12
「猫は毒で殺された。血を吐いていましたからね。それから侍女長レティシアさんも、血だまりに倒れていた。同じ毒でしょう。つまり犯人も同じです。殺鼠剤か、あるいはもっと特殊な毒か。そんなものを手に入れられる立場の人間は少ない。――犯人は執事のテラスです」
「待って」
アンリゼットは牢と牢と隔てる石壁に取りついた。分厚い壁を隔ててすぐ、シルヴィンが眉を上げているのが見えるよう。
「それは、違うと思うわ。ええと、つまり。この屋敷には私の夫の母が残した魔法があって、それが悪さをしているのよ。犯人なんていない、犯人は【呪い】よ。ええ、きっとそうだと思う」
「ありえません」
「なぜ断言できるの?」
「なぜってそりゃあ、魔法の気配がしませんから、この家」
「なぜわかるの、シルヴィン?」
「いいえ、あなたが考えているような事情じゃない」
彼の声は苦笑するようだった。分かってもらえないだろうと確信している声音だった。それでもわかってもらいたいのだと示すように彼は言う。
「俺に感知能力系の魔力があるんじゃないかと思ったんでしょう。違いますよ。なんの力も持たなくても魔法に長く接していれば、その空間に魔法の残滓があるくらいのことはわかるようになるもんです」
アンリゼットは沈黙した。この数か月常に身近にいて、信頼していた男が急に別人になったように感じた。
彼は彼女より魔法に詳しいのだろうか?
彼は魔法を使えるのだろうか?――彼は貴族なの? それを黙っていたの?
なぜだろう、アンリゼットの胸はきゅうっと傷む。
彼女の様子に気づきもせず、石壁ごしにシルヴィンの声が淡々と続いた。
「テラスさんの他の使用人たちへの影響力は大きい。まるで彼に忠誠を誓った傭兵団みたいだ。ただ彼の立ち居振る舞いが完璧で、尊敬できる先達だから、という理由だけではないだろうと思っていました。きっと何かあるだろうと。使用人たちそれぞれの弱みを握っているだとか、ね」
「そんな……ことは、ないはずよ。テラスはいい使用人たちだし、ルベッタ伯爵家はさしたる問題もなく運営されてきたわ」
「よくある話ですよ。そうでなけりゃ小僧っ子たちを一人前に仕込んでお貴族様の前に出られるようにするなんて大仕事、成し遂げようがありません。執事の得意技は貴族への従順さと使用人への脅し宥めすかしです」
アンリゼットは何も言えない。ユージミーに殺される前、彼女を支えてくれていたのは使用人たちだった。彼らの気遣い、言ったことをすぐやってくれる有能さは十分以上にアンリゼットを助けてくれた。だから彼女は彼らのためになりたいと思ったし、領地のため自分自身を還元したいとも思った……。
戻ってきてすぐ、領地の見回りを始めたのだってそうだ。平民たちに何かしてやりたいと思っていたから。今までずっと考えていたのに実現できなかったこと。
「何がなんだかわからない」
とアンリゼットは言った。負けを認めるようなものだった。
「私は【呪い】と戦おうと思っていたのに……」
「わかりますよ。あなたはそういう人です」
シルヴィンの声は優しく、まるでアンリゼットの思うことなどお見通しと言わんばかりのいたわりに満ちている。
「だから俺は、あなたのためになりたい」
「どうしてそんなふうに思ってくれるの? 私とあなたはまだ出会って間もないわ」
「いいえ。俺たちは結構前からよく知っているんです。……『今』のあなたに言っても、わからないでしょうが」
本当にわからなくて、アンリゼットは眼を瞬いた。
シルヴィンは突如として別人になってしまったようだった。
「俺もさっき思い出したんです。それからすぐ助けが来ることもね――おおい、こっちだ!」
と言われ、彼が立ち上がる気配を感じる。
ニャア、と重々しい鳴き声がした。牢の片隅に同化した黒いシーザーの、満月のような目がふたつ、らんらんと光っていた。
「シーザー」
アンリゼットは立ち上がる。なんということだろう、猫は口に鍵束を咥えていた。
「お前、いったいどうやってそれを?」
「俺が教えたんです。番人はめったに仕事もないから、机の上に鍵を放り出してるはずだってね。よこしてくれ、そうだ、こっち」
彼と猫は言葉ではない部分でわかりあっていた。シーザーから受け取った鍵でシルヴィンは檻を抜け出し、アンリゼットも同じく解放した。
「さあ、行こう」
彼は彼女に手を差し出す。
アンリゼットは首を横に振る。
「行けないわ。私はルベッタの貴婦人です。冤罪といえど捕らえられてしまったなら、正式な審問官が到着し、裁判を開くのを待たなくては。私は無罪なのだから、きちんと裁かれれば無罪であるとわかるはず――」
「そうやってまた殺されるんですか?」
「何……を」
「そうやってまた、殺されるんですか。旦那に殺されたように。石がまっすぐに伸びてあなたを貫いて殺した。あなたの死体を抱いた俺がどんな気持ちになったか、想像もしなった……んでしょうね。そりゃあ、俺と、あなたは。ただの貴婦人と護衛騎士ですもんね」
彼は苦く笑う。アンリゼットは言葉を発することができない。
彼らの足元で、シーザーが大きな声で鳴く。警告だ。誰かがここへやってくる。
「嫌だと言っても連れていきます。俺はあなたを二度と死なせない」
「あっ」
大きく力強い手が腕を掴み、シルヴィンはまるで勝手知ったる我が家を歩くように牢の表へ歩みを進めた。壁には没収された彼の剣がある。それを手にした途端、シルヴィンの背筋は伸びる。戦士の歩き方になる。
「ここから出たら全部教えます。あなたの知っていることも知らないことも全部。だから俺に身を任せて。言う通りにしてください」
アンリゼットは腕を引かれながら覚悟を決めた――決めざるを得なかった。
理由のひとつには、先導するシーザーのしっぽがぴんと上に向いていたから。ゆうゆうとした足取りに、迷いがなかったから。
もうひとつには、続々と集まってくる猫たちのせい。
彼らのしっぽは全部ぴんと天を指していた。口元はふくふくして、ひげもぴんぴんしている。ニャーン、なあん、ねうねう、みい。人間の子供たちがきゃあきゃあ騒ぐように、猫たちもまた興奮していた。
「おい、鍵が!」
「また馬鹿やったのかお前!」
「誰か昇ってくるぞ、なんでだ?」
「猫の声聞こえないか?」
と、ざわめく下男たちの声がする。ランプの灯りが目に眩しい。
「――殺しちゃだめよ。ルベッタ伯爵家の使用人なのだから」
とだけ、アンリゼットは言った。
「承知」
とシルヴィンは少年のように笑い、彼女の腕を放し、そして剣を鞘ごと振りかざして前に躍り出ていった。