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猫はそぞろ歩きの最中に殺鼠剤でも食べたのだろう、ということで話は片付いた。
使用人が十人がかりで必死にはたいて洗った結果、絨毯はなんとか汚れを抜かれた。テラスは胸をなでおろした。
アンリゼットは湖面を眺めている。芝生の上に布を敷き、座り込んで一人きり。ルベッタ伯爵家から離れて、静かに感情を整理する。それでもふつふつと胸の奥に怒りが渦巻く。
確かにユージミーは、よい夫ではなかった。むしろその逆。殺された痛みはいまだ消えず、夜中に悪夢を見て飛び起きることもある。【石の槍】が胸を貫いたあの激痛が、ふいによみがえることさえある。
だがそれとこれとは話が別である。
アンリゼットの生まれたキルケー伯爵家は、代々人を猫に変える魔法を守り伝えてきた。
(ユージミーは、私の猫だった)
もはや憎い夫ではなく。
人間ですらなかった。
ならば、アンリゼットには彼を保護する義務があった。保護して、幸せにしてやり、生きる理由を与えてやる必要があった。
(若い健康な猫が血を吐いて死ぬなんて普通じゃない……私は、しくじった。ご先祖様がしくじらなかった任務を、私はやりそこねたのよ)
くるくると喉を鳴らす音がした。どんっとグレーの雄猫がふくらはぎに乗って来て、彼女の脇腹を頭突きした。やんちゃで走り回るのが好きな若い猫。
「レオン、私、集中していたところだったのよ?」
アンリゼットは苦笑して、その丸い頭を撫でてやった。
レオンは人間だった頃、窃盗の常習犯だった。あらゆる家と聖堂に百回も盗みに入り、とうとうある商人の家で捕まった。
ちらりとこちらを気にしたあと、興味ないわと言いたげにどこかに行ったキジトラのカトリーナはパン屋のおかみさん。浮気した夫を麺棒で撲殺して捕まった。
堂々としたブラウンの大猫アレクサンダーが湖面を覗き込んでねそべっている。彼は野盗の親玉だった。故意ではなく一人を殺した。処刑か猫になるかを選択させられ、猫を選んだ。
その通り。――キルケー伯爵家が猫に変えてきたのは、領地で裁かれた犯罪者たちだった。魔法で猫にした人間は、その罰を受けるにふさわしい者ばかり。彼らが猫として一生を生きることが罰のすべて。人間であったすべてを失い、猫として終わるまでを見届けること。それがキルケー家の人々の宿命であった。
アンリゼットは父や祖父が裁きを下した犯罪者たちを引き連れて、ルベッタ伯爵家に嫁入りしてきたのだった。それがすべきことだったから。
猫になる、ということは人間としての生を失うということだ。家畜のように生殺与奪を握られ、事情を知る者には指さされ、やがて思い出も思考も失って本当の猫になる。猫の身体、猫の思考、猫の寿命。
死んだあともその魂は神の御許にいくことなく消滅する。他の動物たちと同じように。
罰ととるか褒美ととるかは人によるだろう。だが少なくともキルケー伯爵家は猫になることを罰だと定義した。
場合によっては被害者の家族が犯人だった猫を譲り受けることもあった。そのあと猫がどうなるか? そこまでは――キルケーは関与しないし、そもそもあまり許可を出さない。
それら全部、人を猫に変える魔法を持つ者の権利だった。
キルケー伯爵家が死に絶え、王家が支配するようになったかつての故郷をアンリゼットは思う。何十年かのち、土地は分割されて適当な貴族家に分け与えられ、領民はキルケー伯爵家の統治時代を忘れるだろう。
それでも。ごく一部の平民、貴族に仕える秘書や侍従や侍女たちは口をつぐむだろう。残りの平民たちはキルケーの魔法が何であるかも知らないだろう。
それでもきっとそのうち、事情をうっすら知る使用人の口などから秘密は漏れる。漏れて広まり、脚色され、噂話が語り継がれ、やがて神話になる。
――悪いことをするとお貴族様に猫にされてしまうよ、と母親が子供に言う土地。元キルケー伯爵領がそうなれば、それが勝利である。キルケーは神話の中に生き続け、決して滅亡しない。
アンリゼットはそれらすべてを受け入れようと思ってきた。仕方のないことなのだから。ルベッタ伯爵家に染まり、ルベッタとして生きようと決意した。何より亡くなった両親はじめ家族のために。
猫のユージミーの死は、彼女の覚悟を嘲笑うも同然だった。
彼は彼女の管理下において幸せにならねばならなかった。猫として。
人間としての生を忘れ、猫に貶められて生き続けなければならなかったのに。それが彼女が彼に与えたつぐないだったのに。
「マオーゥ」
背中に温かい毛皮が寄り添った。
「ねえシーザー、私ユージミーを殺した人間を見つけようと思うの」
「ネーブルルル」
巨大な黒猫は理知的な金色の瞳で彼女を見上げる。黒髪のアンリゼットは風景から抜け出したインク絵のように存在感を持つ。彼女は灰色の目で、ただじっと宝石のような水面を見つめる。
「コケにされて黙っていられるもんですか。仮に私が気に食わないのだとしても、どうして私の猫を殺す必要があって? ねえ?」
「――そりゃ、俺も同感ですがね」
重たい足音はふいにこの世に顕現した異教の悪霊のように唐突だった。
アンリゼットは振り返った。風になびく前髪の向こう、シルヴィンが所在なさげに立っている。その足元にたくさんの猫が集まって、フンフンにおいを嗅いだりしっぽを絡ませたりした。
と、茂みからソニアが飛び出してきた。短い手足で可能な限りしゃかしゃか走り、シルヴィンの脚にぶつかるとくねくね身をくねらせる。それから尻を振り、甘い声で求愛を始めた。
「まあ、ソニアったら」
アンリゼットは口に手を当てた。猫は猫であるから、当然妊娠可能である。ソニアは子猫を産みたいのだろうか? なんとも本能に忠実なことだった。
「それです」
シルヴィンは重たい口調で言った。足元にじゃれつく猫のことなど、見えていないのかもしれない。
「あの殺された猫の名はユージミーなんですよね? それでこれが、ソニア……なぜ猫にご夫君とその愛人の名前なんてつけるんです。悪趣味だ」
「放っておいて。私の猫のことなんだもの」
「……旦那が行方不明になったことと、何か関係があるんですか?」
アンリゼットはにっこりする。シルヴィンはかすかに怯んだが、退かなかった。
「奥様。貴族の方が魔法を使えることは知ってます。けれど勝手に使うことは禁止されているはずだ。そのくらい俺だってわかりますよ。あなたがもし……もし、俺が考えている通りのことをしたのだとしたら、俺はあなたを……」
「私を? どうするの?」
不自然な沈黙が満ちる。
二人は互いに知らない人を見るように見つめあった。シルヴィンの黒い目が火のように昂ぶり、褐色の肌は陽の光を浴びて金色に艶めいた。彼は美しかった。
苦々し気に瞼を閉じ、彼は呻いた。
「どうにもできない。俺が、あなたを、害するなんて考えられない。どうすることもできないよ」
そのときのアンリゼットほど、衝動を抑えるのに苦労した女は世界のどこにもいなかっただろう。身体の中で魔力が疼き、今にもあの恥ずかしい呪文を唱えそう。心臓が飛び出しそうだった。
彼女は彼を猫にしてしまいたかった。
彼女だけを愛して、彼女だけから愛されることを願う、抱っこされたがりの大きな猫に。