16
レティシアの遺体は生まれた村の墓地に埋葬された。亡き奥様の忠実な侍女で、おそらくルベッタ伯爵家の事情すべてを知っていたはずの彼女。身よりはすでに亡く、アンリゼットが葬儀を執り行った。出席者は数多く、老侍女が人々から慕われていたのはせめてもの救いだった。
ミルドレッドは拘束したテラスの身柄を引き受けてくれた。そのまま都に上り、改めて供述を取り審問にかけるという。朝一番で元気いっぱいに出発した彼女の、破天荒な仕草で手を振った後ろ姿にアンリゼットは深く頭を下げた。
テラスが狂っていたのか、あるいは行き過ぎた過去への賛美が招いた魔法の暴走だったのか、アンリゼットにはわからない。魔法の力を自我のため用いたことによるおぞましい最後について、じっと考え込んでいる。それはそのまま、彼女自身の罪でもある。
アンリゼットは湖のほとりに座り込み、ぼんやりと水面を眺めている。ルベッタ伯爵家からはかすかな喧噪と、時折それを凌駕して笑い声がする。テラスの魔力が離れたため、使用人たちは再び息ができるようになった、という。
もう少ししたら都から審問の推移が報告されるはずだ。もしかしたらアンリゼットも証人として都へ向かう必要もあるかもしれない。
それでも今は、休息のときだった。
苦手な水にそれでも果敢に挑んで、その下の魚を狙う猫たちがいる。ルーカスにソフィアにオスカーにイザベル。苛烈な犯罪を犯したグループは、猫になっても性質を変えていない。
エミリオやカトリーナ、レオンなど比較的大人しい猫たちはアンリゼットの近くで寝そべっている。ナターシャとベンジャミンが喧嘩するのを彼女は横目で見る。
と、視界の端に革靴の先が見えた。アンリゼットは頭を動かさず、ごろごろ喉を鳴らすアメリアを膝に乗せた。右側の腰にセレスティーヌがぴったり張り付き、アレクサンダーは空をいく鳥を見つめている。アンリゼットの横に腰を下ろしたシルヴィンを、シーザーが満月のような瞳で見つめていた。
「今回のこと、ありがとう」
まずはそれを言わなければならなかった。アンリゼットはわずかに身体をずらしてシルヴィンを見上げた。護衛騎士はくすっと笑って手を振る。
「なんてことありませんよ。仕事ですからね」
「どうして……いいえ、私はひとつも秘密を明かさないのに、あなたのことばかり聞くのは失礼ね」
知りたいことはたくさんあった。シルヴィンの行動はあまりにも、……できすぎていたから。
彼はまるでこれから起こることを知っているかのように動いて、アンリゼットを助けてくれた。侍従たちに叩きのめされて地面に突っ伏していたのさえ、計算ずくだったのだと思う。むしろそうしてわざと負けなければ、シルヴィンは誰かを殺していただろう。彼の実力は並み以上だ。さすがのアンリゼットにもそのくらいはわかる。
シルヴィンはうんっと伸びをした。ひばりがピーヒョロロと陽気に鳴いて、猫たちが一斉に声のした方を向く。風は冷たく爽やかであり、日差しは暖かく、心は凪いでいた。
「俺の魔力は【時戻し】なんです」
なんてことない秘密を打ち明ける声でシルヴィンは言った。
アンリゼットが撫でる手を止めたので、不満に思ったアメリアはぐねぐね動いて催促する。
「それは……存在さえ疑問視された力の名前よ」
「知ってます。でも、実際そうなんですよね。困ったことに」
シルヴィンは愛おしそうな目でアンリゼットを見つめる。ああ――この目だ。彼女は背筋がぞくりとするのを感じた。こんな目でひとを見るなんて! こんな、彼女の全部を見透かすような目で。
「自分で言っても頭がおかしく聞こえるのはわかってるんですが。俺とあなたは何度も愛し合ったんですよ。ユージミーが生きてるときも死んでるときも、あるときは二人で協力して彼を殺してしまったこともあったし、またあるときはあなたがルベッタ伯爵家に嫁がないよう知恵を絞って俺と結婚してもらったこともある」
「それは……」
「信じられないでしょう、いいんです」
少し早口だった。
「俺が覚えてますから。それで、いいんです」
「今まで何回、私たちは出会っているの?」
「さあ?」
黒い目は闇より深くきらめく。シルヴィンは満足した猫のように喉を鳴らす。手を伸ばせば届く距離にアンリゼットがいる、それだけで十分だというように。
「何回かな。覚えていません。ああ、それでも。救えないものばかりだ。いつだってあっちが生き残ればこっちが生き残らない。俺が――俺がいるからかな、と考えたこともありました。俺があなたに会いに来るから、だからあなたが不幸になっちまうのかなって」
「それはないわ!」
アンリゼットは叫んだ。猫が蜘蛛の子散らすようにわっと飛び上がった。
「だって私、あなたを愛してるもの」
力んで前のめりになったまま、彼女は言い募る。もはや自分がどんなに恥ずかしいことを言っているかなんて、思考の外だった。
「私はあなたに助けてもらえて嬉しかった。本当に嬉しかったのよ。ユージミー様にだって、誰にだってこんな気持ちになったことはなかったわ。私は――あなたに会えたから、今、とても幸せなの……」
声は小さくなって消える。そうだ、幸せ。舌の上でその味を転がす。
「幸せなんだわ。不思議。こんなにも――」
シルヴィンはアンリゼットを抱きしめた。よく日に当てられたシャツの匂い、彼自身の匂いの向こうに小さく香る土臭さ、がっしりした体格に包まれる安心感。アンリゼットは彼の背中に手を回す。離したくない、と思った。もう二度と。
猫たちがミャアミャア鳴いて二人を取り囲んだ。小さなソニアがびっくり顔のまま、シーザーの足の間に潜り込もうとする。
「アンリゼット様――アンリゼット! ああ……」
「私、何度あなたを忘れてしまったのかしら? 何度、あなたに助けてもらって薄情にもそれをなかったことにしたの?」
「違う、俺のせいだ。俺の力の効果は俺のせいであって、きみのせいなんかじゃない。絶対に」
間近に震える黒い睫毛が愛おしかった。アンリゼットは両手でシルヴィンの頬を包み、彼は彼女の身体を引き寄せて膝の上に乗せた。
これほどの戦慄と安堵。欠けていたところがぴったり合うようなこの気持ち。ああ、覚えている。かすかに。魂が。時間の進みと巻き戻りのはざまに忘れてきた心が、呻く。
「【時戻し】は使用者にも大きな負担を強いる魔法で、だから今回、俺はきみのことを思い出すのに時間がかかった。ちくしょう、どうして――ルベッタ伯爵家に仕えるためにやってきて、きみが死んでいるのを見た! あいつの、ユージミーの【石の槍】に貫かれて。俺は奴を殺したし、奴の女も殺した。そして力を使った。少し体力を持っていかれたけれど、【時戻し】は成功した。そうして俺はまた、きみに会いに来たんだ」
「シルヴィン……ありがとう。私のためにそうしたの、シルヴィン? ありがとう」
「お礼なんて言わないでくれ! もし少しでもタイミングがずれていたら、【時戻し】に失敗していたら、きみを永久に失うところだったんだ。俺のこんな力にきみを巻き込んでしまったのが、そもそもの原因なんだ。俺はこのループからどうやって抜け出せばいいのかわからないでいる。何度きみを巻き込めば気がすむのかさえも……」
アンリゼットを抱きしめるシルヴィンの身体は震えていた。彼女は黙ったまま彼の褐色の肌を、黒髪を撫でた。
猫たちの鳴き交わす声や決闘の音がこだまする。静かな湖畔にときおり風で波が立つ。
「あのね、シルヴィン」
アンリゼットは彼の膝の上に膝立ちになった。
猫たちの中でひときわ大きな猫を指さした。
「あの猫、シーザーは私の叔父なの。それまでどんな片鱗も見せなかったのに、ある日突然、七歳の私にのしかかったの。私は泣き叫び、未遂ですんだ。父母が駆けつけ、怒り狂った父が彼を猫にした。どうしてそうなったか誰にもわからなかった。だって彼はそれまで本当に普通の人だったんだもの。でも、ともあれ、事実はひとつだけ。私の大好きな叔父はもういない。猫になって永遠に私の所有物になったから」
シルヴィンは声もなく彼女を見つめ、黒いまなざしに映る青空や自分の顔に彼女はじっと見入る。まるで鏡だった。古い運命を映してひび割れていく鏡。
「ユージミー様とソニアが私を殺した。私はそれを覚えているわ。覚えたまま時間が巻き戻り……私は二人を猫にした。そしてテラスが猫のユージミー様を殺した。それがすべてよ」
小さなソニアがか細く鳴いて、大きなシーザーからそろりそろりと距離を取った。
二人は同時に笑い出した。シルヴィンの太い声とアンリゼットの高い声、一体になって木々に吸い込まれていく。ざわりざわり、下草は揺れる。
「私が私のために彼らを猫にしたことと、あなたがあなたのために【時戻し】を実行したことの間に、差異はないわ。だって生きなければならなかったんだもの」
「そうだよ。俺は――俺はきみのために、きみなしでは生きられないから」
「この世に生まれた以上、生きなくてはならないから……」
アンリゼットは何度シルヴィンのことを忘れてしまうのだろう? これからもそうなるのだろうか、これまでもそうだったように?
「あなたが【時戻し】をしても私が覚えていられるようにできないかしら? ねえ、二人でそういう魔法を使える家系を探そう? そうして、同じ運命を一緒に生きましょう、シルヴィン。もう一人で苦しまないで。あなたの重荷を半分ちょうだい」
「アンリゼット……ああ、絶対こうなっちゃいけないと思いながら、それでもいつかきみがそう言ってくれるのを夢見ていたよ、俺のアンリゼット」
ぎゅうっとお互いに抱きしめあって、二人はただ湖畔に佇んでいる。
鼻や顎や頬や額や、唇にキスをしあうと知っている味がした。パズルのピースだった。魂の半分だった。どうして忘れていられたのだろう? 何度も何度も出会っていたのに。
やがて二人は立ち上がり、手を繋いでルベッタ伯爵家に帰っていった。その足元を、前や後ろを、うやうやしく猫たちが従う。
互いのために生きることを決めたその日、【時戻し】の最後のひとかけらが正しく起動したその日。彼らの運命は決定的に軌道に乗り、そうして神話にならない物語が始まった。
アンリゼットとシルヴィン。二人だけが知る、生き抜いた軌跡が描く物語だ。
【完】