き起こすが、それを利用して干した完熟キュウリを催吐剤として用いる。江戸初期までは不人気野菜で、後期に苦みが少ない品種が出回るようになって普及し始めたが、それでもまだ苦いので苦手な人が多い。最近出始めたピーマンとかいう辛くない唐辛子も相当苦いが、それでも吐くほど苦くはない。
大学の薬草園で私がこっそり育てているキュウリは苦みがないので、これを華族相手に売り捌けば、そこそこの研究資金になるのでは。と思い付いてみたけれど、教授に怒られそうな気がして即座に脳内会議で却下された。更に薬にもならないキュウリを作ってどうするのかと火に油を注ぎそうだ。
レモン男爵はようやくティーカップの中身に口をつけた。だが、その直後だった――
「顔色が悪いようですが?」と男爵を覗き込むように子爵が訊く。顔面がみるみる青白くなる。子爵の呼び掛けに応えず目が座り、テーブルの上に置いた手がブルブル痙攣し始めた。
「閣下?」
ただならぬ様子に子爵が駆け寄る。男爵は胸を抑えるような仕草をしてすぐ前屈みになったかと思うと、そのまま椅子から転げ落ちた。
ただ事ではない。私も立ち上がる。男爵は身体を起こそうとするが、足に力が入らないのか空を踏みつけるようで、もがくばかり。
喉に何か詰まらせたか、何だこれは?
「誰か、医者だ!」
子爵の声に、外で控えていた使用人も慌てて部屋にやって来る。
「もたもたするな!!」
子爵の声に、使用人は屋敷の外へと走り去る。
「毒だ。手を突っ込んで中身を吐かせろ!」
使用人がそれに応え男爵に触れるが遅かった。
「脈がない。死んでいる」
「そんな……」
突然の出来事にこの部屋にいる全員が茫然自失となった。そこに家令が何事かと駆けつける。
「御前様!!」
「これは毒物による殺人だ。誰も動くな! 警察を呼べ!!」
子爵の怒号が水を打ったように静かな室内に谺した。
***
「これでこの屋敷の全員です」
家令が人を集め終わり、応接間にて並ばせる。家令の外、厨房にいたお菓子職人の加島、お茶の準備した使用人の茶園、給仕係の膳所の全員で四人が並ぶ。
「奥方はどうした?」
不二川子爵が言うと、廊下からドタドタと男爵婦人が飛び込んできた。
「まあ、あなた!!」
彼女は男爵の亡骸に覆いかぶさるように座り込む。呼ばれた医者が婦人の肩に手を掛け、
「お気を確かに、奥方様。私が駆けつけたときにはもう亡くなられておりましました。お気の毒ですが――」
婦人の嗚咽だけが部屋に響く。それを断ち切ったのは駆けつけた警察官。
「取り込み中に申し訳ありませんが、奥方様。男爵は殺された可能性があります。今から現場の検証及び聴取を行い、犯人を特定する必要があり、御協力をお願いします」
「主人が――殺された?」
婦人は赤く腫らした目を大きく見開いて訊いた。
「そうです。最近、いや、最近でなくても、男爵が誰かの恨みを買っていたことはありますか?」
「誰かの恨みなんて一つや二つではごさいません。外交という仕事はそういうものです。それこそ、軍部の無茶な要求を無視し続けたことは恨みにはなりませんこと? 不二川閣下」
夫人は含みのある言葉を子爵に投げかける。
「否定はしない」
子爵は端的に答えた。
「殺人の動機を持つ人間は絞り込めないというわけか」
「待ちなよ、お巡りさん。殺人ってことは毒殺ってことだろ? なら毒物は何だ? 犯人とやらはどうやって男爵に毒を?」
珍しく真っ当な意見の伊吹。それに答えたのは医者だ。
「ハナから殺人と決めつけるのは良くない、皆様方。男爵は長らく胃潰瘍を患っておられた。胃潰瘍は死に至る病ですぞ。話の腰を折って悪いですが、病死の可能性をまず考えなければなりません。お茶に出された菓子が引き金となったのではないでしょうか。甘いものは胃潰瘍を悪くしますからな」
それに私が反論する。
「それはありえません。もし、死因が胃潰瘍であれば、男爵は失血を起こしたはずです。しかし、現場を見た限り、呼吸は速くなるのではなく、麻痺を起こしたようでした」
胃潰瘍が進行すれば致死的なのは正しい。あの病の不思議なところは一度治癒したとしても再び三度と穿孔が生ずることだ。何か根本的な原因があるのだろうけれど今の医学ではどうしようもない。失血性のショック症状には見えなかったし、何より絶命までが早すぎる。
「君は医者かね?」
訝しがる医者。
「薬剤師……見習いです」
「見習いが儂に意見するのか?」
「待て、話を続けなさい」と子爵。
「はい、引き続き胃潰瘍の可能性についてですが、胃からの出血があるはずなのに今回は吐血が見られません。現在男爵が処方されていた薬はありますか?」
「痛み止めのアスピリンだが?」
「なるほど――」
胃潰瘍だったのは間違いないだろう。アスピリンはヤナギに含まれるサリシンを数工程の化学修飾を施して合成される。サリシン自体にも鎮痛効果はあるが、加水分解、酸化反応により効果を高めたのが、サリチル酸。これに酢酸を付加してアスピリンとなる。サリチル酸でも効果は十分に期待できるが、酸性化合物のため胃を痛めるとのことでアスピリンが使われている。だが、アスピリンも胃腸障害を起こすので、私見としてはこの系統の化合物固有の副作用だとみている。つまり、男爵の胃潰瘍の悪化はアスピリンの副作用とも言える。鎮痛作用があるので胃痛も一瞬は鎮まるが、継続使用とともに悪化するのだ。本来ならばこうなる前に投薬を中断すべきだったのに。
「絶対否定できるわけではありませんが、以前は吐血したのに、今回それがないのは、死因が異なるからだと考えます」
胸のあたりを抑えていたので脳の異常も除外、心臓発作やアナフィラキシーの可能性はまだ残るが――
「仮に毒殺とすれば、毒物はお菓子とお茶どちらに入っていたのか」
「もしお茶に入っていたとすれば、ポットの中身は我々も飲みましたよ」
「となればお茶に毒は入っていないのか」
お茶を淹れた使用人、茶園は胸を撫で下ろす。
「だが茶器に毒を塗った可能性は?」
「そもそもどんな毒が使われたのだ?」
各々が各々の意見を言うので混迷してきた。誰かがこの場を収拾しないと。
「私の推理を申し上げても?」
挙手したのは給仕係の膳所だ。
「分かった。言ってみろ」
警察官が促す。
「今回使われた毒はヒ素です」
「ヒ素だって!?」
驚く一同に対して、意見を挟むのは医者。
「でもどうやって手に入れるのだ? 確かにヒ素はネズミ駆除用に一般人でも買えるが……そうか、殺鼠剤は食料庫の近く仕掛けるから犯人は食料庫に頻繁に出入りする人間、菓子職人だ」
周囲の目が菓子職人、加島に向く。
「待ってくれ。俺は何もしていない。そもそも雇い主を殺してどうやって生活するんだ」
菓子職人の反論に対し、膳所は答える。
「私は聞いてしまったのです。菓子職人と御前様の口論を。賃金アップの談判を断られ、賭博の借金のことも咎められていました。その腹いせではないでしょうか?」
「それは事実か?」
警官は菓子職人に訊く。
「あぁ。でも俺は殺してなんていない、断言する。第一、俺は菓子を用意しただけで、それがどのように配膳される知らないぜ?」
「配膳の指示はなかったのか?」
警察官は膳所に訊く。
「特にはありませんでした」
「ほら。どこに毒物を仕込むことができると?」
すかさず膳所は反論。
「皆さんはお茶に砂糖を入れましたか?」
私は首を横に振りつつ、周囲を見廻すが、ここにいる全員の反応も私と同じだ。
「そう、皆さんは砂糖を入れない派ですよね。ここにいた人物で砂糖を使ったのは唯一御前様だけなのです。つまり砂糖の中にヒ素が混ぜられていたのです」
膳所の推理に子爵が同調する。
「確かにヒ素は無味無臭。砂糖に混ぜられても区別はできないだろう。なら砂糖にヒ素が入っていたか検証してみよう。銀食器の用意だ」
すぐさま家令が厨房から砂糖壺と銀皿を持ってきた。子爵は皿に砂糖を乗せると、さらにそこに水差しから数滴の水を落とす。
「見ろ。食器が黒変した。砂糖に毒が入っていたんだ」
子爵は銀皿にできた染みを皆に見せる。
ヒ素自体は銀とは反応しない。だが、ヒ素の不純物として含まれる硫化物が銀と反応して黒変するのだ。子爵の検査法は概ね正しい。
「そ、そんな……俺は決して……」
「お待ちください――」
異議を唱えたのは透子。
「仮に菓子職人が毒を入れたとして、それをどうやって男爵の席にだけ置くことができるのでしょう。給仕係の方が疑わしいのではなくって?」
「そ、それは……」
膳所は狼狽えつつも首を横に振る。
「それに、来客が砂糖を使うかどうか分かるのかしら?」
更に補足すると、砂糖を山盛りにかけるのならともかく、一匙程度で確実に殺せるか微妙なところ。男爵は砂糖の摂取にドクターストップがかかっている。計画殺人なら、砂糖壺にヒ素を加えるやり方は不確定要素が多すぎる。
「男爵のティーカップとテーブル上の砂糖壺の中身を銀皿にかけても黒くはならないようだ。菓子職人に犯行は不可能かつテーブルの砂糖壺にヒ素は含まれていない。そうなると何者かがわざわざ厨房の砂糖にヒ素を入れたわけだ。これは捜索を撹乱するためか?」
子爵が膳所の推理を総括する。それに呼応し、警官が、
「なおさら毒殺の可能性が高まるということですな」と呟いた。
すると、全員が疑惑の使用人、膳所を見る。
「わ、私ですか? 違います。第一、この屋敷に元々ヒ素があると言っていません。だって屋敷の殺鼠剤は何かの植物の球根を使いますよ?」
「左様です。屋敷では海葱を使っております。庭で栽培すれば費用もかかりません」と家令。
海葱は強心作用のある薬草だが、ジギタリスと同じく量を間違えば心臓が止まる。正直使いにくい。だが、殺鼠剤という変わった用途があるのだ。殺鼠剤に重要なのは、十分な毒性があることは当然ながら、ネズミの嗜好性である。毒性があっても苦くてネズミが食べないものでは意味がない。その点、海葱の鱗茎(タマネギを想像してもらえれば良い)は栄養素とカロリーもあるのでネズミには美味しそうにみえるようだ。
「しかし、ここでヒ素が出てきたということは、購入者を調べれば、誰が買ったのか分かるだろう」
警官の勝利宣言。だが、今度は茶園がそれに水を差す。
「調べても分かりませんよ」
「何だと?」
「なぜならヒ素は奥様の化粧水の中ですから」
「化粧水? では犯人は男爵夫人だというのか。間違っていたらただでは済まさんぞ」
「いいえ、お巡りさん。化粧水の持ち主は奥様ですが、実行したのはそこの膳所ですよ」
「どういうことだ?」
「膳所は奥様が雇い入れたのですが、私は見てしまったのです。彼女が頻繁に奥様の寝所に這入っているのを」
「使用人なのだから、特段不思議には思わないが」
「それが深夜でもそう思いますか? 実は彼女と奥様は恋人同士なのです」
「まさか、いや、ありえない!」
「だがそうだとすれば動機ははっきりする。男爵が亡くなれば跡継ぎもいない。遺産は夫人が相続することになる。邪魔者が消えて一石二鳥ということか」
「はい。ヒ素は砂糖ではなく、予めティーカップに入れていたのです。配膳を担当した彼女ならそれが可能。奥様の化粧水の秘密を彼女が先に知っていたのか、奥様が指示したのかは分かりませんが」
かつて、ヨーロッパでトファナ水と呼ばれたヒ素入り化粧水があった。美肌効果を謳い文句にしていたがその実、既婚女性が、夫と離縁するために使われた。特に宗派がカトリックの場合、離婚はできないので合法的に別れるために使われたそうだ。
「そんな……私にできるはず――」
「お前が婦人と恋仲である話は事実か?」
膳所の弁明を制して、警官は訊く。
「はい。神に誓って、神はお認めにならないかも知れませんが、私達はお互いを愛し合っています。ですが、こんなことで人殺しなんて」
「だが、殺せば相当の遺産が転がり込んでくると言われたらどうなるか分からんぞ」
「待ってくださいませ。膳所は犯人たりえません。そもそも、これはヒ素中毒でもないのです。ですので、使われた毒がヒ素を前提とすれば誤った答えが導き出されてしまいます」
私は推理が逸れているのを指摘する。
「ほう、どうしてそう考える?」
「まず膳所が犯人であれば、言動に矛盾があります。食事に何らかの毒物が入っていた場合、真っ先に疑われるのは給仕係の膳所でしょう。しかし、彼女は皆の疑念が菓子職人に向いた際に、それに同調すればいいものを、「配膳の指示はなかった」と菓子職人に有利な、一方で自分が不利となる証言をしています。厨房の砂糖にヒ素が入っているのは犯人の偽装工作でしょう。ならば、嫌疑が自身に向かないように、徹底すると思いますが違いますか?」
「なるほど、そう言うんなら、まず使われた毒物は何だ?」と警察官。
「俺には分かった」
声を上げたのは菓子職人だった。
「毒物はミルクの中だ」
おいおい、何勝手に推理し始めているんだ。被害者はヒ素中毒たりえないという私の根拠を無視して次に進もうとするな。
だが、私のことはそっちのけで議論は加速していく。
「確かにここにいた人物でミルクを取ったのは男爵だけだ」と子爵。
「生乳は食中毒の原因になりえますが、そんなに直ぐに症状が出るでしょうか?」
それに医者が疑問を呈する。
「いや、これは実のところ牛乳じゃないのです」と菓子職人。
「どういうことだ?」
「御前様は牛乳でお腹を下す体質なのです。ですから普段牛乳を使いません」
なるほど、レモン男爵は牛乳不耐体質だったか。西洋人に比べて日本人には牛乳が体質的に飲めない者が多いと聞く。
「じゃあこのミルクの中身は?」
「アーモンドミルクだ――」
菓子職人は勝ち誇ったように言う。
「アーモンド粉末を水に混ぜたもので、本物の牛乳より腐敗しにくい利点がある。だが、気を付けなければならないのは、アーモンドには毒のあるヤツがあるんだ。誰かが有毒種のアーモンドミルクとすり替えた」
「苦仁種のことだな。西洋では菓子の香り付けに使われることもあるが、摂取量が多いと青酸中毒を引き起こす」
と医者が補足。
アーモンドはバラ科の植物で、桃や梅とは近縁に当たる。青梅を食べてはいけないのはよく知るところではあるが、実はアーモンドも野生種は有毒で、青梅と同じくアミグダリンを多く含んでいる。更に補足するとアミグダリン自体は無毒である。捕食によって果実・種子の細胞が破壊された際に、酵素反応が生じ、マンデロニトリルに変わるのだ。マンデロニトリルは胃酸と反応して青酸ガスを発生させる。だが、菓子職人の推理には二つの瑕疵が存在する。
「苦仁種が入っていたのであれば、苦いですから味で気付くと思いますよ」
私は反論する。
「いや、御前様はお茶にこれでもかというぐらいレモンを入れます。皆さんも見たでしょ? あれでは味なんてとても」
「なおさら不可能です。大量のレモンが入ることでお茶は酸性になります。すると苦仁種の毒が抜けてしまうのです。これでは実行は不可能。それに他の人がミルクを手に取れば、その人も犠牲になります」
青酸は弱い酸なので、同じ水溶液に胃酸など、他の強い酸が混ざるとガスとなって遊離する。体内での青酸ガスの発生は致死的だが、体外でこの化学反応が発生すれば毒性は減弱する。レモンの場合はクエン酸という青酸より強い酸が含まれ、男爵はレモンを入れてから口に含むまで長話をしていた。青酸の毒性はかなり弱められたはずだ。
「犯人は他の人間が巻き添えになっても構わない可能性だってあるじゃないか。そもそもお前はさっきから人の意見にいちゃもんばかり。そんな大層なことを言うなら、お前はどう考えるんだ?」
それはこちらが説明する前に話を被せてくるから、と言いたくなったが、それをぐっと堪えて切り返す。
「なら、青酸が使われた可能性はないことを証明してみせましょう」
私はミルクのピッチャーを掴み取ると、それをがばと飲み込んだ。脂肪の甘みと仄かな杏仁豆腐の匂い。苦味は全くない。
唖然とする一同。
「ほら、毒なんて入ってない」
簡単な話だ。男爵からは青酸ガス特有のアーモンド臭がしなかった。因みにアーモンド臭とはローストアーモンドの匂いではなく、杏仁豆腐の匂いに近い。えっ、さっきミルクから杏仁豆腐の匂いがしたって? いやいや、もし青酸中毒の場合の臭いは強烈で、口に含んだときに感じる程度では済まない。
「大丈夫ですの?」
心配そうな透子。
「いやはやとんだお転婆だ」
呆れ返る子爵。言いたいことは分かる。だがここは私の意地を通すところだ。黙っていてほしい。
「ちょっとよろしいですか?」
今度は家令が挙手。
「先程から身内ばかりが疑われるのは聞き捨てなりません。犯行の動機として挙がる候補も内輪揉めばかり。御前様が狙われた動機というのはもっと大きなものの可能性はありませんか?」
「外部犯の可能性を言いたいわけだ」
「左様です。それに、御前様の器にだけ毒を盛る方法を考えるのであれば、うちの使用人を疑う以前に、同じテーブルにいたあなた方のうちの誰かが御前様の器に毒を盛ったとは考えられませんか?」
家令は丁寧な物言いだったが、この言葉にはお前らのうちの誰かが犯人だと言わんばかりだ。いや、もしかしたら全員が共犯だと思っているのか。
「そんなこと言ったらあなただって――」
反応したのは意外なことに男爵婦人だ。
「あなただって、主人のことを快く思っていなかったではありませんこと? 帝室の藩屏たる男爵家が、最近は金策に熱心なばかりと、批判されてはおりませんでした?」
「奥方様、確かに言い争いをしたことはありますが、それは人間同士の付き合いですから全くないわけありません。どのような意図でそんなことをおっしやっているのか私には理解しかねます」
「あら? 理解が悪いのね。夫が亡くなれば男爵家は断絶。あなたは政府と何か密約を交わしたりしていませんこと?」
毒のすり替えだなんて、この家の中にいる人物全員が可能なのよと婦人は念押し。
「ち、違う。私は断じて――」
「これは魔術だ、魔女の仕業だ。でなければ皆の目を盗んで、御前様にだけ毒を盛るのは不可能」
「いや、実は全員に毒を盛られていて、御前様以外は解毒剤を飲んだのではないか。つまり御前様が口にしなかったものが――」
「毒物は殺鼠剤の海葱では――」
またしても銘々が好き勝手に話し始める。
ここで業を煮やしたのは警官だった。
「貴様ら好き勝手に話を進めて何してるんだ! この現場は私が取り仕切るのは自分だ。これでは何が事実だったか収拾がつかなくなる。もうよい、ここからは自分以外の者が許可なく発言することを禁ず。なさもなくばそいつが犯人だ」
あちゃー。額の痣が疼くような気がして、それを抑えた。
「初めからこうすれば良かった!」
警官はまずはお茶を淹れた使用人の茶園に向かって尋ねた。
「正直に答えろ。嘘はすぐバレる。お前に問う、お前が犯人か?」
「い、いいえ……」
「よし次。お前か?」
「違う」
菓子職人が答える。
次は家令の番だ。マズい、警官が自身に近い順番に訊いているとすれば、次は伊吹だ。伊吹の阿呆がヘマをやらかせば事態は余計に悪化する。トリックはおそらく分かった。検証する時間は欲しかったが仕方ない。それよりも犯人が何人なのかがまだ分からない。ここは一か八か賭けるしかない。
「お巡りさん。私、分かりました。男爵殺害の方法が」
私は警官の言葉を制して割り込んだ。
「なんだと?」
「まず、皆さんの誤解を解いておきましょう。今回使われたものはヒ素でも青酸でもありません。もしそれからが使われた場合は、まず嘔吐などの消化器症状が現れるはずです。そもそも経口での中毒の場合は大抵嘔吐反応があっておかしくないのですが、男爵の症状はそれとはちょっと違います」
「経口毒ではないと言うのか? じゃあどうやって男爵は殺された?」
「その前に条件の確認を」
「条件?」
警官は怪訝な顔をする。
「毒殺犯がいるとして、その者の犯行を証明するための条件は?」
「そんなもの毒物を使ったかどうかだ」
「それは実際に毒を混入させた人間ですか、それともこの結末を予見できた人間ですか?」
「何が言いたい?」
「例えば、誰かに依頼されて毒を淹れた人間は犯人ですか?」
「そんなものは場合による。入れた人間が中身が毒だと知っていたなら有罪、知らなければ無罪だろ」
「なるほど。分かりました。では、この事件を解決するために一つ私の言うとおりに従ってもらってもよろしいですか?」
「やむを得ん、よかろう。もし、解決が難しいと自分が判断したらそれまでだが」
「ありがとうございます」
先般のトファナ水の厄介なところは、単に日用品が殺人に使われたことではない。トファナ水に限らず、毒殺の厄介な点の一つが、発見された毒物が殺人に使われたことを証明するのが難しいという点だ。定性分析ができないこともないが、正直、明治時代の科学は万能ではないし。開封済みのトファナ水が夫人の部屋から見つかっても、それが毒殺のために使われたのか、化粧するために使ったのかは分からない。毒殺は一般的に、刺殺や撲殺のような物理的な殺傷方法と異なり、誰が犯行を行ったのか分かりにくいのだ。
ナイフなどの兇器が見付かれば、たとえ目撃者がいなくても、付着した指紋から使用者を特定できると聞く。だが、毒物は混入させたところを誰かに目撃されない限り、犯人は分からない。だから仮にトファナ水が犯行に使われたのなら、犯人は夫人なのか、使用人なのか特定できない問題がある(共犯の可能性もある。その場合どちらが主犯従犯なのかという問題も発生するが)。
トファナ水の厄介な点はまだある。毒殺全般の厄介さは今述べたとおりだが、ならば捜査当局はどうやって毒殺を立証するのか考えてほしい。実際の捜査では状況証拠を積み上げて犯人を一人に絞り込むしかない。有り体には犯行に使用された毒物の所有者は誰か、とか。だけど、所有者=犯人とはならないのでアリバイなど他の証拠も必要で、毒物を所有していても、その理由が毒殺ではない正当な理由で所有する場合もありえる。殺鼠剤や農薬なんかをイメージすれば分かり易いか。トファナ水も、化粧水としての用途を主張されると状況証拠として弱くなってしまうのだ。
さて、どうして私がこんなことに拘るのかというと、単に殺人鬼を許せないという義憤に駆られてではない。犯人なんて捜査当局に任せれば極論でっち上げでも逮捕される。それが許される世界だ。だが、それだと先生、小山教授はその場にいた私に失望するのではないだろうか。薬物を使った悪事は薬剤師が防がねばならない。それでも事件が起きてしまったときはその専門性をもって真実を詳らかにする必要がある。薬物に善悪はなく、使う人間の心次第。世の科学に対する信頼を取り戻さなければならない。
「では今から裁判をします」
「お前、何の権限をもってそんなことを」
「もし、私に非違行為があれば後で好きに処罰してください。これより行うのは神明裁判です」
「なっ――正気か?」
「ええ、本気ですよ」
神明裁判とは、死傷ないし負傷に繋がる危険行為を被疑者に行わせ、もし、無罪なら神様の加護により生還もしくは無傷となり、有罪ならそのまま死傷するという中世以前に行われた実質的な私刑である。(一応、神様の名の下で行われているのだが。)魔女狩りも似たようなものだ。日本でも似たような火起請や盟神探湯というのがある。
毒物が使われることもあり、有名なのは西アフリカのカラバル豆。毒を含むこの豆の煮汁の飲み、生きていれば無罪。死ねば有罪。一応これにはカラクリがあって自身が無罪と信じる者は毒杯を一気に飲み干すため、この毒の催吐作用により中身を吐き出す。一方後ろめたい者は毒杯を少しずつ飲むために上手く吐き出すことができずに致死量に達してしまうという仕組みだ。同じようなことが、大陸の反対側、マダガスカルでタンギンというキョウチクトウの仲間(カラバル豆とタンギンは毒の機序が異なる。それぞれフィゾスチグミン、ケルベリンという有毒成分)で行われていた。
「茶園さん、一つ訊いてもいいかしら?」
「は、はい。何でしょうか?」
「あなたはこのお茶を飲んだことはありますか?」
「え? はい。今日は味見してないですが普段と変わりないと思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
怪訝そうな周囲の顔。
「では隣のあなた――」
私は配膳をした膳所に呼びかける。
「あなたは狩猟を嗜みますか?」
「は? いいえ。そのようなものは普通、女子はやらないものです。奥様は以前されていたそうですが、私は見ての通り」
彼女は自身の左足を引き摺ってみせる。
「足が悪く、屋外での活動は制限されてしまいますので、狩猟なんてとても」
「そうですか――」
私は膳所との会話中、婦人が顔を顰めるのを見逃さなかった。膳所は婦人の愛人であることを認めたが、婦人からはそれについての供述がない。
「では、今から男爵が使ったティーカップの中のお茶を、夫人とその愛人だった使用人に飲んでもらいます」
私は男爵のティーカップの中身を二つの新しいティーカップに注ぎ直す。
「は? なぜそうなるのです?」と膳所。
「お巡りさん、その娘は頭がおかしいのです。彼女こそが犯人ではありませんこと?」
今すぐに逮捕なさいと婦人は抗議する。だが、
「面白い。ここは子爵家である私に預けてはもらえないか。責任は私が取る。式見さん、何か分かったのだろう?」
「お巡りさん、男爵婦人。ここは一つ私の言うことを信じてください。それとも、このお茶を飲めない理由があるのですか? 先ほど、私たちもいただいたものですよ。まだ毒物は特定されておらず、何に入っていたのかも不明です。それを知るのは犯人だけ。飲めば誰が犯人か分かるのです」
「式見さん、流石に限度というのがありましてよ。ティーカップに毒が入っていたら無事では済まされませんもの。神明裁判なんて撤回なさってください」
と透子は私の身を案じて諌める。
「お巡りさん、もうよろしい。その馬鹿な娘に付き合ってられません」
男爵婦人は配られたティーカップを飲み干した。
「ッ――」
警官は止めようとしたが、遅かった。
「ご覧なさい。何もないではありませんか。これで私は無罪でしょ? ほら、あなたも速く飲み干してしまいなさい。さあ――えっ?」
そこにはティーカップを持ったまま微動だにしない膳所の姿があった。
「まさか……あなたが?」
「これに毒が入っていたら、私は死ぬのですよね?」
「あなたに嘘偽りがなければ、神様は守ってくれるでしょう」
「でも、やっぱり私には飲めません」
「決まりだ。犯人は配膳をした使用人の膳所だ。よくやった」
と医者は拍手。
私は不二川子爵と透子に目配せをする。
「いえ、先生。犯人は男爵婦人ただ一人です」
「ちょっと待て。お前、神明裁判の結果を覆すつもりか?」
「飲んで死ななければ無罪だと私は言っていませんよ?」
「なっ!?」
「膳所さん、あなたは優しい人です。もし、誰かを庇っているのなら、それは無駄かも知れませんよ。おそらく向こうはあなたの気持ちに答えてくれません」
そんな……
か細い声が聞こえたような気がした。
「あなたは婦人の愛人だと自供しましたが、相手方の言質は取れていなんです。婦人はどう考えているんでしょうね。利用されているだけかも」
「そんなはずありません」
「あなたも男爵が亡くなることまでは予測できなかったのではありませんか。でも、あなたはこの結果を予測できた人間を知っている。その上で庇おうとしているのではと私は言っているのです」
「そんなこと知りません」
「でもよく考えてください。あなたは食卓の砂糖壺ではなく、厨房の砂糖壺にヒ素が混入していることを知っていた。また、お茶が怪しいことを知っている。砂糖壺のヒ素では殺せないことが証明されなければ、砂糖壺を運んだあなたが疑われるのは必至。誰があなたに罪を着せようとしているのでは?」
「そんなこと、ないです……」
膳所は涙ぐんで答えた。
「では質問を変えます。淹れる前の茶葉を別のものとすり替えましたか?」
「はい」
膳所は力なく答えた。
「認めますね? これこそが婦人が犯人であることを証明するものなのです」
「どういうことだ?」と警官は理解できないという困惑顔。
「では順を追って説明します。まず、ヒ素や青酸が使われた可能性について検討している際に、私は男爵殺害に何の毒が使われたのか分かっておりました。そして、その毒物の特性上、誰が犯人なのかも」
「ならそのときもっと早く教えてくれたら良かったのに」
「それでも良かったのですが、問題もありました。それは、犯人が何人なのか、ということです」
「犯人が何人? 複数犯だというのか」
「いいえ、犯人は一人であることが確定しました。それも今から説明します。ですが、まず毒物について。毒物は茶葉に混ぜられていたのです」
「待て、お茶は我々も口を付けたぞ。それに今、男爵婦人も飲んだばかりだ」
「はい、この毒は男爵だけに効果が出る魔法のような毒なのです。だから彼女は飲んでも安全だと分かっていた」
「ますます意味が分からん」
「毒物の用法が違うのですよ。飲み薬を塗り薬として使っても効果が期待できないのと同様のことが毒物にもあります。その毒物は経口では効果を発揮しないのです」
「世の中にはそんな毒も存在するのか」
「私が疑問に思ったのは、男爵の症状。嘔吐はなく、手足の痺れから始まりました。そして麻痺は全身へ。まずは猛毒の馬丁中毒を疑いましたが、その場合に特徴的な仰け反るような硬直性麻痺がないことから否定されました」
「だが、お茶は飲む以外に体内に取り込ませる方法がない」
「そうです。なので私達はお茶を口にしても何も起きなかったのですよ。でも思い出してください。男爵は口の中にもう一つ穴が空いていました」
「胃潰瘍か」
「はい。その毒物は消化管から吸収されなませんが、傷口などから血中に入ることで効果を発揮するのです」
「なるほど。で、その毒性は何だったのか」
「その茶葉に紛れ込んだ毒物はクラーレという植物の樹皮です」
消化器からは吸収されないが、出血部からの吸収で中毒する毒物はクラーレ以外にもいくつかある。しかし、男爵の症状を説明できるのは筋弛緩作用のあるクラーレ。しかもクラーレの原産地である南米に、男爵婦人は行ったことがある。出先で毒を入手したのだろう。壁に架かっていたのがジャガーではなく、獅子だったなら、使われた毒物はアフリカ原産のストロファンツス。猫だったら特定するのは難しかったかも。
「クラーレを使ったのではありませんか、男爵婦人?」
男爵婦人は俯いていた。
「はい。そのお茶にはクラーレが入っております。ですが、こんな結果になるとは思ってもみなかったのです。私は日常的に飲んでいましたし、使用人にだって飲ませたんです。だから安全だと思ったんです」
「はい。奥方様が言うように、淹れ方の指導を受けたときに飲んだことがあります」
「なるほど――」
そうきたか。トファナ水にはもう一つの難点が理論上存在する。実際に争点になったケースがあったかは分からないが、それは“使用者はその水が致死性の毒物だと理解した上で使用したか”という点だ。ヒ素にも致死量があるので、ごく少量の摂取では何ら症状が現れない可能性がある。井戸水なんかは地域にもよるが、ごく少量のヒ素を含んでいる。だから容疑者の言い分は、『普段自分が飲んでいるので、これを被害者に飲ませて死ぬとは思わなかった』という具合になる。結果的に人を殺したのだから殺人じゃんと思うかも知れない。だが、殺人罪が成立するには、犯人に明確な殺意があったかどうかが重要となる。脅すつもりなだけで、ナイフが相手に刺さるとは思わなかった、というのはありがちな言い訳だろう。だが、それだけで殺人罪か過失致死罪かの違いが出てくる。場合によっては事故として扱われるかも知れない。毒キノコと知らずに食べて食中毒死なんて毎年どこかで起こっているが、毒キノコを採取した者が刑務所送りになることは多分に知らない。だが、今回に限れば逃げ道はない。
「知っているか、知らないか――」
私は語り始める。
「殺人罪に問われるかどうかは明確な殺意があったかが争点となります。殺意とは、例えば刺殺の場合、刃物の長さや、刺した深さ、刺した回数などで客観的に判断されます。一般的に、毒殺は明確な殺意が認められやすい傾向がありますが、あなたの言うようにこれが、あなたの想定しえないことだったとしたら殺人罪ではないかも知れません。ですが、あなたはクラーレの使い方を知っているはずです。ジャガーがそれを教えくれました」
「ジャガーだと?」
皆が壁に架けられた毛皮に注目する。
「ジャガーの生息地は南アメリカ。クラーレの原産地と一致します」
「それだけのことで毒物を特定したのか。今回はたまたま的中したが、憶測で物を言うのは危険だぞ」
「そうでもないんですよ。夫人はこの猛獣を一矢で仕留めたそうですね。かなりの名人だと思うのですが、それにしては不可思議な点があります。彼女が使った弓が短弓であることです」
私は壁に掛かる短弓を指差す。
「短弓は非力な女子でも扱いやすいが、威力に劣る。仮に急所に命中しても、大型哺乳類を一発では仕留めきれないということか」
「おそらく毒矢を使ったものかと。クラーレは矢毒として都合のよい特性がありますので」
「獲物は殺すが、汚染された肉を食べても中毒はしない毒物」
「そういうことです。この毒の特性は被害者が置かれた状況を上手く説明できます。男爵は胃の創傷部から毒を吸収したために中毒した。一方で、健康な私達はクラーレを摂取しても中毒しなかった。そして、それを知っているのは男爵夫人です」
「動機は? 主人を殺すなんて普通じゃない。お前の推理が正しいとしても、どうして彼女がそんな凶行に至ったのか」
「動機はあまり重要ではないのですが、強いて挙げるなら狩猟に行かせてもらえないことへの不満とか。痴情の縺れとか」
「だから使用人に茶葉をすり替えさせたのか。ともすると使用人も共犯では?」
「その可能性がないことは既に確認しています。私がすぐに毒物のことを暴露しなかったのはその確認をしていたからです」
「どういうことか説明しろ」
「今回の論点は、毒の混入を予め知っていたか以上に、毒の特性を知っていたかです。男爵夫人が黒なのは今話した通り。では毒の混入を指示された使用人はどうなのか。もし、彼女がクラーレの特性を知っていたのであれば、躊躇うことなく毒杯をあおったことでしょう。毒杯を飲めなかったのは、毒で死ぬかも知れないと考え怖気付いたから」
「だが、毒物が何に入っていたか分からないタイミングなら、誰だって怖気付くのでは?」
「でも夫人は飲みましたよ。つまり膳所さんは毒の特性について夫人から知らされていなかった。だから飲めなかったんです。膳所さんには男爵の死という結果は事前に予測できなかった。だからこの犯行は夫人単独となるのです。以上で私の推理は終わりです」
「私は利用されたのでしょうか?」
膳所は項垂れて言う。
「私にそれは分かりません。ですが、婦人は砂糖壺にヒ素を混ぜるという捜査の撹乱をし、使用人らが疑われるように仕向けました。さらにクラーレの秘密をあなたに明かさなかったのですから、婦人はあなたのことを心の底では信用してなかったのかも知れませんね」
無論、同じことが膳所にも言える。膳所が夫人を信じて毒杯を飲むことができれば、私の目論見を外すことができただろう。だが、そんな追討ちするようなことは言わない。
膳所の嗚咽が聞こえる。犯人の夫人は血色の悪い顔で微動だにしない。
「女学生よ、この度の推理は見事だった。
あとは警察が預かろう。奥方様、署まで来ていただけますかな」
私は警官が男爵婦人を引き連れて玄関から出ていくのを見送る。
***
翌日、授業もないのに珍しく小山博士が香雪邸の執務室に現れた。そこで私は男爵の屋敷で起きたことを報告したのだった。
「この度は大変だったな。しかし、まさかクラーレが使われたとは……だが、事件も解決できたことは何より。尊い人命が失われたのは痛手だったが」
「でもまだ釈然としないことがあるのです」
私は先生が持ってきてくれたアールグレイを淹れながら言う。
「どんなことが?」
「婦人もまた膳所さんを庇っていたんではないかと私は思うのです。もし、膳所さんが毒の秘密を知ってしまっていたら、共犯者になるわけですよね。だからあえて教えなかった、なんてこともあるのかなって」
先生は一息吐き、静かにアールグレイを口に含んだ。その目は窓越しの薬草園ではなく、ずっと遠くを見ているかのようだ。
「なるほどなぁ。人の心は薬の調合のように厳密には行かず、定性もできないのだから困ったものだ。心次第で薬は毒にもなるからな」
歳を取る説教くさくていけないと先生は苦々しげに笑った。
その言葉の余韻が、静かに部屋に漂う。私は柑橘と茶葉が混じり合う複雑な香りとともに次のようなことを反芻していた。
心は不完全である。だが、その不完全さを補うほどの力が科学にはあるだろうか?
後半は言い逃れする犯人をゴリゴリのロジックで封殺する展開でしたが、いかがでしたでしょうか。少しでも面白いと思っていただけましたら幸いです。中編のミステリを書くのが好きで、いつかはまだ誰も使ってないトリックでクローズドサークルを書きたいと思っています。本作は長編の一部として書いたのを抜粋したものです。長編を置くかは考え中です。




