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この世界には魔法が存在する。
魔法を使えるのは純血の貴族だけ。
使える魔法はひとつの血統につき一種類だけ。
例えば代々宰相を輩出する伯爵家は過去の出来事を水面に映すことができ、たとえその過去を経験した者が死んでいてもその魂に焼き付いた記憶を垣間見ることができる。他にも作物の成長を早める力だったり、動物を手なずける力、風を起こす力、火を呼び出す力。千差万別。
魔法を使えることは、貴族が貴族であることの唯一の証明だった。一つの血統に、一つの魔法。それを大事に守り伝えていくことは、社会の根幹でもあった。
もちろんアンリゼットも魔法が使える。大切な両親が残してくれた力。だが残念ながら彼女の力は、石の槍を防げるたぐいの魔法ではなかった。
(悔しい、悔しい……)
猫たちが横たわるアンリゼットの身体をふみふみ揉んで、ニャアニャア鳴いている。ごめんね、早く起き上がって撫でてあげたいのに。実家から連れてきた、両親の形見といってもいい可愛い猫たち。
(悔しい、本当に悔しい。どうしてバカ正直に離婚しようだなんて言い出してしまったの、私)
アンリゼットは深く悔やむ。自分の判断ミスを、愚かさを。
(あの人が馬鹿だって知ってたのに……)
ユージミーは直情型だ。偏食、癇癪持ち、頭の回転が鈍く、放っておけば友人を名乗る元学友や流れの商人に騙される。何故騙されたかは分からないが騙されたことはわかるので、アンリゼットに八つ当たりする。ソニアへの異常ともいえる偏愛ぶりは、うまくいかない何もかもへの意趣返しだった。
――かつてアンリゼットは、彼を支えることが自分の義務だと思っていた。
でも。こうまでされて、許せるものではない。
(夫に殺されるだなんて……)
憎い、とか悲しい、とかではなくて。ただただ情けない。悔しい。自分自身が許せない。
亡くなる前、父はアンリゼットの頬を撫でて幸せにおなりと囁いた。やつれた母は父の後を追うように亡くなったが、そのときも一人娘の行く先を心配していた。大丈夫、きっと幸せになれるから。
ルベッタ伯爵家で幸せにおなり、アンリゼット。
だが結果はこうだった。
猫たちの嘆きの声に、ふと、知らない声が混ざった。小川が流れるような慟哭だった。低く抑えた声に混じる本物の悲嘆に、アンリゼットはかすかな疑問を覚える。私が死ぬのを悲しんでくれる人なんて、この家にいたのかしら?
それが最後の意識の欠片だった。知らない誰かの泣き声を聞きながら、彼女のすべては白い光に溶けた。
――ヒュウッ。
そして、息が。喉を通った。
アンリゼットは目を開けた。何が起きたのかもわからない。
「……えっ?」
彼女はぽかんと目を見開き、きょろきょろする。見慣れた自室だ。ルベッタ伯爵家の一室。とくにどうということはない、客間を改造した一室だ。アンリゼットがこの家に来た時にはすでにユージミーの横にソニアがいて、正妻の間はソニアのものになっていたから。
「え? え?」
アンリゼットは立ち上がる。足がある。手がある。
慌てて、姿見の前に駆け寄った。そこに映ったのはいささか若い、自分だった。灰色の目、黒いまっすぐな髪の毛を下して花嫁の花冠がその頭に……。
「……えええっ?」
彼女は両手で花冠を掴んだ。触れることができた。萎れてしわくちゃになった、けれど確かに覚えている、結婚式の日に頭に乗せた花冠だ。マリーゴールドの。
何度触れても花冠は消えることはない。彼女は焦り、ぐるぐるとその場で円を描いて回った。――にゃおん? と声がして、ふくらはぎにふわふわが触れる。
反射的にしゃがんで、その猫の身体を抱え込んだ。心臓がばくばくと跳ね回る。
「え? シーザー?」
「にゃぁーん」
黒い猫は満月のような金色の瞳をぱちぱちまばたきした。落ち着いて、というようにピンクの肉球の前脚が、アンリゼットの腕に優しく振れた。
「だって……あなた、死んでしまったじゃないの。去年の暮れに、寿命がきて……」
そう。シーザーは、この大きく筋肉質な雄の黒猫は、死んだ。アンリゼットの一番の友達。彼女が生まれたときから実家にいたから、もうずいぶんと長生きをした猫。
シーザーの声に反応して、部屋のあちこちに隠れていた猫たちが溢れるように集った。猫、猫、猫。合計十三匹いるはずだ。
茶トラの食いしん坊のオスカーがスカートの裾にじゃれつく。人見知りですぐに爪を出すイザベルはころんと絨毯に寝転ぶ。まだ子猫の面影がある白いエミリオがせわしなく鳴き、キジトラの頑固者カトリンは事態を一瞥するとすぐどこかへ消えた。そのほかにも、物陰から、棚の上から、ソファの背もたれに座って、アンリゼットを見つめる猫たちの目。
すべてアンリゼットが実家から連れてきた飼い猫たちである。
彼女は彼らをぐるりと見まわした。そして自分の着ているナイトドレスが特別仕様の、花嫁が初夜に花婿を待つための豪奢なレースのドレスだということに気づいた。
初夜の、すっぽかされた初夜の!
「……時が巻き戻った? そんなこと、そんなことができる魔法なんて聞いたこともない」
いや、ひょっとしたら存在はしているのかも。
貴族家は自分の家がどんな魔法を使えるのかを巧みに隠す。敵になるかもしれない相手に情報を渡すのは危険だった。あの家は火を使うと知れたら、水の魔法使いを連れてこられてしまうかもしれないわけだから。
時を戻すなんて強力な魔法、もし使える者がいるなら国だってとれるかもしれない。
でも今は、そんなことはどうでもいい。
アンリゼットの心を占めているのは、怒りだった。
「うふふ、ふ……」
と彼女は乾いた笑いをもらす。猫たちがしっぽを膨らませ、弓なりになる子もいる。ニャンニャン鳴く声が途絶えた。
ゆらり、アンリゼットは立ち上がった。
「今は、どうだっていいわ。なんでこうなったのか、なんて。原因究明はあとあと」
彼女は足を踏み出す。廊下に颯爽と躍り出て、ずんずんと、歩いていく。
案内なんてなくてもいい。三年前は――本当に初夜をすっぽかされたそのときは、ただ茫然として、何もできなかった。だが今は違う。
アンリゼットはあのときのか弱い伯爵令嬢ではない。ユージミーの新妻にさえなれなかった女ではない。
ばん! と音も高らかに、彼女はユージミーの寝室の扉を開いた。既視感。ああ、殺される前も、こうしたっけ。
「う、うわ!? なんだこいつ! 信じられない、私を追ってきたぞ!」
「いやあーん、ソニアこあーい。助けて、ジミー!」
はたしてそこには、あの夜の再現のような二人がいた。
夫になったばかりのユージミー。その愛人、ソニア。どちらも裸で、寝台の上、今まさに睦合うところでしたと言わんばかりのやる気まんまんの顔で。
「忌々しい、礼儀知らずにもほどがあるな。私はお前を愛することはないと、先ほどハッキリ言ったはずだぞ。わからないなら何度でも言ってやろうか、あァ!?」
「やっちゃえやっちゃえ旦那様ー! その女に思い知らせて!」
アンリゼットは両手を挙げた。
「――私の魔法は、」
魔法には、発動条件がある。
その力を持つ血統の貴族が、代々伝えられてきた呪文を二つ、口にするだけ。
確か、ユージミーの呪文は【許されざる者を】と【貫け、石の槍】、だったっけ。それでアンリゼットは殺された……思い出すだけで吐き気がする。
――こんな最低な男にむざむざ殺されてやっただなんて!
「なかなか、恥ずかしい呪文なのです。だからあんまり使いたくないの」
「な、なんだとぉ!? 魔法を使うなんて法律違反だぞっ。そっちがそのつもりなら、――【許されざる者を】、」
「【ねこねこにゃんにゃんごろにゃんにゃん】!」
アンリゼットは声を張り上げた。
「【ねこになーあれ】!」
――ポンッ。
と、間抜けな音がふたつ、した。
寝台の上と、下。可愛い猫が二匹、キョトンと髭を震わせる。
アンリゼットはぐっと拳を握りそれを上へ突き上げる。
「いよ……っしゃあああああああああああああ!!」
心からの、安堵の絶叫だった。




