10
「このお屋敷の者たちは皆、亡き奥様に呪われているのです」
「【呪い】? 使用者が死亡したあとでも効力が続く魔法のことね。それは、なんて強力な」
レティシアは頷いた。疲れ切ったようにだらんと開いた口元には、まだ恐怖が残っていた。
「お話しできるのはこれだけです。あの方は【呪い】によって、私たちが口を開くことを禁じられました。【呪い】の内容について話すことも禁じられ、そして縛られてしまった」
「レティシア、ひとつずつ質問していくわ。頷くか、首を振るだけでいい。反応してちょうだい――その【呪い】はこの家に関係すること?」
レティシアはこくこく頷く。アンリゼットは畳みかける。
「【呪い】を破った場合のペナルティが、死なのね?」
頷き。
「【呪い】には必ず目的があると聞くわ。その目的は今、達成されている状況?」
レティシアは少し考えた。そして、ゆるやかに首を横に振った。
「前は達成されていた?」
頷き。
「今はそうではないなら……私のせい? 私が来て、ユージミー様がいなくなったから、【呪い】が暴れはじめてしまった?」
頷き。縋る目で。老婦人は命乞いのようにアンリゼットを見つめる。
「身体に影響が出る? 痛むのかしら?」
首は横に振られる。
アンリゼットはレティシアの皺がれた手を握りしめた。
「あなたたちにかけられた【呪い】について、できる限りのことをすると約束します。私は正式なルベッタ伯爵家の人間ではないけれど、それでもここに暮らす貴族ですもの。縋られたら助けるべきです」
「ああ、ありがとうございます、奥様……」
レティシアはほっとしたようにアンリゼットの手にしなだれる。その足元には大きな黒いシーザーがいて、太い声でニャーと鳴く。
油断するな、アンリゼット、と。
彼女の耳にはそう聞こえた。
そんな話をした翌日のこと。
メアリーに髪を梳いてもらっている最中、階下から悲鳴が響いた。アンリゼットは髪を戻すのもそこそこに立ち上がり、半地下へ急いだ。
ルベッタ伯爵家では使用人は半地下を男女で区切った個室を貰える。それがユージミーの亡き母親のやり方だった。人々のざわめきは女性使用人の個室区域からしていた――アンリゼットは質素な木の扉をこじ開けるように開けた。
泣き崩れるメイドたち、立ちすくむばかりの侍従たち、早くも担架を運び入れようとする下男たち。
使用人の群れをかき分けて、アンリゼットは進む。人垣のさなかにレティシアがいた。彼女は自分から流れ出た血だまりに横たわっていた。白髪交じりの栗色の髪はざんばらに乱れ、口から血を吐いて。
アンリゼットは老いた女の首筋に指先を当てる。すでに脈がない。
「――あああ」
溜息は、己の不甲斐なさに対して。
レティシアは助けを求めてくれたのに、アンリゼットはそれに応えることができなかったのだ。
彼女は指先でレティシアの瞼を閉ざした。花びらのように薄い皮膚だった。
「レティシア!」
と悲鳴を上げて、駆けつけてきたテラスが遺体の前にしゃがみ込む。
彼らが古い付き合いの友人であることは知っている。アンリゼットは静かに後ろに下がって、頭をかきむしるテラスの様子を眺めた。抱き合って震えるメイドたち、呆然とする侍従たちに向き直る。
「お水と、清潔な布を。身体を綺麗にしてあげなくては。メアリー、私の部屋から予備のクロスを取って来て。それで包んであげましょう。それから聖堂に連絡を取って。そうね、ジョシュア、あなたが行ってきなさい」
と矢継ぎ早に指示を出し終えたアンリゼットは振り返った。テラスを一人にしてあげた方がいいだろうか?
だがそこには思っていた光景が広がっている――わけではなかった。
どころか、誰一人としてアンリゼットの言う通り動き出した者はいなかった。
彼女はうっかり忘れてしまっていたのだ。自分はまだ、ルベッタ伯爵家にやってきてほんの数か月しか経っていないということを。
夫に殺され、時間が巻き戻り、あの三年間の地道な努力を一から初めて……まるで激流の中を息継ぎなしで泳ぎ切るように、アンリゼットは暮らしていた。思考は常にクリアで、感情は高ぶって、自分自身を正確に把握できていなかった。
アンリゼットはかすかに身じろぎした。ゆらり、テラスは立ち上がった。
「前々からおかしいと思っていたんです、奥様。あなた様はまるでこの家のことをあらかじめ知っていたようにおふるまいになりました」
彼は低い声で静かに言い、メイドたちの囁き声が場を取り巻いた。不自然に、人の輪ができる。その中央でアンリゼットはテラスを対峙する。
人々をかき分けて、シルヴィンが前に出ようともがいていた。だが彼にも何人か使用人が組み付き、そうはさせまいとする。
「――アンリゼット様!」
切迫した青年の声に向かって、テラスは指を差した。
「この男も、そうです。出会ったのはユージミー様が姿を消してすぐでしたとな? ハハ。お笑いです。奥様を見るこの男の目は、そうですとも、通常の護衛騎士の目ではありません。もっと熱を帯びている」
何人かが頷くことで同意した。アンリゼットはじりじりと後ろに下がった。
「な、何を――言いがかりです、それは!」
「ユージミー様がおられなくなり、あなたはまるでルベッタの女王のようにふるまい始めました。領地を好き勝手に行き来し、平民を味方につけて。猫が死んだ原因をずいぶんしつこく聞きまわったようですね? ご自分の猫を殺された腹いせに、今度は、レティシアを。そういうことなのではありませんか?」
そうだ、そうだ、と。今度の同意は声だった。
(【呪い】は。まさか、これのこと?)
アンリゼットは目の前が暗くなるのを感じた。
ユージミーの母親が残したという【呪い】。この家に関係する、破ると死を与える、恐ろしい魔法の残滓。使用人たちがアンリゼットを取り囲み、じりじりと距離を詰めてくる。こんなのはおかしい。この国の身分制度は厳格で、使用人といえども平民が貴族に歯向かえば最悪私刑が言い渡される。この家の使用人たちは馬鹿ではない。こんなふうにして貴族の女を追い詰める真似をするほど馬鹿ではない。そう言い切れる。
だが彼らは敵を見る目でアンリゼットを睨んでいる。
泣き出しそうだ。
「アンリゼット!」
叫び声は一瞬だった。
「逃げろ!」
シルヴィンは一陣の風のように素早く身を伏せ、男たちの腕をすり抜ける。
「シルヴィン!」
アンリゼットは手を伸ばした。彼はその手を取ろうとした、最愛の女主人の手を。
だが遅かった。アンリゼットは複数の手にもみくちゃに床に押し付けられる。
誰が指示したわけでもない、すべては同時に、それぞれの意志で行われた。
小さな、田舎の、何もない、人と人とが密接な環境で何かが起こると、それはよそ者のせいにされる。
当たり前のことだ。古今東西、どんな国でだってそうだ。
「フシャ――ッ!!」
突然、果敢に吠えたシーザーが後ろから群衆に飛び掛かった。他にも何匹かが爪を剝き出して挑みかかるが、興奮した人々に弾き飛ばされる。
「シーザーっ、カトリーナっ、レオン……シルヴィン、シルヴィン!」
彼の奮戦する声が聞こえた。それから剣戟の音。ちらちらと金属の光沢が暴れ回るのが見える。短剣と、侍従たちの振りかざす椅子だの銀盆だのが交錯する。
「奥様にはしばらく、家をお出にならないでいただく」
テラスの無機質な声が背後から聞こえた。
だがそれさえ、アンリゼットの耳には届かない。
シルヴィンは大丈夫? 生きているの……それとも、死んでしまった?
逃げろというなら、彼こそ逃げてほしい。彼にはアンリゼットのために死ぬ理由などひとつもない。彼は彼女に忠誠を誓ったわけではない。
また――人が、死んでしまう。私のせいで。
とてつもない恐怖がアンリゼットを襲った。手も足も出せないまま、アンリゼットは引きずり起こされる。下男たちの手が乱暴に彼女を引っ立てていった。
「アンリゼットぉー!」
シルヴィンの絶叫、彼の褐色の肌と黒髪が、乱闘の向こう側にかすかに見える。それさえメイドたちの黒いスカートが覆い隠してしまう。
彼女は地下室へと運ばれていった。涙ぐみながら、振り返りながら。