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 アンリゼットは滑るように廊下を進んだ。使用人たちは目を逸らし、奥様に道を譲る。


「――旦那様! いったいどういうことですか!」


 と客間の扉を押し開けると、やはりというか予想通り、その大きな寝台の上には彼女の夫と平民の少女がいた。

 裸で。


「ぷ。ヤダア、奥様怒ってるぅ。ソニア、こあーい!」


 とふざけて少女は夫のユージミーに抱き着いた。領地で一番美しいと言われる少女を腕に抱き、ユージミーはへらへら笑った。


「落ち着きなさい、アンリゼット。私とソニアの仲が妬ましいのは分かるが。ふっ。くっくっく。何度も言うが、私がお前などを愛することはないのだから」


「そういうことではございません」


 アンリゼットの低くひそめた声は、夜のしじまを切り裂くように響く。ソニアは見せつけるようなあくびをする。裸の胸を隠しもしない。

 アンリゼットはつかつかと歩き、寝台の前に立った。夜会服姿である。たっぷりした白いレースのドレスは豪華だった。だが青ざめた彼女の顔は険しく、服装になど構っていられないのが見てとれる。アンリゼットは打ちひしがれた白鳥に見えた。


「今日はこのルベッタ家にとってなくてはならない商談が開かれる夜会でした。必ず、ご出席くださいと再三念押しをいたしましたはず。なぜ、途中でおひとりだけ帰ってしまわれたのですか? おかげで先方はお怒りになり、契約は破綻いたしましたよ。領地に水路を引くための大切な商談が……」


「うるさいっ。そんなことはお前の仕事だろ。仕事しかできない頭でっかちのくせに、私に指図するつもりか!?」


「そーよぉ。学院を卒業してるからって、殿方に愛されなければ女として生まれた意味なんてないわ。アハハッ。奥様は女として終わってる。だからユージミー様にも愛されないのよねぇ」


 ユージミーとソニアは笑い合う。アンリゼットの煌びやかなドレスを指さし、似合わないと嘲笑した。


「あ、もちろんこのせいでウチの経営が傾いたらお前の責任だからな。また鞭打ってやる」


「キャーッ。ソニアもやりたぁい」


 アンリゼットは口を開いたが、あまりに愚かな夫とその愛人を前に何を言えばいいのかもわからなかった。

 彼らは本当に何もわかっていないのだ。この家のことも、貴族であるとは、その愛人として生きるとはどういうことなのか。アンリゼットがやっている各種の人脈づくりや契約の仲立ちさえも理解できないのだ。せいぜい挨拶とお茶会の主催をするだけが仕事だとでも思っているのだろう。

 そのくらいで粋がるな、と直接言われたことさえある。

 ルベッタ伯爵家の家計は、かんばしくない。

 当主がきちんと社交界に出て、領地を見回り、出資した商売を監督していれば違ったのかもしれない。だがユージミーにそうした地道な努力をするという発想はなく、その胆力もなかった。

 平たく言えばユージミーはルベッタ伯爵家に押し潰されてしまったのだ。

 まだ若く、あどけないほど綺麗な顔の伯爵だ。何もわからず、わかろうともしない夫を、アンリゼットは陰に日向に精一杯支えようとした、はずだった。だが彼女はひとつ、誤算をしていた。

 ユージミーはアンリゼットが頑張れば頑張るほど、やる気をなくしていった。人を紹介して商売の立て直しを計画しようとすれば、ひどい暴言を吐いて技術者を怒らせる。身分を鼻にかけて下の爵位の貴族を見下す。平民に動物よりひどい扱いをして、彼に蹴られたあばら骨を折った庭師が退職したことさえある。

 アンリゼットは窓ガラスごしに闇に沈む庭園を見た。次の庭師が見つからないので、荒れたまま。月の光の下に猫たちがいる。この部屋の窓を見上げている。


「もう――無理です」


 言葉はころりと口から出た。

 ずっと前から、考えていたのかもしれなかった。


「もう無理です。離婚してください。ソニア様とお幸せにおなりなさいませ」


「何っ」


 ユージミーはけばんだ。股を隠しもせず彼は立ち上がった。

 ソニアはにやにやと楽しそうに夫婦の対決を見つめる。彼女は身寄りを亡くした平民の娘で、メイドとしてルベッタ伯爵家に召し抱えられ、ユージミーの寵愛を受けた。

 そして温かな感情のすべてを忘れてしまったかのように、アンリゼットに憎悪を燃やすことを生きがいにするようになった。


「お前がいなけりゃ誰がこの家と領地の面倒をみるんだよ? 逃げていいとでも思ってるのか? 無責任だな。悪辣だな!」


「もう無理だと申し上げました。離婚してください。条件は満たしているはずです。だって今日で、私たちは結婚して三年目ですからね」


 アンリゼットは静かに言う。灰色の目はナイフのように光る。黒髪はざわめき、白いドレスと相反して互いを引き立てた。耳にぶら下がる大きな真珠のイヤリングを、彼女はむしり取った。

 ユージミーは知らなかったが、実家のキルケー家でもこうなったアンリゼットを止められる者など誰もいなかった。


「ご存じの通り、結婚してから一度も枕を交わさなかった夫婦には合法的な離婚が認められます。いわゆる白い結婚です」


 ちらりと寝台のソニアを見て、くすりと笑う。


「そこのソニア様の感情を害することになると、お考えになったのですものね。私たちが一度も同じ部屋で寝たことがないというのは、そこの草地の野兎だって知っていますわ。少なくとも神官には使用人が証言してくれるでしょう」


 アンリゼットはぴんと腕を伸ばし、手のひらに乗せた真珠をユージミーの顔に突きつけた。


「どうぞ、お返しいたします。婚約の証としてあなたが贈ってくださった真珠です。今夜は特別な契約が結ばれるはずでしたから、わざわざ身に着けていきましたけれど――もう、私がルベッタ伯爵夫人であることを公言する必要はどこにもなくなります」


 ユージミーはたじろいだ。明らかに、彼はアンリゼットが逆らうとは思っていなかった。


「わ、我が家から離れて生きていけると思うのか。お前なんて孤児のくせに」


「もう成人の年です。あなたこそいつまで子供気分が抜けないのです?」


 結婚したのは十八歳のときだった。アンリゼットが高貴な家柄のルベッタ伯爵家に嫁ぎ、幸せになることが亡き父の最後の願いだった。


「明日、必要な書類を揃えてきますわ。サインをいただき次第、この家を出ます。安心してください、持ってきたもの以外を持ち出す気はありませんから」


 言外に、自分はソニアと違うのだ、という意味をしのばせる。アンリゼットが実家から持ってきたドレスのほとんどは、ソニアに奪われていた。ユージミーは夜会に出るためにドレスを作ることは許可したが、そうして作った新品もまた、ソニアのものになる運命だった。

 家のあちこちから、細い鳴き声が響いた。

――にゃぁぁぁー……ん。

 我知らず、アンリゼットは唇をほころばせる。


「身の回りのものと、猫たちを。私が望むのはそれだけです」


 ソニアがぴょこんと寝台から飛び出て、シーツを身体に巻きつけながら何かを言おうとした。

 その瞬間。

 ユージミーが顔を上げた。どろり。オレンジ色の髪の毛のあわいから、濁った青い目が覗く。

 ぞっと、した。

 アンリゼットのうなじが総毛立った。夫のまなざし、それは己の信じる世界が崩壊しつつあることを知った教信者の目だった。――自分は何もせずとも幸せになれると信じ込んだ者が、その思い込みを破壊された目。


「ゆ……るさないっ、ゆるさないぞおおおおおおー!」


 とユージミーは叫び、アンリゼットに指を突きつける。


「私を馬鹿にして、たかが妻のくせに! 【許されざる者を】――【貫け、石の槍】!」


……あっ。

(魔法だ!)

 アンリゼットは踵を返す。

 だが間に合わなかった。

 床がぐにゃりと動き、絨毯を突き破って石畳が変形した。鋭く、太い。数多の石でできた槍が、アンリゼットの背中を貫いた。


「キャアアアアアアアアアアッ!」


 とソニアが絶叫するのを聞いたのが、アンリゼットの最期の記憶。

 最後の最後に耳にするのが夫の愛人の声だなんて。

 あんまりな、終わり方だった。

 

 

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