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図書館と秘密のレストラン

アルノーとの茶会は、驚くほど心地よい時間だった。

堅苦しい話題も、遠回しの探り合いもない。


彼はただ、季節の花や書物の話をし、時折さりげなく私の意見を尋ねる。

(……なんて穏やかなのかしら)


思えば、殿下と過ごした時間は、常に緊張と虚飾で彩られていた。

「王太子妃としてあるべき姿」を演じることが求められ、私自身の声など聞かれることはなかった。


だがアルノーは違った。

私が少し辛辣な意見を述べても、彼は笑って受け止める。

それどころか「もっと聞かせてください」と身を乗り出してくるのだ。


「……本当に、変わった方ですわね」


「変わっているとよく言われます。ですがセシリア様にそう言われるのは、光栄です」

冗談めかしたやり取りに、つい口元が緩んだ。


私の笑みに気づいたのか、彼もまた柔らかな笑みを返す。

不思議なことに、その笑顔には下心も打算も見えなかった。


その後、アルノーの提案で私達は図書館へと向かった。


王都の大通りから少し外れた場所に、その図書館はあった。

高い天井に陽光が差し込み、古い本の匂いが漂う。

社交界の華やぎとは無縁の、落ち着いた空気に包まれた空間。


「ようこそ、セシリア様。ここは私が一番好きな場所なんです」

アルノーは少年のような笑顔を浮かべていた。


私は本棚を見上げた。背表紙の並ぶ光景に、不意に胸が高鳴る。


「……すごい。まるで宝物庫みたい」


思わず零した言葉に、アルノーが小さく笑った。


「セシリア様にも、そう見えるのですね。どんな本に興味がおありですか?」


「そうね……政治書も嫌いではないけれど、できれば歴史書や神話のほうが」


「でしたら、こちらへ」

彼は私を案内し、重厚な棚から分厚い本を取り出す。


『古王国年代記』――その表紙を見た瞬間、心が跳ねた。


「これ……子どもの頃、ほんの少しだけ読みかけて、続きを許されなかった本だわ」


「許されなかった?」

首を傾げるアルノーに、私は苦笑する。


「王妃教育の役に立たないと言われてね。以後は取り上げられてしまったの」


そのとき、彼の瞳が少しだけ怒りを帯びた。

「……なんてもったいないことを」


一瞬、胸の奥が熱くなった。

誰も気にも留めなかった私の小さな興味を、彼は真剣に惜しんでくれた。


二人で並んでページをめくる。

書物の中の英雄譚に夢中になるうち、時間を忘れていた。

気づけば窓の外は茜色に染まり、図書館の空気が柔らかく揺らいでいる。


「……こんなに楽しい日は、久しぶりだわ」

思わず漏らした言葉に、アルノーは静かに微笑んだ。


「私もです。セシリア様と語り合える時間が、こんなにも心地よいとは」


紅茶の席とは違う、知と静寂を分かち合う時間。

――それは確かに、私にとって新しい物語の一章だった。


別れ際、私はふと口をつく。

「今度は……私の方から、ご案内してもいいかしら?」


アルノーが目を瞬かせ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ、もちろん。どこへでも」


私は彼を王都の裏通りへと連れていった。

大通りの煌びやかなレストランとは違い、石畳の細道を抜けた先にひっそりと佇む店。

外観は質素だが、店内には温かな灯りがともり、香ばしい匂いが漂っていた。


「……ここは?」

不思議そうに首を傾げるアルノーに、私は小さく笑った。


「子どもの頃、侍女に連れられて一度だけ来たことがあるの。

その時だけは、牢獄から抜け出せた気分になれた……そんな場所よ」


王妃教育に追われていた日々。

決められた振る舞いと堅苦しい食卓。


けれどこの店では、余計な礼儀作法を求められず、ただ料理を味わうことが許された。

その記憶は、私にとって密やかな宝物だった。


レストランに入り、木製のテーブルに腰を下ろすと、香草の効いたスープと焼きたてのパンが運ばれてくる。


湯気が立ちのぼり、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。


「とても美味しいです!」

一口含んだアルノーが、心からの感嘆を洩らした。

彼の表情はいつもより柔らかく、まるで少年のようだった。


「気に入ってもらえたなら嬉しいわ」

私自身もパンをちぎり、スープに浸して口へ運ぶ。

じんわりと広がる温かさに、胸の奥が満たされていく。


「なるほど、牢獄からの解放……確かにわかる気がします」

アルノーは目を細めて私を見た。

「誰にも縛られず、ただ食事を楽しめる時間。確かに今思うと貴重な時間ですね」


「ええ。だからこそ、この店は私の秘密の場所だったの」


その言葉に、アルノーは少し真剣な眼差しを向けてきた。

「では、こうして招かれた私は……セシリア様にとって特別、ということですね?」


思わず息を呑む。

冗談めかした口ぶりのはずなのに、真摯な瞳が私を射抜いていた。

頬がわずかに熱を帯びるのを感じ、慌てて視線を逸らす。


「……そういう解釈をされると、困るわ」

「ふふ、困らせてしまいましたか。ですが、嬉しいのです」


彼の穏やかな笑みを前に、私もつい口元を緩めてしまう。

――このひと時が、どれほど貴重で幸せなものか、心のどこかで理解していた。


食後、店を出ると夕暮れの空が広がっていた。


今日は確かに、私の物語に新しい色を添える一日だった。

心が軽くなるのを感じ、気づけば日記に彼の話題を記している自分がいた。


――だが、世の中はそう簡単に私を放ってはくれなかった。


ある日、屋敷に戻ると、侍女がそっと耳打ちした。

「お嬢様…社交界で、新しい噂が広まっております」


「またですか。今度はどんな愉快なお話?」


「……セシリア様が“次なる婚約者を見つけた”と」


私は思わず紅茶を吹き出しそうになった。


アルノーとの時間を、誰かが見ていたに違いない。

「まだ何も決まっていませんのに……まったく、噂好きなこと」


「けれど、殿下の元婚約者に新しい縁談が持ち上がるなど、皆が色めき立つのも無理はありません」

私は肩をすくめ、笑った。


(皮肉なものね。婚約破棄で“笑う悪役令嬢”と呼ばれた私が、今度は“再婚を狙う女”になるなんて)


けれど、心のどこかで――その噂を完全には否定できない自分がいた。

アルノーの真摯な眼差しを思い出すたびに、胸の奥がほんのりと熱を帯びるのだ。

ここまで読んでいただきありがとうございました


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