13
「前もこうしてここを歩きました」
とシルヴィンは言った。
湖畔である。ルベッタ伯爵家の裏手に広がる湖を、さらにぐるっと回った森の中。
静かだった。虫の音がした。ふくろうの声も。寒さは感じず、暑くもない。アンリゼットはただシルヴィンの斜め後ろを歩いていた。いつもとは逆に。
そして猫たちも一緒にいた。そうでなかったら、これほど冷静ではいられなかっただろう。
「あなたは貴族なの?」
と、それだけを聞いた。それだけは知っておきたかった。
なぜならもしシルヴィンが貴族なら、アンリゼットのこの思いは禁忌だからだ。
貴族には魔法を伝えていく義務がある。基本的に、魔法は男系によって伝えられる。息子と娘が父親の魔法を受け継ぐのだ。女系の血は、ときに突然変異的に表れることはあっても基本失われる。
キルケー伯爵家の人を猫にする魔法が途絶える代わり、ルベッタ伯爵家の石の槍をつくる魔法が存続するのが望ましい――と、亡き父は、周囲は、社会は、そして王家は判断した。それゆえの、ユージミーとの婚姻だった。
悲しかったし悔しかった。自分の代でキルケーの魔法が途絶えるのが。男の子になりたかった。死んでいく両親も少しは安心してくれるだろう。
それでもアンリゼットは唇を噛んでルベッタ伯爵家に嫁ぎ、ユージミーのしない仕事を肩代わりして、努力した。それが貴婦人の義務だからだ。
貴族身分が平民身分よりよい暮らしをできる理由だからだ。
貴族が人の心を犠牲にして魔法を存続させるからこそ、この国は周辺諸国に侵略されることなくこんにちに至っているのだから。
シルヴィンとアンリゼットは静かに向かい合った。木々はざわめき、猫たちは好き勝手に遊び回る。ニャア、とひそやかに声が鳴き交わされ、まるで猫たちに見物されているよう。
「いいや」
と穏やかにシルヴィンは言った。褐色の肌、黒く鋭い目、短く刈り込んだ黒髪、いずれも森の闇に同化しそうだった。
「俺は貴族ではないよ」
「魔法は使えるの?」
「――ああ」
「どんな魔法?」
それを聞くのは殺されてもおかしくなかった。
だがアンリゼットは知りたかった。彼女のためにここまでしてくれた彼にむくいるためにも、彼の全部を知っておきたかった。あるいはそれが愚かな独占欲なのかもしれなくても。
彼は目を伏せる。何かを言おうとする。猫たちが静かに、身じろぎの音さえ立てなくなる。アンリゼットの足元にはシーザーがすり寄り、草むらの中でソニアをはじめ小柄な猫たちが団子状になっている。
ざわめきは、案外早く耳を揺らした。人々の声だ。ふたりは同時にため息をついた。
「ったく。おちおち話もできやしない」
とシルヴィンは毒づく。アンリゼットはスカートを足のまわりでぎゅっと結んだ。
「行きましょう。今囲まれるのはまずいわ。みんな逆上しているみたい」
「ええ。俺が先導しますからついてきてください。下草に足を取られないよう――」
「いや、そんなこと気にしなくていいよ」
――ばちばちばちっ。
シルヴィンは音もなくくずおれる。アンリゼットは声にならない悲鳴を上げて彼の上に覆いかぶさり、襲撃者の次に供えた。猫たちはとっくの昔に逃げ出して、ただシーザーだけが黒い犬のように二人の前で踏ん張っている。
「シャアアアアアアア!」
弓なりになった大きな猫の前、その人物の姿はひたすら大きく見えた。
「おおっと、アハ。勇敢な猫だね、ルベッタ伯爵夫人」
「……ミルドレッド・フェンリス侯爵令嬢」
アンリゼットは呟いた。冷や汗が、目を見開いてわななくシルヴィンに降りかかる。
彼女は束の間、目を閉じ、やがてゆるゆる全身の力を抜いて敗北を認めた。
ミルドレッド・フェンリス侯爵令嬢。くるくる渦巻く血のような赤毛、夏の森の緑の目。乗馬服をきりりと着こなして、令嬢はどんな男より男らしく仁王立つ。
ひゅんっ、と乗馬鞭がしなって宙を叩いた。
「うんうん、そうしているがいいよ。あなたではあたくしに勝てないのは周知の事実。なぜならあたくしは王の義理の姪。王妃マルグリット・フェンリスは我が叔母であり、そしてここはフェンリス侯爵家の土地のすぐ隣。ここであたくしになにかあれば王家と我が家が黙っていないだろうからね」
「心得ていますよ……」
アンリゼットは苦く笑う。かつてはミルドレッドのこの笑顔にひるんだものだった。彼女たちの立場はいつだってあまりにも隔たっていた。アンリゼットがどれほど淑女然としていても、ミルドレッドの輝きの前にはかなわない。それが悲しかったこともあった。
だが今は。
アンリゼットはちらりとシルヴィンを見て、命に別状がないのを確認する。
「彼の身の安全を守っていただけますか、令嬢?」
ミルドレッドは薬草酒のような緑の目をなごませて、頷いた。
すでにざわめきはあまりに近い。殺気立つ熱気が伝わってくるようだった。手に手にたいまつを持った男たちの群れを率いるのはテラスだろうか? 野太い声で、まるで猟師の薪狩りのように三人を追い詰めようとしている。
「あたくしが最初に到着してほんとによかったこと。彼らに掴まれば命の保証もなかったでしょうよ」
ミルドレッドは群衆の前に躍り出た。ろうろうとした声で、
「罪人はフェンリス侯爵家がもらい受ける。この土地には審問官がいない。貴族の容疑者を、審問官もいない領地で拘束することはできない――」
群衆はざわめき、一体感が瓦解する。どうする、と顔を見かわす面々。テラスがなにごとかを叫ぶが聞こえない。風の音が強すぎて。
にゃう、とシーザーが、まだふくらんで五割増しに大きく見える状態でふたりのそばにやってきた。それを撫でてやりながら、アンリゼットはシルヴィンを上向きにして、喉を伸ばし呼吸を楽にしてやった。
「すみま、せん……くそぉ」
「いいの。喋らないで」
アンリゼットはその唇を指先でそっと抑える。
「もう安全よ」
***
「――で?」
ミルドレッドは尊大に足を組んだ。
「いったいぜんたい、何がどうしてこうなったんだい?」
場所は再び、ルベッタ伯爵家。だが今度は応接間で、すでにとっぷり夜も更けた時刻だったが机の上には酒と肴が並んでいた。上物の軽い赤ワイン、ハムとチーズとクラッカー。だが誰も手を付けない。
アンリゼットとシルヴィンは同じソファの端と端に、ミルドレッドはその反対のソファに。
それぞれがおのおのの心中を秘めて、沈痛な面持ちである。
「改めて、ミルドレッド嬢。危険なところを救っていただき、ありがとうございました」
まず口火を切ったのはアンリゼットだった。
「あなたがいなければ私もシルヴィンも危なかったでしょう。他ならぬ、この土地の民の手によって。いくらお礼を言っても尽きません。けれど、どうしてここに? 何故助けてくださったのです?」
「なあに、あたくしだって親切心からそうしたわけじゃないよ。そこの、」
とミルドレッドはシルヴィンを指さす。
「おバカのためさ」
「お二人は知り合いなのですか?」
「知り合いも何も、その褐色が育ったのはうちだから」
アンリゼットは目を見開いた。
「シルヴィンが、フェンリス侯爵家で育った?」
「そう。ほどほどに育ったら傭兵になるだと言って飛び出してしまって。母親が嘆くよ」
「母さんの話をするなよ」
シルヴィンの声は低い。動けなくさせられたことを根に持っているらしい。その気心をしれた口調にアンリゼットは不安になった。
シルヴィンとミルドレッドの間には、何があったのだろう?
また、今でも壁の向こうで様子を伺っているかもしれない使用人のことも気にかかる。テラスの気が変わって多勢に無勢で取り囲まれたとき、自分はきちんと彼らを抑えることができるだろうか?
「そんな不安な顔しないでください」
シルヴィンの声は、労わるよう。
「何があっても俺が逃がして――いいえ、守ります。俺が、あなたを守りますから」
アンリゼットは透明に見えるほど白く青ざめた顔を上げ、シルヴィンを見つめた。彼の黒い目を見ると、わけもなく胸が温かく涙の温度になる。
「お邪魔かな? あたくしは消えた方がいい?」
ととうとうミルドレッドが言い出すまで、二人の間には沈黙だけがあった。