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一夜明けて、アンリゼットはシルヴィンと対面した。場所は執務室。彼女にとっては馴染んだ場所である。ユージミーに代わって領地の面倒を見るため、ここと自室を行き来する生活をしてきたのだから。
もっとも、それはなかったことになったのだけれど。
お茶の支度を終えたメアリーが一礼して去っていくと、室内には沈黙が満ちた。部屋の扉は半開きである。貴婦人と使用人は同じ密室にいるべきではない。
シルヴィンは椅子に腰かけても大きい人だった。今は新しい白いシャツと栗色のズボンを身に着け、黒髪を几帳面に後ろに撫でつけている。お茶を出して勧めると固辞したあとに手に取った。その仕草はどこか高貴で、彼の出自はそう卑しいものではないのかもしれないと彼女は思う。
音を立てずにお茶を啜ると頬が少しくぼんだ。流れるように耳の下へ向かう髭を綺麗にした顎の線。まなざしは思慮深く、相変わらずはっとするほどの美貌。褐色の肌は子供の頃一度見たチョコレートのようだ。ミルクに溶かして家族みんなで大事に飲んだっけ。
「さてと」
アンリゼットはカップをソーサーに戻し、手紙を開いた。フェンリス侯爵家の封蝋は夕日のように赤かった。
「シルヴィン・イタケー。フェンリス侯爵の元で護衛騎士を務めていたのね。腕は確かと書いてあるわ」
「恐縮です、奥様」
「どうしてフェンリス侯爵家をお辞めに?」
「契約満了したからです、奥様。元々二年契約でした」
「領地と都を行き来するときに野盗の襲撃を受け、撃退したとありますわね」
「ええ。雇用者を先に逃がし、十分に足止めしてから自分も無傷で戻る」
シルヴィンは事もなげに言い、にこりともしない。
「それが俺の仕事です、奥様」
ニャアン、と愛らしい甘え声が唐突に上がった。大きな黒猫が天井の梁から執務机の上へ、優雅に降り立った。
「シーザー」
アンリゼットは膝の上にすり寄ってくる彼に微笑み、抱き寄せる。猫は彼女の胸元にすり寄った。
「可愛い猫ですね、奥様」
「その、奥様奥様というのはやめて。まるでこっちを試しているみたいだわ」
シルヴィンは片方の眉を上げた。まるで、小さな子供が大人びたことを言い出したのを驚くような顔だった。
「旦那様はいらっしゃらない、とだけ執事さんから聞きました。いったい何があったんです? 俺は知る権利があると思います、お……アンリゼット様と、お呼びしても?」
「いいわよ。私に言えるのは、彼は恋人と一緒に旅立ったということだけ。それでもうここにはいないのです」
「何だって?」
予想外の返事だったのだろう、シルヴィンは驚愕したようである。少なくとも、彼の考えていたような事情――我儘いっぱいの貴族の若夫婦が喧嘩して旦那が家出し、使用人たちはその余波をくらって右往左往させられている、という程度のことではないと。
「それは……なるほど、家とご自身の名誉をお考えになれば、大っぴらにはできませんね」
「新婚早々夫に逃げられたとあっては、どんな悪妻かと噂されるでしょうものね」
いけしゃあしゃあ、アンリゼットは肩をすくめる。
「まあ別に、構いやしないのよ。あと三年もすれば私は出ていくから」
「三年?」
「だって夫がいないのでは、義務も果たせないでしょう?」
「ああ……」
と、彼は納得したようだった。白い結婚は、社会階層の上から下まで浸透した概念だ。
「しかしそれでいいんですか? あなたは何も悪いことはしちゃいないのに」
した。
他人に先制攻撃として魔法をかけるのは禁忌だ。
だがアンリゼットは冷静だった。彼女の中にはすでに、自分のしたことを正当化するだけの理屈が揃っている。それがどんなに醜いことかもわかっている。けれど。
――殺されたのだ、魔法で。
肉が切り裂かれる痛み、命が失われる恐怖、自分と他人への絶望、これで終わりなのだと悟ったときの言葉にできない根源的な黒々とした感情のすべて。一度でも味わってしまったら回避するために何を差し出してもいいと決意するだけに足る、すべて。
――罰はいつか、本当に死んだあと、神の御許で受けるのだと彼女は決めた。
貴族同士が魔法の絡んだいざこざで死んだ場合、身内が復讐することは法的に認められている。それと同じようなものだと、彼女は自分自身に釈明する。
それに、それに……。
マーオオウ、と高らかに鳴いたシーザーがすっくと立ちあがり、机を乗り越えシルヴィンはの元へ向かった。
「お、おお?」
大きな、大型犬くらいある黒猫に男はややのけぞる。といっても雇い主になる貴族の奥方の猫、払いのけるわけにもいかず手をわたわた上げたり下げたり。
「珍しいわね、その子は滅多に他人に懐かないのに」
「そうなんですか」
「私の猫はみんなそうよ。私の虜なの」
本当の意味で、そうだ。見えない魔法の鎖が猫たちをアンリゼットに縛り付ける。
シーザーはフンフンと思う存分シルヴィンのにおいを嗅ぎ、しっぽを振った。
「猫はお嫌い?」
「いや、好きでも嫌いでも」
「じゃあ好きになっていただくわ。この家には猫が十三匹いますからね」
「じゅうさん!」
「みんな私の猫よ。実家から連れてきたの」
「ははあ……」
アンリゼットは契約書を机の引き出しから取り出し、サインした。シルヴィンのサインは、すでに被雇用者の欄に署名済みである。格式ばった読みやすいカクカクした字は彼の生真面目な一面を示すよう。彼女は我知らず微笑んだ。
「それでは面談は終わり。契約成立とします。今日からよろしくね」
シルヴィンの目が丸くなった、ところをシーザーの太いしっぽが撫で、彼は口をへの字に曲げる。
「いいんですか。俺は最初、あなたを奥方とは知らず失礼な振る舞いを」
「構わないわよ。さあ」
アンリゼットは手を差し出し、シルヴィンはそれを握った。二人はお互いの皮膚の感触があまりに自分のそれと違うことに、束の間、固まった。シーザーが大きなあくびをした。
そのようにして契約は成立した。彼はこの日よりルベッタ伯爵家づきの騎士であり、アンリゼットの護衛騎士になる。
彼はアンリゼットが領地の見回りに行くとき必ず同行した。アンリゼットは領地に行くとき、馬を使う。死ぬ前も夫に禁止されるまではそうしていた。その方が身軽だし、何かあればすぐに逃げられる。
「馬車を使わないなんて、本当に貴婦人らしくない」
と呆れながら後ろをついてきてくれるシルヴィンが、どこか楽しそうに見えるのは己の願望だろうか?
ルベッタ伯爵領の領民たちは、小さな村に親族を中心に居住している。村の周りに麦畑、そのさらに向こうに牧草地があって牛と羊が草を食む。大人たちは額に汗して租税を稼ぐため働き、子供たちはその脚の間をくぐるように遊び回る。
始めのうちは腐っても直系の伯爵であったユージミーの失踪、突如現れたアンリゼットの存在双方に不信感を募らせ、不気味なものを見る目を向けてくる者もいた。だが彼女はそんな態度に怒ることはなく、また週に一度は必ずどこかの村を見回った。東から西へ順番に、まるで太陽が巡るように。
「みんな、元気ですか? 変わりはないですか?」
「困ったことがあったら言ってください。貴族とは民のためにいるのですから」
「急に信用しろと言われても無理よね。でも、せめて困っているときは助けさせて」
「これが私のすべきことなの。民を守るのが貴族の宿命」
寝込んだ老人を見舞い、水車が止まれば職人を手配し、出産で夫人を亡くした農夫のところに手の空いた老婆を子守りに向かわせ、孤児を聖堂に預ける手続きをとり、物乞いに仕事を斡旋する。
アンリゼットは生き生きと働き、徐々に領民にも受け入れられていった。彼女が何かする後ろには、必ず剣を携えたシルヴィンがいた。彼は彼女の働きをつぶさに観察し、時折顔を歪め、そしてほとんどの場合は穏やかに微笑んでいた。眩しいものを見るようなまなざしだった。