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 ひと月が経ち、ふた月が経つ頃にはもはや領民の誰もがアンリゼットを警戒しなくなっていた。元々、小さな領地である。護衛騎士を従えて馬を駆る風変わりなお姫様は、見慣れてしまえば珍しくもない風景の一つとなった。

 ユージミーとソニアは時折、酒場や宿屋に繰り出して乱痴気騒ぎを繰り広げた。ご相伴に預かるのは普通の家の厄介者たち。五男坊や六男坊、娼婦くずれや吟遊詩人の真似事をする男、どこかからやってきて路地に住み着いた女などなど。ろくに働きもしないくせに他人のおこぼればかり狙う者たちに、ユージミーは気前よく奢ってやった。すると厄介者たちはそのあたりにたむろするようになり、住民は迷惑していたのだった。

 アンリゼットは厄介者たちに仕事を与え、ルベッタ伯爵家から賃金を支払った。ゴミの清掃や道の修繕と清掃、便所の中身を農家までもっていく手間賃仕事。

 誰もがやりたがらない仕事だし、働き方を知らない者たちだ。最初はうまくいくまいと思われていたが、不思議と彼女にせっつかれると不承不承、厄介者たちは働いた。

 領地は次第に明るく、活気づいていった。


「あなたがこんなに人を操るのが上手いとはね」


 とシルヴィンは唸った。川べりでのことである。ここは屋外だから、二人が主従にしては少しばかり近しい距離で流れを見つめていても、まあ多目に見てもらえる。

 季節はすっかり春だった。ぽかぽかと暖かい陽気に眠気がやってくる。アンリゼットは小石を指先で弄ぶ。


「たぶん天性のものだろうな。あなたに焚きつけられると誰しもその気になってしまうようです。人は誰しも煽てられりゃ悪い気はしないもんですからね」


「……本当に必要なときには、うまくいかなかった覚えがあるわ」


「へえ?」


 シルヴィンはあぐらの上に肘をつき、アンリゼットの横顔を見つめた。白い肌の細面にかかる黒髪が、細い絹糸みたいに光っていた。


「いつもみたいに説得して?」


「ええ。一生懸命諭したつもり。そしたら、目つきが偉そうで聞くに堪えないですって」


「そりゃあ相手が曲がってる。奥様のことが憎たらしかったんだろうな」


「どうかしらねえ……」


 と言いつつも、アンリゼットの心にシルヴィンの言葉は染みこむ。

 彼女は同情されたかったのだろうか? 誰かに、こういうざっくばらんな口調で。古傷をちらりを見て、ああ痛かっただろうねと軽く頷かれるように。

 わかるのは、この世界線ではもう起こることのない過去が癒されるだろう、という確かな予感だけだ。――シルヴィンがいてくれれば、きっとそうなる。


「俺はあなたにお仕えできて幸運だったと思いますよ。ここの連中は疑り深いが打ち解ければ気のいい奴らだし、お屋敷はきれいに掃除されてるし、あと給金がいい」


 シルヴィンはしみじみ言い、アンリゼットは笑った。久しぶりに心から笑い声を立てた気がした。


「お上手ね」


「奥様に言われるとは――」


 彼は身軽に立ち上がる。小川の上流、つまり裏に水源の湖がある屋敷の方から、誰かが駆けてくる。

 メアリーだ、と気づいてアンリゼットも立ち上がった。シルヴィンが前に出ようとするのを制し、アンリゼットは足早にメイドに近づく。


「メアリー、どうしたの?」


「お、奥様、奥様ァ。今すぐおうちにお戻りください、その……その、猫が。猫が!」


 アンリゼットは立ちすくんだ。

 シルヴィンがくらりと二の足を踏む彼女を支え、メアリーに顔を向ける。


「猫がどうしたって? どの猫だ?」


「その、オレンジ色の大きな猫です。あの暴れん坊の。その猫が……」


「すぐ戻ります。メアリー、案内して!」


 アンリゼットは叫ぶ。そしてそのようになった。

――ユージミーは応接間の真ん中で死んでいた。

 緑色に白くルベッタ伯爵家の家紋が織り込まれた、みごとな絨毯が赤黒い血にまみれている。血と、吐瀉物。吐いたものは黒と赤と、わずかな緑色だった。

 ユージミーのオレンジ色の毛並みもまた、同じドス黒い色に染まっていた。すでに腐臭がした。猫の小さな口元からこぼれる血。最期のときに痙攣したのだろう、手足の周囲に爪のあと。

 アンリゼットは無言で彼の元へいくと、その硬直した身体を抱き上げた。シルヴィンとメアリー、それから使用人たちが集まってきて、扉から彼女と猫の死体を見つめる。

――一体何があったの? 奥様が持ってきた猫が……猫が血を吐いて? なんて不吉な……へんなものでも食べたのかしら?

 すべてはアンリゼットの耳を通り越していった。彼女は見開いたままのユージミーの瞼を指先で閉じてやった。


「誰がお前を殺したの……?」


 シルヴィンが音もなく近づいてくると、斜め後ろから声をかける。


「奥様、残念に思います……」


「ユージミー」


「何て言いました?」


「この猫の名は、ユージミー。私の猫として生まれ変わった日から、彼は私の庇護下にあった。私のもので、私の罪で、私の呪いそのものだった。私には彼を幸せにする権利と、義務があった。生殺与奪を握る代わりに、猫らしく気ままに歩かせてやれる。そういう約束だった。それなのに」


 ミーとか細い悲鳴がした。振り返ると椅子の上、その擦り切れた布地を隠すために敷かれたブランケットの下からソニアがぴょっこり顔を出した。


「おいで」


 と片手を差し出すと、脇目もふらずに駆け寄ってくる。怖かったの、と訴える声でミイミイ鳴くのを抱き上げたアンリゼットは、片手に大きなオレンジ猫の死体、もう片手に小さな灰色の子猫を手にしてシャンデリアを見上げる。

 そこには何もない。ただクリスタルがきらきら輝くばかり。


「何事だ? おや、シルヴィン殿。外で立ち働く身でこの部屋に立ち入ってはいけません。埃が入ってしまう」


 と不機嫌そうに足音を響かせ、執事のテラスがやってきた。後ろには可愛がっている侍従たちが二、三人。亡くなったユージミーの母づきの侍女だったレティシアもいて、猫の死体を抱えるアンリゼットを見つけると呻いて鼻を覆う。


「奥様? 何がありましたか?」


「誰かが私の猫を殺したわ」


「なんとまあ。……おお、猫が」


 テラスは顔をしかめたが、それは猫の死を悼んだというより、汚いものが自慢の応接間を汚したことに対する嫌悪のためだった。


「奥様は悲しんでいらっしゃるんです、テラスさん。見てわからないんですか?」


 シルヴィンが静かに言うと、メアリーはじめ年若いメイドたちがこくこく頷いた。アンリゼットが連れてきた猫たちはルベッタ伯爵家の日常で数少ない癒しであり、使用人たちに受け入れられていた。


「どうして私に対してそんな口をきけるのか――おお、絨毯が! これは大変だ。ルシアン、マクシム。急いで洗浄液を取って来てくれ。洗濯女たちに場所を開けろと言え……」


 テラスの指示に使用人たちが一斉に動き始め、アンリゼットは応接間の真ん中で上を向いている。ソニアが不安げにニャーと鳴いてちぢこまる。


「私の庇護下にある者を害して、ただじゃおかない」


 彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。


「覚えていなさい、誰だろうと。必ず犯人を見つけてやる」


 

 

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