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 メアリーがバスケットから軟膏や布を取り出して、アンリゼットの打ち身を手当してくれる。


「ありがとう」


 というと、ぎこちなく少女は頷いた。


「口をきくなと言われたの?……それとも、あなたも私が犯人だと思ってる?」


 メアリーはぶんぶん首を横に振り、怖々と後ろを振り返った。誰もいない。

 地下そのものは広かったが、その一角にある牢は狭かった。古びた石組に嵌め殺しに鉄の檻が三つ、並んでいる。アンリゼットが入れられたのは一番奥だった。

 どうやら長年使われてこなかった牢はろくに掃除もされておらず、埃っぽい。アンリゼットは小さくくしゃみをした。

 それを勘違いしたメアリーはぱっと顔を上げ、哀れなほどしゅんとする。


「ごめんなさい、奥様。ブランケットを持ってくるんでした」


「大丈夫、埃を吸い込んだだけよ。気にしないで。――あなたが怖がっているのは、亡き奥様が残したという【呪い】のこと?」


 メアリーの目が丸くなった。


「ご存じだったんですか」


「レティシアがね、つい昨日、教えてくれたわ。できるだけのことをすると約束したのに、まさかこんなに早く……すまないことをしたわ」


「いいえ、いいえ。この【呪い】は、素早いんです」


 声を潜めてメアリーは言った。目線はアンリゼットの膝の擦りむいたところに集中している。


「気づいたら殺されちゃうんです。だからみんな、気を付けて生活しています。規則に従ってれば大丈夫、です。でもちょっとでも外れる、と。殺されちゃう」


「メアリー。怖いなら話さなくていいのよ」


 メアリーは再び首を振る。お下げがぱっと猫のしっぽのように舞う。


「私たちは、ずっと助かりたかったんです。でも、そうしようと動いた人はいませんでした。みんな怖かったんだと思います。死にたく、ないもの。その、奥様」


「なあに?」


 メアリーは顔を上げた。メイドのお仕着せのヘッドドレスの大きなフリルが、白い花びらのように揺れた。


「テラスさん……あの人は、」


「――おいっ。しっかり立て!」


「いででで、丁重にしろよなあっ。ちくしょう、藁袋みたいに転がしやがって!」


 元気のいい罵り合いが聞こえてきて、メアリーはぴたりと口をつぐむ。無表情になり、てきぱきアンリゼットの手当を再開した。

 シルヴィンは下男二人がかりで脇を捕らえられ、引きずられて、アンリゼットの隣の牢に入れられた。牢同士は分厚い石の壁に阻まれているから、声しか聞こえない。彼女はそれが、歯がゆかった。


「ちくしょうはこっちのセリフだ、さんざん暴れやがってよ」


 ぼぐっ。とくぐもった音。下男の笑い声。シルヴィンの食いしばった呻き声。


「やめなさい!」


 とアンリゼットは声を張り上げる。

 ちょうど牢から出てたところの下男は驚いた様子で固まった。もう一人の方は錠を取り落とすところだった。牢の中の灯りと言えば、小さな蠟燭一本しかない。まさかアンリゼットの声がするとは思わなかったんだろう。


「あ、いや。奥様」


「いや、もう奥様じゃないぜ」


 彼らは自分勝手に納得した様子だった。


「なんですって? 私は正式な手順を踏んでルベッタ伯爵家に嫁いだ貴婦人です。無礼は許しませんよ。騎士への暴行も、決して許しません」


「へへへっ。この家でお前さんを心から敬ってた奴なんていやしないよ」


「あんたは人殺しなんだろ?」


「よくもそんな冤罪を……!」


 メアリーが両手で彼女の肩を掴み、押しとどめた。必死に懇願する目に気圧され、アンリゼットは歯噛みしながら黙り込む。下男は楽しい気分になったらしい、鼻歌を歌いながら地下を立ち去った。

 メアリーがほっと力を抜き、小さな声でもごもごと謝った。


「反抗してはいいことがなさそうだものね。止めてくれてありがとう」


 少女は恐怖に潤んだ目をアンリゼットに向ける。ぱっと立ち上がって俊敏に赤毛を翻し、子猫のように檻の隙間から外へ出た。カチャカチャ、錠を下す手つきは震えていた。地下から続く階段を駆け上がっていく後ろ姿をアンリゼットは切ない思いで見上げた。

 彼女たちはつい今朝まで女主人とメイドだったのに、気づいたら囚われ人と看守役になっていた。笑い話にもならない。


「まさか平民身分の使用人がれっきとした貴族の奥様にこんな真似をするとはねえ」


 とシルヴィンの声が言う。少しくぐもった、だが元気そうで剽軽な声だった。


「怪我の具合はどう? そのまま逃げてよかったのに。あなたなら逃げきれたでしょうに」


「使用人なんてものは、主が罪を犯したら進んでそれをひっかぶるような連中だとばかり思ってましたよ」


 あえて答えを言わずに、そんなことを言う。


「あなたはよほど権勢のあるおうちに仕えていたのね」


 アンリゼットは苦く笑った。シルヴィンが座り直す気配がした。


「そんな忠義者の使用人がいるのは代々続いた高位貴族だけよ。使用人も代々同じ役職で仕えているから。フェンリス侯爵家もそれ以前のおうちも、きっととてもしっかりした名家にいたんだわ」


「まるであなたは違うみたいに言うんですね。どうしてです? あなただって貴族でしょう」


「うちみたいな貧乏伯爵家は、彼らとは違うわ。称号があっても、違う世界の人間だわ」


 アンリゼットははっきり言い切った。それでやっと、自分がこれまでくだらないことに囚われていたことに気づいた。そう――殺される前、ユージミーのことを諦めながらもどこかで期待していたとき。

 夫にも使用人たちにも、仕事の成果以外を求められていないことには気づいていた。

 領地の切り盛りをする能力があれば、別にアンリゼットが伯爵夫人でなくてもよかった。

 けれどいつか、いつかルベッタ伯爵家の使用人たちが彼女に心から微笑みかけて、奥様、旦那様なんて放っておいてお茶にでもいたしましょう。そう言ってくれるんじゃないかと思っていた。

 この家の本当の一員になりたかった。

 もう過去のことだ。

 アンリゼットは目を伏せる。感傷を振り払う。死ぬ前と、巻き戻ってからと。どうしても過去と今がごちゃごちゃになってしまう。アンリゼットはまだ水路建設の計画をフェンリス侯爵家に持って行っていないし、今はシルヴィンがいて一人ではないのに。


「……私が領地の見回りばかりしているのは、そうしていれば家の中に籠らないですむからよ」


 かつてはユージミーとソニアから逃げるためそうしていた。


「この家は厳格な規律に基づいて運営されているの。シーツを干す時間からアイロンのやり方まで、全部前の奥様の遺した方法に則って。それ以外は許されないのよ」


 前のときは、こうした方がいいんじゃない? の一言くらいは言ったものだった。だがそれらすべてがもっとも長く屋敷にいる執事テラスに跳ね除けられると分かってからは、何も言わないようになった。


「私の意見は歓迎されていない」


「それは、まだ旦那が生きていた頃から?」


 アンリゼットは頷いたが、見えないのだと気づいて慌てて言い添えた。


「ええ、そうでしょうね。テラスは自分の守るべき規範を破る者を許さないわ。たとえどんな理由があろうとも」


「……ふむ」


 どこか考え込んだような平坦な声で、シルヴィンは言う。


「そういうことか。つじつまは合う。――奥様、オレンジ猫と侍女長を殺した者がわかったかもしれませんよ」


 

 

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