今と過去
私の特等席。夜明け前もいいが、夜の訪れをこの場で待つのもまたいい。いつもなら誰もいないはずなのに今日は先客がいた。引き返そうか迷っていると、私がいることに気付かれた。
「お邪魔だったね」
「いえ、そんなことありません」
この場を去ろうとする伯爵を止める。せっかく会えたのだから、同じ時間を過ごしたい。それ以上に、彼を一人にしてはいけない気がした。さっき見た後ろ姿は何かに焦がれているように見えた。
空を見上げる伯爵も何か悩み事があったりするのだろうか。そんな素振りは見せないが、悩みが無い人なんてそうそういない。なにか私に出来ることが、小さな事でも何かしたい。
「伯爵は……。空を飛んでみたいと思いますか?」
聞けなかった。本当はもっと彼の本心を引き出すことを聞きたかった。聞いてはいけないような気がした。彼が何か言ったわけではない。その目が訴えかけていた訳でもない。
けれど、私の言葉はいつの間にか軌道がずれていた。変な質問ではあるが、空を見上げていた伯爵になら大して違和感なく続けられるだろう。
「いや、僕には空は必要ない」
「そうですか。私は飛んでみたいなって思います」
「どうして?」
「誰もいない場所に行ってみたいんです」
言わなきゃよかった。これじゃあ、伯爵と一緒に居ることが嫌なのだと捉えられても仕方がない。もし、本当に何かに悩んでいたら追い打ちをかけるようなことをしたかもしれない。
ちらっと見る伯爵はいつもと変わりないように見えた。烏が夕日を横切りながら飛んでいる空は、燃えるように赤く触れればやけどしてしまいそう。
「僕は一人が好きではないんだ」
「そうだったんですね」
伯爵の意外な一面を知ることが出来た。それがいいことだったか分からない。ただ、自分に出来ることが見つけられた。
沈む夕日を見ながら伯爵の隣にいる。彼がこの場を去るまで居よう。何も話さない時間は苦じゃない。風が伯爵の髪を撫でる音。時々目が合い微笑む。その時間は無駄なものではない気がする。
それにしても暗くならない。こんなにも陽が沈むのは遅いものだっただろうか。ここへ来た時と変わらない夕焼け空を眺めている。
本当にここは不思議な場所だ。朝が来たと思ったら、すぐに夜になる。夜が終わると思えば、なかなか明けない。突然の雨は毎度のこと。この前なんて、春風が吹いているような天気だったのに、雪が降ってきた。
まあ、ちょうど雪に飛び込みたい気分だったので文句な無い。季節感は一切ない。一日の時間も恐らく二十四時間ではなさそうだ。
「ここはいったいどこなんですか」
「夢でも現でもない。ただ、君が存在する場所。故に何も考える必要は無い」
「そうですか」
やはり答えはくれないようだ。何度か聞いているがそのたびにはぐらかされる。これ以上聞いても収穫はないだろうが、知りたい。ふいに伯爵は不思議そうな顔でのぞき込んでくる。気付かぬうちに変なことを口走ってしまっただろうか。
「君はどこを見ながら話しているのだ」
「ええと、後ろの木が気になって」
目を見て話すのが苦手だったので、気付かれないようにどことなく視線を逸らしていたのがばれたようだ。うかつだった。これだけ一緒に居ればばれるのも当然。今までのようではいけないのに、同じ方法を繰り返してしまっていた。
「視線の話ではない。君は時々ここに居ない」
私はいつだってここに居る。時折屋敷を離れ森や川へ行くが、そんな時は必ず伯爵が迎えに来る。まるで私の居場所を知っているかのように現れるのだから、知らないことなどないはずだ。
もとより、この敷地内からは一歩も出ていない。
「そんなに元の世界が君を縛り付けているのか」
その問いに何も答えられなかった。彼の聞きたいことが分かった。この心はいつも過去ばかりを見ている。まさにその通りだった。あの場所から離れた今でも嫌な夢は見るし、過去の記憶が爪を立てる。
けれど、頷くことは出来ない。心配させたくないのなら一言「大丈夫」と言えばいい。けれど嘘をついても意味が無い。彼はすぐにばれる。まあ答えない時点でばれてはいると思うが、私の返事を待っている。仕方がない。もう一度嘘をつくしかない。
「心配するほどじゃありませんよ」
笑って見せるが、やはり見え透いた嘘では伯爵は騙せない。
「心配かどうかは僕が決めることだ」
なんと身勝手なのだろう。私の気持ちを汲んでくれてもいいじゃないか。つきたくもない嘘を吐き、自己嫌悪確定なのに。これ以上私を嫌いになりたくない。一人になりたい。そう願うも彼は放してくれないようだ。
立ち上がり背を向けるも足音が離れない。こうなれば無理にでも引き離すしかない。走っても追いつかれるのは目に見えている。ならば、私に出来ることはただ一つ。
「大丈夫ですよ」
にっこり笑い、これ以上の追及を叩き落とす。笑顔は私の最大の武器だ。誰かに攻撃することは無いが、他者からの追撃は全て防ぐことが出来る代物。
一度の防衛でその全てを跳ね返す。こんなに役に立つ言葉は無いだろう。だというのに伯爵には効果が無いらしい。
「君からその世界を奪えば、君の視界は晴れるかい」
恐ろしいことをいとも簡単に言ってしまう。その目はまるで冗談には見えない。もし、望めばそうしてくれるだろうか。望んだところで意味が無い。
あの世界から切り離されているにもかかわらず、私はいまだに何も変わっていない。例え帰る世界が無くなったとしても、雁字搦めになるのは同じだろう。
一体私は何に囚われているのだろうか。ここにはないはずのものにいまだ引きずられる。恐れる物も嫌いな音も何もないはずなのに、頭の中にはいまだに響いている。それは薄れゆくどころか、色濃く残り苦しめる。拭い去ろうにも、滲んで消えてはくれないしみのよう。
「君が望めば、僕は何でもするよ」
何でもしてくれるというのなら、今しがた思いついた願いを叶えてくれるだろうか。世界を壊すことよりも簡単なこと。
「じゃあ、私をこの世界から……」
それ以上の言葉は声に出来なかった。今にも泣きそうな伯爵には叶えられないだろう。それに、これ以上言ってしまえば彼を傷つけてしまうような気がしてならない。
私がどうなろうと関係のない話だとは思うが、こんな顔をさせたままには出来ない。恐らく私の言葉の続きに気付いているだろう。
それでも、何か別の言葉を探さなければ。頭を巡らせるがいい案が出てこない。「この世界から違う場所に連れて行って欲しい」は悪くないと思ったが、ここに居ることを不満に思っていると言っているよう。うまい言葉が見つからない。何事も無かったかのように通りすぎることのできる言葉はないだろうか。悩みあぐねていると、伯爵が沈黙を壊した。
「そろそろ戻ろうか」
夕日は既に沈み、いつの間にか月が顔を出していた。本当にここはおかしな場所だ。時間が読めない。けれど、そのことに救われた。きっと私は今酷い顔をしている。こんな顔を見られなくてよかったと心底思った。
気を使ってくれているのか、夕食の後部屋まで送ってくれた。そんなことしてもらわなくても平気だが、断らなかった。伯爵は思いを言葉にしてくれる。そして、伝わらなかった言葉を行動にしてくれる。
まるで図に書いて説明してくれているよう。だから、感の鈍った私でもよく分かる。言葉や行動で伝えようとしてくれるから、私はその思いを見つけられる。彼が私の隣にいることが当たり前のように、私が彼の隣にいることを恐れないでいたい。
今日はみんなでピクニックに行くことになった。とはいえいつものお茶会となんら変わらない光景。それでも、名目が違うと別もののように感じる。軽食が多かったお茶会に比べ、ピクニックは食べ放題の食事会さながらだった。
伯爵の提案だ。きっと沈んだ私を思ってのことだろう。皆もいつも以上の優しさをくれる。痛みには簡単に慣れるのに、優しさにはどうも慣れない。
でもそれでいい。泣きそうになるほどの優しさは慣れてはいけない。それは当たり前のことではないから。
いつも通りの賑やかな様子に自然に頬のこわばりがほぐれていく。誰も何か言ったりしない。変に心配したり、気を使ったりもしない。昨日と変わらない日だった。
持ち寄った食事やお菓子が一面に広がっている。その中でひときわ大量に持ってきたのが伯爵だ。
「張り切りすぎだろ」
「みんなに楽しんでもらいたいからね」
照れたように笑う伯爵。そういう駒助も他人のことは言えない。花弁を浮かべたティーポットは新緑に映える。いつも以上に皆の居場所に色どりをを添えているが、そんなことは突っ込まない。
これは私のために開かれたものだから。絶えず訴えかけてくる視線は逃れられない。痛くない、優しいその視線に焼かれてしまいそうだった。
改めて考えると不思議な光景だ。彼らはみな人ではない。けれど、心を持ち言葉を持つ。本当は不思議なことではないのかもしれない。私が知らなかっただけで、こんな世界は存在していたと思うようになった。獅子舞がいつもの様に私の頭に噛みつく。
「いいなー。僕も」
ねだる熊吉とその横で見ていたさやかの頭を噛み、そして私に戻ってきた。悪い気はしないのだが、こうなると動きづらい。というより動けない。獅子舞を頭に噛みつかせたまま出来ることは、笑いながら差し出されたお茶を飲むくらいだ。駒助はその様子を見てずっとにやにやしている。
そんな駒助も頭に噛みつかれていた。「俺はいいから」と言いながら引きはがそうとはしない。離された後、少しばかりむすっとした表情を見せてはいたがここにいた全員に噛みついていたので文句はないようだ
日が暮れても続いたピクニックは熊吉のあくびにてお開きとなった。何時だったのか、どのくらいやっていたのか分からない。そんなことはどうでもいいほどに楽しい時間だった。
布団に入り目を閉じると皆の声が聞こえてくる。心地よい子守歌のように思えて、気付けば眠っていた。
皆で賑やかに過ごした場所に一人。昨日の余韻がまだ残っているようで、なんだかぽかぽかしてくる。どんなことを話して、誰がどんな顔で笑っていたか。まだ、思い出せる。その時間が存在して、そこに私がいたこと。それが確かなことだったと繰り返し記憶に刻んだ。
「つむぎ」
逆さまに見えた顔に驚き、手に持っていたティーカップの中身をぶちまけてしまった。まだ一口しか飲んでいなかったのに。出来が良かっただけに残念だ。
「どうしたの?」
「いーや。見かけたから声を掛けただけ」
ひょいっと木から降り華麗に着地した。今は羽が生えていないのに大したものだ。そう言えばよく会うわりに彼のこともよく知らない気がする。伯爵が烏と呼んでいるから、私もそう呼んでいた。
けれど、彼の姿形は烏ではない。けれど、空を飛ぶ烏を操る様子を見せていた。今もそうだ。彼が片手を上げると、一羽の烏が飛んできて何か話をしているようだ。烏使いのようにも見えるけれど、そこに伯爵と烏のような主従関係は見えない。
「仲がいいんだね」
「まあね」
「烏は仲間のところに行かないの」
「仲間って?」
「ほら、あそこで飛んでる」
彼らが一緒に居ることは見かけるが、烏は一人のことが多い。一緒に居るのはたいてい、今のように何かを報告しているような時くらいだ。他の烏たちは同じ木に止まっていたり、彼らの言葉で会話をしていたりするのだが。
「ああ、あれは俺だね」
「ん?」
「だから、あそこにいるのは俺」
「じゃあ、私が今話してるのは?」
「俺だね」
「ん?」
何度聞いても理解が出来ない。ここに居るのは烏であそこで飛んでいるのも烏。あれやこれやと考えていると、後ろから楽し気な笑い声が聞こえてきた。
「分身と考えれば分かりやすいよ」
「ああ、それそれ」
後ろから現れた伯爵の言葉に烏は納得したようだが、私はまだ理解できない。分身というのは同じ姿であることが前提だと思っていた。それに、分身というのは時六時中出現させるものではない。というのが私の思うところ。
「もともとは俺で、俺が派生した奴があいつらってこと」
そう説明を受けてもいまだ分からない。獅子舞たちの原理はなんとなくだが理解は出来た。けれど、彼らと烏とではまた話が違うような気がする。
そもそも烏は物ではなく生き物だ。その時点て違うのだが、深く考える必要は無い。彼らはここに存在する。それだけで十分なのだ。
飛び立った烏を見送り、屋敷へ帰る。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
もうその声に何の疑問も持たずに、返事をしていた。そこ声の正体が分からなくても、返事をしない理由にはならないと思ったから。いつか姿を見せてくれないかきょろきょろしていると、ランプの足に躓いた。「ごめんなさい」と謝るが返事は無い。しゃがんで「痛くないですか」と、聞いていると駒助が玄関の扉を開けた。
「何やってるんだ」
怪訝な顔をして見下ろされる。そりゃそうだろう。玄関を開けたら誰かがしゃがんでいるなんて何事だと思う。
「蹴っちゃったから、痛くないか聞いてたんだけど返事が無くて」
「まあ、全部がしゃべるわけじゃねえからな」
「そうなんだ」
少し残念だ。彼ら意外とも話をしてみたかったのだが、仕方がない。それにしても、駒助が笑わなかったのは意外だ。いつもの様に笑われると思っていた。「俺で我慢しときな」という駒助は機嫌がよさそうだ。きっと、ハーブが元気に成長しているに違いない。今日も下駄に泥をつけて帰ってきた。
「なあ。あんたの靴、もうくたびれてる」
「まだ履けるよ」
「優しいんだな。だが、そいつはもう十分あんたを守った」
確かにそうだ。ぬかるんだ地面や砂利から幾度となく助けてもらった。けれど、お礼を言ったことはなかった。感謝の念を込めて靴紐を結びなおす。「もう少しだけ付き合ってね」と言葉にすると、駒助は私の頭を撫でた。
それぞれの部屋に帰るため一緒に廊下を歩いていると、いい香りが漂ってくる。顔を見合わせ、目的地を変更した。台所に到着したのは私たちが一番遅かったようだ。
甘い香りに誘われて、すでに全員集まっていた。烏に至ってはもうすでに食べていたようで、口をもぐもぐさせてた。
「おや、いつの間にかみんな揃ったみたいだね」
「俺の仕事が無くなったようだし、食べていいか?」
「もう、三個も食べたじゃないか」
呆れるようにため息をつく伯爵に気にすることなく、次々に口へ運ぶ。伯爵もそれを見越して、この人数分よりはるかに多い量のお菓子を用意している。なんだかんだ言ってこの二人は仲がいいように見える。
伯爵がお菓子を振る舞う時、決まって烏が皆のもとに飛び回り誘う役目を担っている。集合場所と時間を伝えてくれるのだ。そして、皆が集まりお茶会が開催される。だが、今日はその必要が無い。
近くの台にはいつも使っているカーペットが用意されていた。今日も伯爵は外でお茶会をしようとしていたに違いない。
けれど、籠からカップを取り出しお茶の準備を始めてしまった。私達がここへ集まったことによって、彼の計画が無駄になってしまったようだ。今からでも遅くないのではないかと口を開こうとすると、マドレーヌが差し出された。
「出来立てが一番美味しいんだ」
そう言われれば食べないわけにはいかない。けれど、これで良かったのだろうか。皿にも盛り付けず、天板からそのまま頬張る。いつもと違う雰囲気だが、皆が楽しそう。
「悪くないわね」
さやかの声に一同頷く。よく見れば、いつもと変わらない。みんなで笑いあって「美味しいね」といってはまた笑う。場所は関係ない。みんながいることが大切なのだと、伯爵が言っているように思えた。こんな風に笑いあえる時間がいつまでも続きますようにと願いながら、皆の顔を記憶に焼き付けた。