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「ねこねこねーこ。はあー。走り回ってても可愛いですわねえ」


 さっきまでの身を搔き毟るほどの怒りも、絶望も、どこへやら。アンリゼットは上機嫌に足をぶらぶらする。枕元のサイドテーブルからクリスタルの水差しを取って、くぴくぴ飲んでいる。中身は酒である。

 ユージミーは巨大なオレンジ色の猫になった。子供の虎のような巨体でだかだかと天蓋の上まで駆けまわるものだから埃がすごい。


「ガルルル……シャアアーッ!」


「そんなに上に下にと。爪が折れますわよう」


 ソニアは小さな三毛猫である。まだ何が起きたかも理解できないらしい、寝台の脚のにおいを嗅ぎ、アンリゼットのスカートを嗅ぎ、すべり落ちた毛布をふこふこ触ってニャム、ウミュ? と目を丸くしている。


「身体の感覚も、何もかも違うでしょう。ああ、安心してね。すぐに人間だったときのことは忘れるわ。猫らしく、自由気ままに生きられるわよ」


「ニャーン」


 アンリゼットがにっこり笑いかけると、ソニアも猫の顔でにっこりした。すでに彼女が憎い憎い恋敵であることさえ思い出せないらしい。人馴れした猫そのものだ。それでいい。人並外れて頭がよくて、人間だったときのことを延々思い返してしまうなんて拷問だろう。


「なんていい子なんでしょうね。そう、それでいいのよ。早く全部忘れて、猫におなり」


「ニャー?」


 アンリゼットはクリスタルグラスを傾ける。

 魔法の打ち合いというのは、この時代では戦争でもない限りめったにあることではないが、基本的に早く打った方が勝つ。あと、気迫。必要に差し迫られ、研ぎ澄まされた神経と追い詰められた状況にある者の方が、より強く効率的に魔法を使うことができるという。

 その理屈でいうならアンリゼットはまさにそういう闘争状態にあったし、ユージミーの方は裸で愛人とたわむれているところ、まさに無防備だった。

 ユージミーはマントルピースの上に昇って、熱かったらしく叫んだ。


「ギャアアアア!? フウウウーッ!」


「うふふふ、残念でしたわねえ。あなたにもう少し根性と咄嗟の判断力があれば、石の槍に貫かれて死んでいたのは私でしたのに」


 アンリゼットはくすくす笑った。愉快で愉快でたまらない。

 どうして時が巻き戻ったのか、その魔法を使った者は誰で、どうしてアンリゼットを助けてくれた(と、思ってもいいのよね、たぶん?)のか、何もかもわからないけれど。

 それでも今宵ばかりは、彼女は勝者なのだ。


「シーザー? そこにいるの?」


 と呼ばわると、扉の影からするりと、大きな黒猫がやってくる。ソニアは怯えてアンリゼットのスカートの裏に隠れた。


「うるさくてかなわないわ。静かにさせて。それから他の猫たちに引き合わせてあげてね」


 シーザーはぐるぐる喉を鳴らすと、今度は棚の上にいるユージミーを捕まえるため、身軽に家具の上を駆け上がった。

 酒を飲み終わった。アンリゼットは立ち上がって、うんと伸びをした。とろんと瞼が下がり、眠気がやってくる。今日は色々ありすぎた……せっかく水路建設について提携が取れそうだった契約を、怖気づいたユージミーが破綻させて、ああ違う。それは『今』のことではない。

 細い溜息が胸の奥から洩れる。三年間の記憶が、確かに消えないままの記憶が、頭の仲を駆け巡る。ユージミーはアンリゼットに領地の経営を任せ、なのになんの手助けもしなかった。彼女は彼の嫌がらせと八つ当たりと癇癪の受け皿だった。

 もうあんな思いをしなくていい。ユージミーは猫になった。ソニアも猫になった。

 魔法を打ち破る【魔法封じ】【呪い破り】の二大術が、この世から消え去って久しい。

 アンリゼットが何をしたのか知る者はいない。彼女が他人に魔法をかけた罪で裁かれることは、おそらく、ない。


「ふーっ……」


 シーザーがユージミーを静かにさせた。具体的には、自分よりいくらか大きいオレンジの雄猫の首に噛みつき、全身でのしかかって屈服させたのだ。黒猫のくぐもった吠え声が部屋に響き渡り、ソニアは陶然としたようにしっぽと耳をピンと立てて雄たちの戦いを見守っている。


「ふふふ。『あたしのために戦ってくれてる』とでも思ってるの? 相変わらず馬鹿な子ねえ。まあ猫だから可愛いけど」


「にゃむにゃむにゃむ……」


 アンリゼットは二匹の雄猫を引き離し、負けたユージミーは屋敷のどこかへ走り去った。

 彼女はソニアを抱いて廊下を進んだ。後ろをシーザーが音もなくついてくる。並走する他の猫たちもいる。

 光といえば窓から差し込む月明りだけ、暗い古い家は幽霊が出そうに不気味だ。だが彼女にとっては、すでに見知った住居である。

 今夜ばかりはこのルベッタ伯爵家には使用人がいない。明日の早朝に執事がやってきて鍵を開けるまでは、正真正銘、この家にはユージミーとアンリゼットだけがいるはずだった。

 初夜の邪魔をする者は呪われるという古い言い伝えによって、ルベッタ伯爵家の主人夫婦は初夜を二人っきりで過ごすしきたりだ。

 といっても、三年前だってアンリゼットは初夜をすっぽかされた。つまりユージミーの寝室にはソニアがいたのだろう。彼は自分の家のしきたりさえまともに守るつもりもなかったのだ。

 見慣れた自室につくと、猫たちが彼らを出迎えた。らんらんと光る青や緑の目にアンリゼットは微笑んだ。


「新しい仲間が来たわよ。明るくなったら紹介するわね」


 すでに彼女の腕の中でソニアはすうすう寝息を立てている。

 アンリゼットは猫の身体をした夫の愛人をそっと敷布の上に戻す。くんにゃりと布地に沈む獣の身体の柔らかさが愛しい。


「安心して。あなたたちの罪は私が清めた。だから、あなたたちの命と人生……猫生にはきちんと責任持つわ。心おきなく、哀れで無様で何よりも愛らしい、ちっぽけなけだものとして生きなさい」


 明かりを消し、寝台の上に横たわる。顔の両脇に、シーザーとソニア。足の間にはアメリアとベンジャミン。レオンが外にいるみたいだ。ルーカスはおおらかだけど怖がりだから、大丈夫かしら?

 とりあえず、今は眠ろう。明日のことは明日、考えればいい。

 経験したことがないほどの眠気と疲労にアンリゼットは目を閉じた。

 明日、やってきた使用人たちは驚愕することだろう。

 

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