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移ろう空

 それからは、春風が心地よく吹く日にはお茶会を開くのが定番になった。美味しい香りに誘われいつしか屋敷のみんなが揃うようになった。

 庭で伯爵の手料理を頬張り、駒助のハーブティーで一服する。いろんなハーブを使って作られる味はどれも安らぐ味がした。日差しが強くなるとさやかが傘をかざしてくれた。日差しに遮られたその中は、なんとも言えない薄暗さに安堵した。


 時々烏が友達をたくさん連れてくる時は、大騒ぎだった。沢山あった食べ物が一瞬のうちに無くなり、何事もなかったかのように空へ飛んでいく。ハーブティーを飲んでもらえなかった駒助は不満げだったので、何度もお替りを要求したら機嫌良さそうに注いでくれた。


 私のお腹を見て「食いすぎだろ」と言われた時にはむっとしたものの、本心ではないのを知っている。私と同じく不器用な彼なりのお礼だと気付いたなら、怒る理由はない。

「つむぎちゃんのお腹は、お人形とお揃いだから可愛いもん」

 私が悪く言われたと思った熊吉は、すかさずフォローに入る。小さな紳士は私を守るように手を広げる。

「熊吉、ありがとう」

 そっと頭を撫でると、ぴょんと懐に飛び込んでくる。見かけよりも軽い体を持ち上げ、くるりと回るとけらけら楽しそうな声を上げる。「いいなー」と言われても、非力な体ではさすがに烏は持ち上げられそうにない。

 代わりにはならないが、見つけたほおずきを渡す。一時吟味した後、ぱくっと飲み込んでしまった。


 後片付けの時間も楽しみのうちの一つ。賑やかな余韻が残る場に最後まで残っていたいと立候補した。その隣には必ず伯爵がいる。

「彼らと仲良くなれたみたいだね」

「はい。みんな優しい人たちです」

「それは良かった」

「皆も私と同じ場所から来たんですか?」

「まあ似たようなものではあるが、彼らは人ではないよ」

 人でないなら一体なんだというのだろう。

「ここは物が心を持ち、心が体を持つことが出来るんだ」

 そう言われてもぴんとこない。物が心を持つことまでは理解できる。八百万の神と言うものを聞いたことがある。だが、心が体を持つとは聞いたことが無い。そもそも心とは一体何なのかが分からない。それ以前に心は実態がないのだ。表しようがない。

「戸惑うのも無理が無いね。それでも、彼らはここにいる」

 伯爵の言葉にはっとさせられる。ここにいる彼らを信じないのは、彼らの存在を否定することになる。そんなこと私に出来るはずがない。


 ここには彼らと過ごした時間がある。それが、彼らが存在する何よりもの証拠だ。ふと、疑問が湧いて来た。熊吉はあの熊の人形だろう。さやかは傘で、駒助は下駄。獅子舞や烏はいうまでもない。

「伯爵もみんなと同じ何ですか?」

 聞いてはいけないことだっただろうか。少し微笑むと、視線をそらしてしまった。

「そろそろ、屋敷に戻ろうか」

「はい」

 きっと私は知らなくていいことなのだろう。伯爵がそう判断したならそれに従うだけ。何か知られたくない理由もあるだろう。それを無理やり聞き出すのは野暮だ。

 それに、聞いたからと言って何か変わるわけではない。彼らに対してもそうだ。人ではなく物であると聞かされても、これからも同じようにいるだろう。

 いつか教えてくれる日まで気長に待っていよう


 いつもの様に庭を散歩していると、妙な影が見えた。生き物のようなけれど、人の形ではない。ここには私の知らない生き物が生息していてもおかしくはない。何度常識を壊されてきたことか。もはや私が思っている常識は一つ残らず散っていた。

 好奇心に任せてじりじり近寄ってはいるが、凶暴な生き物だったらどうしよう。もし、襲われそうになったら伯爵が駆けつけてくれるだろう。この屋敷の敷地内だし、玄関からそう遠くはない。


 とはいえ細心の注意を払い足音を隠す。気配を消すのは得意な方だ。話を振られないように隅の方でひっそりとしている姿はまるで忍者さながら。

 けれど、足音を立てない方法は習得できていないことを忘れていた。息をひそめることに集中するあまり、落ちていた小枝の発見に遅れた。

 時すでに遅し。ぱきっという音と共にその生き物は木陰から顔を出した。


 一瞬息が止まったものの、見覚えのある顔に深く息をついた。獅子舞がこちらを覗きながら口を鳴らしている。それが何を意味するのか分からない。

 以前さやかに獅子舞のとる行動の意味について聞いてみたが、彼女にも分からないという。人見知りの性格ゆえ、逃げられなければ嫌われていないという認識でいいらしい。

 そんな情報では何も分からないと思っていたが、そんな情報でもあってよかった。他の三人に比べて獅子舞と遭遇することはあまりない。さやかや熊吉は見かけると声を掛けてくれる。駒助は目が合うとひらひらと手を振ってくれる。


 それに比べて獅子舞とは話したことが無ければ目が合ったことも無い。そもそも顔が隠れているのでは、こちらを見てくれているのかどうか判断できないのだ。

 会ったとしても、少し先の廊下を横切るのを見るくらいだ。声を掛けてみようにも名前が分からない。誰に聞いても彼は獅子舞だという。


 それ以前に獅子舞とは以前対面したことがある。まだ誰のことも知らなかった日の夜、廊下で会っている。あれを会ったといってもいいのかは定かではないが、それぞれの存在は認識していた。だから、この時間がかなり気まずい。

 私はあの日、獅子舞の影を見るなり走り去ってしまったのだ。彼はそのことを覚えているだろう。どうすればいいか。いまだ顔しか見せない彼は私の様子を伺っているように見える。私が何か行動しなければ何も変わらないままだ。

「今日はいい天気ですね」

 思いついた言葉は何の意味もない言葉だった。こんなこと言ったって「そうですね」で会話が終わる。

 それどころか今日はいい天気ではない。いつも通りの曇り空。私にとってのいい天気ではあるが、世間一般ではいい天気とは言えない。自分の話術の無さが浮き彫りになる。


 会話と言うものはこんなにも難しかっただろうか。最低限の会話しかしてこなかった私にはまだ、一対一の会話は難易度が高い。それでも伯爵とはよく二人で話をしている。

 思い返せば伯爵の方が話している量は多いものの、居心地の悪さは感じない。彼のように話せばうまくいくかもしれない。

 まずはゆっくり近づいて行く。相手が嫌ではない距離まできたら、視線を合わせるようにしゃがみ大きすぎない声で話し始める。

「私、つむぎって言います。最近の好きは好きな食べ物はいちごタルトで、ハーブティーを作るのにはまってます。この前、胡桃を山ほど貰って嬉しかったです」

 ちらっと様子をうかがうと少し興味を持ってくれたようで、先ほどよりも体が見えてきた。この調子でいけば大丈夫だと、頭の中で話題を振り絞る。

「この間、花弁を浮かせたお風呂に初めて入りました。最近の嬉しかったことは似顔絵を描いてもらったことです」

 自己紹介をしているつもりが、ただの近況報告になってしまった。こんな簡単なことが出来ないない。歩み寄ってもらえなければ、誰かとの距離を縮めることさえできない。


 ここへ来てどれほど支えられていたのかを痛感する。何気ない会話の中にも彼らの気遣いが溢れんばかりに散りばめられていた。そのことに気付けなかった私は何と愚かだろう。

「あなたはどんな名前ですか?」

 拙い自己紹介ではあったが、興味を持ってもらえたようだ。私の質問に答えてはくれないが、もうその姿は気に隠れてはいない。

 獅子舞の顔が目の前にあるものの、ちゃんと目を合わせられているだろうか。恐らく彼らでいう心はこの中に隠れているから、私には見ることが出来ないが彼からは見えているだろう。

 今はそれでいい。私だって人と顔を合わせたくない時は山ほどある。いつになるか分からないが、もしその心を許してくれる時が来るまでは待つことにしよう。


 あまり長居してもいいものではない。もう少し彼のことを知りたくはあるが潮時だろう。立ち上がろうとした時、彼が動いた。

 口を大きく開いて、私の頭に噛みついた。驚きはしたものの痛くはない。しばらくじっとしていると、満足したのか乾いた鈴の音と共に去って行った。


 彼の行動の意味はよく分からなかったが、この日以来見かけると私の肩やら手やらに噛みついてから去って行くようになった。

 恐らくこれは彼なりの挨拶なのだろうという、推測だが多い時では一日に五回ほど噛みつかれた。挨拶にしては多い気がするが、去り行く背中が満足げなので問題は無い。

 ただ、私が歩いている時と微睡んでいる時は遠慮願いたい。獅子舞は私を見つけてはその頭で噛みつく。別に痛くはない。問題はその長さだ。

 彼は一度噛みつくと、しばらく放してくれなくなる。最初は、彼の気が済むまでじっとしていたが、今では頭を噛みつかれたまま歩くのも平気になった。

 まあ、すれ違いざまに駒助に二度見された時は走り去りたくはなるのだが。それ以来、頭に噛みついている時は彼の気が済むまでじっとしていることにした。


 この前は、庭でうたた寝しそうになっている時に目の前に大きな口が現れた。見慣れてはいても、やはり急だと驚いてしまうもので椅子から転げ落ちてしまった。申し訳なさそうに口をかちかち鳴らすので、怒る気はさらさらない。


 今日もいつもの挨拶を交わす。そう言えば、彼がつけている鈴は錆びているのか掠れた音がする。

「この鈴、錆びてしまってるの?」

 返事は期待していなかったが、彼の顔は噴水を向いた。

「噴水に落ちた?」

 反応が無い。ということは、噴水に落ちたわけではないようだ。

「水に濡れた?」

 漠然とした質問ではあるが、口をかちっと鳴らす。これは正解ではないが、不正解でもないといったところか。どういう経緯でこうなったのかは分からないが、あることを思いついた。


 もし、私の家の鍵に着けていた鈴を渡したら受け取ってくれるだろうか。この鈴の音は気に入っている。一本線を引いたように鳴る音は心地いい。

 だらか、毎日持ち歩く鍵に着けるようになった。決して、紛失防止のためにでつけたわけではない。

「ちょっと待ってて」

 部屋の机に置いてある鍵を探しに急いで戻る。たしか、長めのひもで括り付けてあった。あの長さなら、いま持っているものとあまり変わらないだろう。

 鍵から引き離し、駆け足で獅子舞の元へ戻る。返事をしてくれなかったが、私の言葉は届いていたようで先ほどと同じ場所にいた。


 私の鈴の音が聞こえたのか、近づく前にこちらに気付き顔を向けた。鈴を見せると首をかしげる獅子舞は小動物のように見えた。彼の鈴の隣に私の鈴をぶら下げる。その間じっとしているので、嫌ではないようだ。

 つけ終わると、その場でくるくる回り鈴の音を鳴らす。どうやら気に入ってくれたようだ。いつも以上に多く噛みつかれるが、喜んでいる証拠だと思えば多少痛くても悪い気はしなかった。




 いつも通りの日。空は曇り雨が降りそう。だけど気分は冴えない。なんだか今日は調子が悪いようだ。目が覚めたというのに体が動かない。

 それでも、じっとしているとベッドに沈んでしまいそう。なるべくゆっくり体を起こし、部屋を出た。いつもの様に送り出す言葉が聞こえたが、答えられるほど心に余裕が残っていなかった。

 みんなと仲良くなれたことが嬉しかった。けれど、人と距離を置くことに慣れすぎていたせいか、どっと疲れが押し寄せてしまったようだ。嫌なことなんて無いはずなのに、どうしてこうも胸が締め付けられていくのだろう。

 どこからともなく押し寄せてくる感情に飲み込まれてしまう。息が苦しい。心臓が痛い。もう立っていられない。


 何も考えたくなくて、行く当てもなく森を進んだ。それでも、頭に蔓延る思考から逃れることは出来ない。ならば追いつかないようにと走った。そんなことをしても意味が無いことは分かっている。

 それでも、耳が痛くなるほどに鳴り響く鼓動が少しだけ和らげてくれた。喉が痛くて空気を吸うことが苦しければ、吐くことも十分に出来なくなった。


 いつもより近づいた空は思いのほか小さく思えた。ふらふらした足取りでも前に進む私はいったいどこへ行きたいのだろう。滲む世界を彷徨う。目の前の道が欠けていることに気付かなかった。

 気付けば坂を転がり落ちていた。止める術もなく、ただ落ちていった。ようやく止まった頃には、空は手の届かない場所にあった。

 見上げる景色は穏やかで腹立たしい。全身を強く打ったが、骨は折れていないようだ。折れたらこんなものじゃないだろうと半ば自分に言い聞かせた。緩やかに風に流される雲は過ぎてゆき、またやってくる。私はさっきまで何を考えていたのかもう思い出せなくなっていた。


 体の痛みは引かないものの、先ほどよりはましになった。体中に巡る痛みのおかげだろう。人の体と言うものは不思議なもので、自分に害のあるものをより高く感知してしまう。

 味覚で言えば、甘味より苦みや酸味がより感じやすいように感情もまた同じだろう。喜びよりも痛みや苦しみの方がより多くを拾ってしまう。痛みを強く感じている今だけは、そのほかの感情から解放されるのだ。

 ねじれた痛みではなく単純な痛みは頭を麻痺させるよう。ズキズキと疼く今だけは、全てを忘れてしまえる気がした。


 自分の息遣いだけが聞こえてくる。眠っている時はこんな感覚なのだろうか。眠りの時間だけが心穏やかとまでは言えないが、ずっと静かな時を過ごすことが出来るように思う。

 実際のところ夢を見たり何度も起きたりと、そう長くは続かないが考えなくて済む時間が少しでもあるだけで少しは楽になる。

 このまま眠ってしまおうか。ここが暖かい布団の中なら今すぐにでも眠っていただろう。でこぼこした地面の上では寝返りを打つことも出来そうにない。

 空にため息を吐き出す。手を伸ばすも、はるか遠くには届きやしない。もとより羽の無い私には到底たどり着くことの出来ない場所。「誰か助けて」と心の中でつぶやくと遠くの方で羽の音が聞こえた気がした。


 私はあのまま気を失っていたようで、目が覚めると柔らかい布団に包まれていた。

「起きられるようになったら教えておくれ」

 私の頭をひと撫でする。彼は私を子供か何かだと思っているのだろうか。なにかにつけ私の頭を撫でる。もちろん嫌なわけではない。最初こそ慣れない違和感はあったものの、今ではその手に心地よさを感じる。

 傍を離れたかと思うとベッドの近くに椅子を持ってきた。伯爵は腰掛けると、懐から取り出した本を読み始めた。

 そんなことをしてくれなくていいというのに。私のために彼の時間を費やしてもらう必要は無い。どこか好きな場所で好きなことをしてほしい。彼の大切な時間を奪うなんて私には出来ない。

 どうしたらいいだろうか。そうか、彼は私が起きるまでいるつもりなのだ。ならさっさと起きてしまえばいい。そうすればもっと有意義な時間を過ごしてもらえる。


 体がだるいわりに頭が冴えているようだ。早いこと気付けて良かった。出来る限り元気を装って起き上がる。頭がくらくらするも、このくらいなんてことない。

「おや、もう起きてしまったのか」

「もう大丈夫ですから」

「それは残念だ」

 大丈夫と言う言葉に対して残念だと返す人はなかなかいないだろう。大抵の人はそれは良かったといって去って行く魔法のような言葉だ。たった一言で、人を踏み込ませないようにする防衛線を張れる。こんな役に立つ言葉は無いだろう。

「では、今度は君の心が大丈夫と言えば戻ることにしよう」

 何度使ってもその効力は落ちないはず。それどころか何度か言い続けると、言う前から効果を発揮することもしばしば。百発百中だった記録は、いとも簡単に打ち破られた。

 踏み込まれるのが嫌で遠ざけてきたはずなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。嬉しいはずなのに浮かない気持ちが湧き出てくる。

 伯爵は私を大切にしてくれる。それはよく分かる。いつもの彼の言動を見ていれば嫌でも感じてしまうから苦しい。できることなら放っておいて欲しかった。


 生きているだけでいいなんて誰が言った。そんなの嘘じゃないか。ここに突っ立っているだけでは誰も喜ばない。ただ、生きていることに喜ぶ人などいない。そこに利益があってこそ、その命に価値が生まれるものだ。

 だから、何かしなければ。自分に出来ることを見つけなければと思うが伯爵は何もさせてくれない。私がやろうとしていることは先回りしたかのように済ませてある。

 食事の準備に後片付け、掃除や洗濯なども全て私がやったことは無かった。最初は良かった。けれど、ここに居る以上何かしなければいけないと焦るようになっていた。

 彼にとって有益なことをしなければいずれ追い出されるのではないかと思うのに、私は相も変わらずお世話されている。


 得体のしれない波が急に押し寄せてきた。今まで何ともなかったはずなのに、何かが引き金になったのだろう。私は布団から起き上がることさえできないくらいに、その波に飲まれてしまったようだ。朝も夜も分からない時間を過ごし、ただ眠りに救いを求めた。

 目が覚めると、机には食事が置かれている。小皿にはいつも胡桃が添えられている。眠気が覚めると部屋のカーテンがひとりでに開き、日差しが強くなれば傘の形の影が出来る。

 時折、小さな影が花の雨を散らす。慌ただしい鈴の音の後には木が地面をける音が続いてやってくる。そして、しばらくするとその音は遠ざかっていく。


 それは毎日続いた。彼らは飽きることなく、私のそばに居てくれている。嬉しはずなのに苦しくて仕方がない。苦しいはずなのに、明日も変わらぬようにと願ってしまうのだ。

 恐らく彼らは、こんな私を見捨てたりしないだろう。それでも、簡単にそう思えないのは今までの経験がしつこくまとわりつく。無益な存在は鬱陶しそうにあしらわれる。

 きっとまた、そんな目で見られるのだろうなんて失望に似た感覚が湧く。もし受け入れてくれても、いつか呆れられるのではないだろうかと思うと、どうも体が動かない。今だけを見ていられればどれほどいいか。過去の後悔に繋がれ、未来の壁は高くそびえる。


 こんな時は諦めてしまったらいいのだ。いずれ誰も来なくなる。それまでじっとしていればいい。そんなことをすれば居場所は無くなるに決まっている。それでも、必死に居場所を作ろうと藻掻くよりは随分と楽になる。

 いつか消えるだろうと覚悟していたそれぞれの足音はいつまでたっても途切れない。その音は優しいはずなのに、急かされるようで時折耳を塞いだ。


 求めるのは怖い。だから、私からは何もしない。だというのに明日もと求めている心は止まらない。たくさんの感情に渦巻く頭の中では、正常な判断は出来ない。思いは溢れているのに、ありすぎるがゆえに何も感じなくなる。

 涙が溢れそうになると、いつものごとく伯爵は無遠慮に部屋に押し入ってくる。まあ、これは彼の家なのだから何の文句も言えない。

 彼のお得意に察知能力は今こそ発揮してほしいものだ。これだけ拒んでいるのに、飽きもせずここに来る。そして一人ごとのように話してから去って行くのだ。

「一日中走り続ければ体が疲れるように、いろんな感情を抱えた心もまた疲れるものだよ」

 その言葉を聞くまでは知りもしなかった。心も疲れてしまうのだということを。それは分かったが、分かったところでその疲れを取る方法が無ければ意味が無い。

 そもそもどのくらい疲弊しているのかはそう簡単に見えるものではない。一日中眠っていたところで次の日元気いっぱいなんてことはまずありえない。


 もしそうであるならば、今の私はみなぎるほどの元気があるはずだ。けれど、体の疲れは増していっているような気がしてならない。どれほど眠っても消えない重たさはあとどのくらい続くのか。ただ過ぎていくだけの時間は恐怖でしかなかった。

 未だいなくならない彼は独り言を続ける。

「焦る必要はどこにもない。君の歩幅でいいんだ」

 それが出来たら悩んでなどいない。自分らしさを受け入れられないから困っている。

「ちゃんとここで待っているから」

 そんなことはさせられない。恐らく今が離れる時なのだろう。

「私、出て行きます」

 言うやいなやベッドから起き、扉へ向かう。ろくに食事もとらず鈍った体は数歩ももたず、体力の終わりを告げた。そっと背中に置かれる手は逃げることを制止しているよう。

 そんなことをされなくても、もう立ち上がる力何て残っていない。

「心配いらないよ。ゆっくりでいい」

「迷惑はかけたくないんです」

「迷惑だなんて思っていたら、みんなこんな風に集まらないよ」

 伯爵につられて視線を移すと、皆が扉の隙間から顔を出していた。

「みんな君が好きなんだ」

 私は私が好きじゃない。だから、誰かから好かれるとは到底思っていなかった。今でもそれは変わらないはずなのに、こんなにも嬉しくなるのは皆が駆け寄ってきてくれたから。


一番先にたどり着いたのは獅子舞と烏。競るように駆け、獅子舞は来るや否や私の頭に嚙みついた。それをたしなめるようにさやかが引き離した。熊吉に手を引かれた駒助が獅子舞の布を踏んづけバランスを崩し、広い屋敷の一角に集まった。

 彼らは伯爵のように何かを言ったりしないがその気持ちがよく分かる。言いたいことはたくさんあるのだろうが何も言わない。それでも、私を見つめる目が囁いてくる。

 すぐに人は変われない。まだ自分のことを好きになれそうにはないけれど、伯爵の言葉を、彼らの想いを受け取りたいと思った。

 それが私にどんな痛みをもたらすかは分からない。傷を負ったとしても、彼らの想いを受け取る価値はある。それ以上に、その思いに触れてみたいと思った。嬉しくて涙が溢れ出したけど、私は久しぶりに笑えた気がした。


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