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「もはやこうとしか考えられません。旦那様は、駆け落ちしたのでしょう……」


 執事のテラス・ルファスはがっくりと肩を落とした。隣では古参の侍女長のレティシアも沈痛の面持ちである。刺繍の施された古い安楽椅子に腰かけたアンリゼットは、頷いた。


「そう。ご苦労でした。調べてくれてありがとう」


 細い眉をひそめ、彼女は苦渋の表情を浮かべてみせる。ハンカチで口元を覆いながら言う。


「使用人は解雇しませんし、責任を問うこともありません。こたびのことは旦那様の一存なのでしょう。大丈夫……わかっていますから」


「お、奥様……」


「ええ、わかっていますとも。旦那様に長年の恋人がいたということは。嫁いでくる前から、知っていましたよ」


 なぜユージミーとソニアが姿を消したのか、なんて。そんなことはアンリゼット当人が一番よくわかっているくせに、しらじらしいにもほどがある。

 部屋にいるのはアンリゼットと猫たち、それから執事のテラスにメイドのメアリー。メアリーはルベッタ伯爵家に住み着いたソニアの侍女だったはずだが、急遽配置換えされたらしい。

 一夜明けて、すでに昼だった。

 今朝、メイドのメアリーに起こされたアンリゼットは、このように言った。


「旦那様は……いいえ、私は何も知りません。どうか聞かないで」


 そして、顔を覆って肩を震わせた。涙なんて一滴も出ていないけれど、同情したメアリーは背中を撫でてくれた。いい娘である。

 ルベッタ伯爵家の先代、つまりユージミーの両親は、すでに亡い。一番責任者にふさわしいのはアンリゼットだったが、彼女はいけしゃあしゃあと『初夜をすっぽかされた上、花婿が行方不明になった悲劇の花嫁』の演技中のため頼りにならない。

 必然的に、一番に出勤してきた執事のテラスが指揮を執ることになった。ほうぼうに侍従を走らせ、いくつかの手紙を出し、メイドたちにアンリゼットの世話を焼かせた。

 そして昼になってとぼとぼと、自室で悄然としてみせるアンリゼットの前へやってきて、上記の会話となったわけである。


「ともあれ、家の名誉が汚れるようなマネはできません。私はこのままルベッタ伯爵家の貴婦人として家政の面倒をみようと思います。領地のことも、できる限りのことはいたします」


「奥様……!」


 忠義者のテラスの表情が目に見えて明るくなった。


「そして三年経っても旦那様がお姿を現さなければ……白い結婚を主張し、実家に戻ります」


 メアリーが息を呑む音が響いた。三年間の間、夫と妻が一つの寝台で休むことがなかった場合、その夫婦は結婚を成立させることができなかったとみなされる。

 白い結婚が認められた場合、夫婦はすみやかに離婚が成立するが、妻にとってそれがどれほどの屈辱であるかは明白だ。彼女は夫にさえ求められなかったのだ、と公言するも同じなのだから。


「し、しかし奥様、それではあなた様のご名誉が傷つきます。それに、奥様のご実家のキルケー家は、すでにお屋敷も領地も売却されておいでではありませんか」


 人の好い丸顔に冷や汗を滲ませ、執事テラスは半歩、前に出た。彼にしては焦った仕草だった。


「私の名誉なんて、ルベッタ伯爵家に比べたら微々たるものでしょう。そして先ほどあなたが言った通り、私にはもう戻る場所さえありません。つまり私の名誉が損なわれることで傷つく人はいないのです」


 たんたんと返すアンリゼットは、少しも間違ったことを言っていない。

 アンリゼットの実家、キルケー伯爵家を流行り病が襲ったのは、アンリゼットが六歳のときだった。病はキルケー伯爵の血縁者を次々襲い、打ちのめした。一人、乳母とともに離れに隔離されていたアンリゼットを除いて。

 あの病の本当に恐ろしいのは、症状がなくなったと思われたあともたびたびぶり返すことだった。高熱、嘔吐、歩けなくなるほどの手足の痛み。後遺症は長く続き、頑健な大人でさえ蝕まれた。

 同じ後遺症に悩まされた領民の被害も大きかった。再建は、できそうにないほどに。

 アンリゼットが十七歳のとき父が亡くなると、キルケー伯爵領は王家の管理下に置かれた。

 たった一人残されたアンリゼットが男の子であれば、また違ったのかもしれない。だが彼女は女の子で、父が死に際に最後の力を振り絞ってまとめたルベッタ伯爵家との縁談が間近に迫っていた。


「領地の面倒を見て、あなたたちを含め領民たちがきちんとやっていけるよう、制度を整えましょう。見たところ街道や、井戸も整備が必要そうでしたもの。三年後、私がいなくなっても過不足なく運営できるくらいにはすると、お約束します」


 元々、血縁者がいなくなった貴族家は取り潰しの上、王家の管理下に置かれると法律に定められている。怪しい親戚筋が当主の座に野心を示すことがあっても、魔法の力がなければ継承は認められないし、たいていそのような分家の者の力は小さすぎて不適当とされる。

 当然のことだが、アンリゼットがユージミーの子を産むことはない。直系の血縁者を亡くしたルベッタ伯爵家は、三年後、名前をなくし実体をなくし、ただ記録上の存在になるだろう。キルケー伯爵家がそうなったように。

 テラスは耐えがたいと言うように首を横に振った。


「ルベッタ伯爵家には他のご親戚も、分家もございません。奥様、あなた様はルベッタの名を滅ぼすとおっしゃるのですね」


「家の名を継ぐには遠すぎる者を養子にとってまで、存続することに意味はないわ。だって魔法が継承されなければ、意味なんてないもの――大丈夫、我がキルケー家がそうだったように、王家の代官様がやってくるようになっても生活に大きな変化はありません。むしろよくなるくらいかもよ? 国王陛下の直轄地になるのですから」


 アンリゼットは宥める口調である。生涯をルベッタ伯爵家のために尽くしたのだろう執事には悪いが、彼女とて人生がかかっているのだから退くことはできなかった。


「奥様、それでは奥様はどうするというんですか。その、三年後、旦那様が……戻らなかったら」


 たまらず、と口を挟んだのはメアリーだった。アンリゼットは赤毛のメイドに頷いた。


「修道院に入るか、父の友人だった方々を頼って家庭教師にでもなりますよ。心配しないで」


「そんなあ……」


 と少女は涙ぐむ。アンリゼットは立ち上がり、テーブルクロスの下で大人しくしていた白猫のエミリオを抱き上げ、メアリーに抱かせた。少女は白い毛並みに顔を埋めた。テラスのもの言いたげな視線は無視した。

 魔法の力が不用意に拡散することを防ぐため、王家は貴族の血筋の管理に神経質に気を遣っている。まるで家畜の健康に気を遣う羊飼いや牛飼いのように。そしてその意識はどんなに小さな貴族家にも浸透していた。

 貴族の男女の恋愛沙汰は黙認されているが、夫ではない男の子を産んだ女は激しい非難と嘲笑に晒される。

 正式な夫婦から生まれた子供であっても、母親似で、父親の一族の魔法を使えないと判明すれば母親の実家に養子に出すことさえある。

 一つの貴族家に、一つの魔法。まるで呪いのように、この国はその原則を守ろうとしていた。

 アンリゼットは、もうそんな貴族社会に飽き飽きした。三年後、自由になったら彼女は猫たちを連れて外国を回ってみるつもりだった。見果てぬ夢だと諦めていたことを、この人生でこそ実現するのだ。

(そのためにも、まずは領地をきちんと運営して。そう、ユージミーに邪魔されて実現しなかったこと、全部やってみせるんだから)

 彼女の感情に感化されたのか、猫たちがいっせいに鳴き始めた。ニャアニャア。ミャウ。

――ニャアー……ウ。

 

 

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