5
話し合いを終えるとすでに夕方だった。徐々に赤くなる空を眺めながら、アンリゼットはふと、湖に行ってみようと思った。
巻き戻る前、ユージミーは妻が一人で出歩くのを決して許さなかった。心配からではない。アンリゼットが領民と話し、些細な問題を解決することに怒ったのだ。自分にはできないことだから。
だが今は、ユージミーにそんなことをする権利はない。
猫のユージミーは全然姿を現さないが、アンリゼットは気にしていなかった。
キルケー伯爵家の魔法で猫にされた者は、自分を猫にした者から離れることができないのだ。魔力の見えない糸でつながった、いわば術者と使い魔の関係にあるから。
(きっとものすごく怒って、八つ当たりにねずみでも狩っているのかしら?)
と思えば、アンリゼットの心に飛来するのは憐れみである。
(でも、こうでもしなければおそらく私はまた彼に殺されていた。三年も頑張ったのに、私の言葉は彼に届かなかった。彼の本性を変えることはできなかったんだもの。【石の槍】……痛かった)
アンリゼットはただ茫然と踏みつけにされていたわけではない。ユージミーの心を入れ替えさせるため、色々努力した。あまりに多すぎて、書ききれない。
ものの道理を説き、ソニアの出しゃばりを諫め、社会制度やごく常識とされることを一から説明し、ときには神殿から夫の名付け親の神官に赴いてもらい、話をしてもらったりもした。そのときは大人しくしていたユージミーだが、神官が帰るとアンリゼットを殴った。
ユージミーがアンリゼットに感謝したことは一度もなく、ソニアがアンリゼットに申し訳ないという態度をとったことも一度もなかった。彼らには人の道に外れた行為をしているという自覚もなかった。むしろアンリゼットさえいなくなれば正式に結婚できるのだと思い込んでいたふしもある。
平民であるソニアが産む子は魔法の力を受け継がない。
あのお馬鹿二人はそんなことにも気づかず――目を逸らして生きることができた。
アンリゼットが死んだたユージミーには次の貴族の妻が宛がわれたはずだ。
魔法が途絶えることは許されない。周りが、社会が、王家が、許さない。貴族に生まれた以上、人間として生きることは許されないのだ。
義務など忘れて生きているようなユージミーが、羨ましくなかったと言えば嘘になる……。
アンリゼットはショールを羽織ると、ふらりと外に出た。止める者は誰もいなかった。
(少しだけ、少し、風を浴びるだけ……)
湖に行きたかった。屋敷の裏に広がる、美しい湖面に触れたかったのだ。夏は碧色に輝き、冬は氷が張って一面の銀色になる、あの水を感じてみたかった。
湖にはすぐに着いて、彼女はただ水を眺める。きらきらと、夕日を反射して茜色に光るそれは綺麗だった。それ以上、何もいうことはない。それがすべてだった。
少し口を開けて深呼吸すると自由の味がした。足元に数匹の猫がまとわりつく。茶白とブチと灰色。
アンリゼットは下草の上に座り込んだ。からからと小石が水面に落ちた。湖に少しばかりせり出した坂は、崖というにははるかに低いが十分遠くまで見通せる。前方になだらかなミラン山があり、夕日がそこに向かって沈んでいった。赤くくっきりとした山の稜線を、アンリゼットは目に焼き付けた。
「だめだ、戻ってこい」
と知らない声がしたのはそのときである。彼女は振り返った。
「だめだ。さあ、こっちに」
と彼は手を差し出す。夕日はその褐色の肌を照らし、黒い目は真剣さを帯びて険しい。
大きな男だった。ユージミーも大きかったが彼はそれ以上だ。がっしりした肩幅に太い首、旅装なのだろう汚れたチュニック姿だが、どこか気品があった。それは男らしい輪郭を描く顎と額を持つ美貌のせいもあるかもしれない。
彫刻のように整った彼の顔に、アンリゼットはぎょっとした。夕日の赤がゆっくりと彼の頬を照らすのをやめると、あたりは薄暗さに包まれる。彼は夕闇に乙女を惑わすという異教の神のようだった。
「さあ」
と再び、タコのついた大きな手が彼女を手招いた。
立ち上がることもできないでいるうちに、じれたのか彼が腕を伸ばしてくる。ただよう干し草と森の香り、男らしい汗のにおい。
静寂を破ったのは茶白の猫だった。
「フー!!」
アンリゼットの前に躍り出ると、めいっぱい身体を弓なりにして彼を威嚇する。
「ベンジャミン、おやめ!」
「お……っと。はは、心強い護衛だな」
彼は苦笑した。そうすると、彫刻に命が吹き込まれ人間になった、ように見えた。
ようやく身体を動かせるようになったアンリゼットは立ち上がり、ベンジャミンを抱き上げた。筋肉質だが穏やかな気性のはずの雄猫は、今はぷりぷり怒って牙を剥いている。踝にブチのアメリアが寄り添い、暖かい。
「あなたは……誰?」
彼は両手をあげてひらひらさせた。敵意はない、と示すように。
「シルヴィン。――あんたが飛び込むのかと思ったんだ。思い詰めて見えたから」
「そんなことしないわ」
「そうなのか?」
アンリゼットは頷いた。ぽつぽつと街に灯りが灯り始めているのが、ルベッタ伯爵家の屋敷ごしに見えた。腕の中のベンジャミンはまだ唸っている。落ち着かせるために肩に抱き上げてぽんぽん撫でると、逆にこっちが落ち着いた。
「ええ。私はそんなことしない」
アンリゼットは負けない。勝つだけだ。
「そりゃ、失礼した。……なあ、失礼ついでに一つ聞いてもいいか?」
「何?」
「ルベッタ伯爵家って、あれだよな?」
彼が指差す、夕闇に色濃く沈んでいく屋敷。アンリゼットは目をまたたく。
「そうよ。あそこがルベッタ家」
「だよな? 俺はあそこに雇われることになってるんだが、何度も呼び鈴鳴らしてるのに誰も出てこないんだよ。なんだと思う?」
ああ、とアンリゼットは小さく笑った。足元では大きな灰色のセレスティーヌがニャアニャア抗議していた。ベンジャミンが抱っこされているのが羨ましいのだ。
「みんな忙しいんだと思うわ。色々あったから。――紹介状はある?」
シルヴィンは懐から封筒を取り出して、すぐにしまった。見ず知らずの女にそんな大事なものを手渡せるわけもないのはアンリゼットにもわかる。ベンジャミンとセレスティーヌを両手に抱いて、彼女は頷いた。
封筒には貴族の封蝋があった。フェンリス侯爵家。ルベッタ伯爵家の隣に領地を持つ貴族。あの水路開拓工事の、共同事業者になる予定だった家だ。
「フェンリス侯爵のご推薦なのね?」
「わかるのか」
「お隣さんだもの。知ってるわよ」
できたかもしれない事業のことを考えると、アンリゼットの胸はちくりと痛んだ。あの水路ができれば、ルベッタ伯爵領はより効果的な灌漑によって収穫量を増やせるはずだった。
「あんた、貴族なのか? だったら――あ、失礼しました、レディ」
「気にしないで。裏口に案内してあげる。すぐよ」
彼女はそうした。彼は大人しく後ろをついてきて、圧迫感があっていいはずなのにそう感じないのが不思議だった。
屋敷の裏庭を囲う塀は金属製だがアンリゼットの腹くらいの高さしかない。身を乗り出して錠を開け、彼を招き入れる。と、裏口が勝手に開いた。
「あ、奥様!――奥様がお帰りです。ご無事です」
メアリーはほっとした顔で中に向かって声を張り上げる。アンリゼットは猫たちとともに小走りに灯りに駆け寄った。
「私を探していたの? ごめんなさいね」
「いいえ、気づいていたのはほんの数人だけです、奥様。他は旦那様たちの捜索に出ています。テラスさんがまだ諦めきれないみたいで、あら? そちらは?」
「新しく働きに来てくれたシルヴィンさんよ。フェンリス侯爵家の紹介状をお持ちです。テラスはいるの?」
「捜索に加わっています」
「それじゃ、侍女長のレティシアを呼んで。彼に部屋をあてがってもらわなきゃ」
振り返ると、所在なさげに爪先で地面をかいていたシルヴィンが顔を上げる。彼は不可解な表情をしていた。
埃まみれの自分を恥じているようにも、何もかもが思っていたのと違って途方に暮れているようにも、アンリゼットには見えた。……彼女と同じに。何一つわからなくてもやらなければならないことがあるように。
「さあ、入って。シルヴィン。ルベッタ伯爵夫人アンリゼットが許可します」
アンリゼットは裏口の木戸を大きく開き、見知らぬ男を迎え入れる。