招待状
庭で話した日から、駒助とは少しだけ仲良くなれた。素っ気ない挨拶は今まで通りなのだが、その口元が緩んでいることに気が付いた。
それからは彼の庭に遊びに行き、手入れしている姿を眺めるようになった。時々、いやほとんど毎回、手招きされあれこれと指示される。「そうじゃない」と小言を言われるがきっと嫌われていない。
彼の居場所に居ることを許されている。それがその証拠のように思えた。畑仕事の終わりには必ずハーブティーを淹れてくれる。大して会話はないが、その時間は確実に距離を縮めている。ゆっくり減っててゆく駒助のカップが教えくれた。
小さなお茶会の後は必ずタイミングを見計らったように伯爵が迎えに来る。もしや彼もお茶会に参加したいのだろうか。
伯爵にハーブティーを作ろう。そしてそのお茶会に伯爵を誘うことにした。駒助が作ったもののほうが美味しいのだろうが、私が作りたい。知識なんて一つも無かったが、駒助に教えてもらって出来るようになった。
何度も練習に付き合ってくれるうちに、なんとなく彼のことが分かってきた。少し古風な印象だったが可愛らしいものやお洒落なものが好きなようで、手編みの草履や小物まで作れるらしい。熊吉と一緒に居るのをよく見かけるのに納得した。
そしてとてつもなく細かい。私が少しでも早くお茶を注ごうものなら、慌てて制止するのだ。砂時計が落ちきる三秒前にちょうど飲み頃になるそうだが、秒針の無い砂時計では正確に計ることは出来ない。
何度練習しても駒助のような正確な感覚は身につかないようだ。もういいだろうと手を伸ばせば、いつも引き止められる。「まったく」と言いながらも何度も付き合ってくれる辺り、まだ私に嫌気がさしていないようだ。
最近ではハーブが育ち摘み時になると、誘ってくれるようになった。
「駒助って誤解されやすいタイプでしょ」
「どういう意味だ」
すかさずフォローを入れる。
「悪口じゃないよ。ただ、少し近寄りがたいなって思っただけ」
むすっとした顔をする駒助は納得いかないようだ。
「どう思われているのかは、知ったこっちゃない」
「結構人見知りだったりする?」
「違う」
そっぽを向いてしまった。せっかく縮めた距離が遠ざかってしまったかもしれない。「あんた、何も分かってない」と悲し気な声が聞こえてきた。
私の言葉が彼を傷つけてしまったのだろう。言われたくない言葉にどれほど棘があるかよく分かっていたはずなのに。配慮がたりない物言いをしてしまった。
「ごめんなさい」
いつも通りの沈黙。けれどどうしていいのか分からなかった。
「あの……」
「気にすんな。別に傷ついたわけじゃねえよ」
笑いながら空のカップに注がれるおかわりのお茶。甘く優しい香りは心を包んでくれる。
「変わったのは俺じゃない。あんただろ」
「どういうこと?」
「あんたの中の俺への印象が変わっただけで、俺はいつも通りだ」
無意識のうちに、彼に対して勝手に想像の姿を張り付けてしまっていた。確かに最初の印象が悪かったにしても、それを全てだと勝手に思い込んだ。そして、自分勝手に解釈をして、怖い人なのだろうと避けていた。
「ごめんなさい」
「いや、俺も悪かったよ」
笑い慣れていないその顔は、今まで見た中で一番自然に見えた。「友達を作るのは苦手なんだ」と照れくさそうにいうものだから、私も照れてしまう。
友達なんて何年ぶりにできただろう。覚えている限りでは中学校以来だ。ということはもう十年も友達が出来ていない。その間一人だったわけではない。遊びに誘ってくれる人も、一緒に食事する人もいた。それでも、友達というものには至らなかった。
そもそも何をもって友達というのか、どうやったら友達になれるのかが分からない。恐らく小学生や中学生の頃は一緒に居ることが友達だと思っていた。
けれど、少し大きくなった時考えてしまった。彼らは本当に友達というものなのだろうかと。
考えてしまえば何も気づかなかった時には戻れない。今まで自然に出来ていたことが出来なくなった。一緒に居るだけならクラス全員該当する。楽しいことをするだけなら特定の人でなくてもいい。
そんなことを考えながら送っていた学生生活は楽しいものではなかった。悶々としながら友達であろう人たちと一緒にいた。
そんなことだからそう長くは続かなかった。いつからか彼らと過ごす時間が無駄に思え、次第に人といることを億劫に感じるようになった。人の声を聞くたびに眩暈がし、学校はストレスの場所となった。会社に勤めてからはそれが加速した。
それならばいっそのこと一人でいる方が有意義なのではないかと思うも、社会人はそうは言っていられない。大抵の仕事はコミュニケーションがものをいう。
飲み会でうまく立ち回れなければ次の日に響く。断ろうものならまるで意味が分からないと言った顔をされる。それもまた私の苦悩の種なので参加こそするものの、そこに私はいなかった。
ただ、気の利くことをするだけの存在としてあることにしたのだ。自分を偽ることでしか人との関りを持つことが出来なくなっていた。
そんな私が他者と生活しているなんて、あの時には想像できなかった。誰かのために何かすることも、誰かに手伝ってもらうことも。
まだ、簡単に出来るわけではない。嫌がられないだろうかとか断られてしまうんじゃないかと諦めてしまいそうになる。それでも、彼らはそこにいる。そこで待ってくれている。だから、恐れながらも近づけるのだ。
今日もまた、彼らに一歩近づくために足を進める。
「駒助、これ……」
渡すのを止めようかと思ったが、このままにしていても何も伝わらない。だから、思い切って渡してみよう。ハンカチを取り出し彼に渡した。このハンカチを持って彼に会うのはもう、五回目だ。そして、ようやく渡す勇気を出せた。
一瞬不思議そうな顔を見せたものの、すぐに分かったようで説明もなしに受け取ってくれた。慣れた手つきで鼻緒を交換していく。駒助の下駄は片方の鼻緒が千切れそうだった。
けれど、気にする様子が無かったため、何も言わなかったが先日躓きこけそうになっている姿を見かけたのだ。私のハンカチが役に立つかは分からなかったが、薄手のものでちょうどよかったようだ。
「ありがとな」
いつものにやけ顔ではなく、照れくさそうな笑い顔にまたもや私もつられてしまう。土を蹴る音はいつもより少しだけ軽快に思えた。
それから一週間、みっちり駒助の指導を受けてお許しが出た。ようやく伯爵を誘える。この時間なら、庭か広間で本を読んでいるだろう。まず居間に行ってみよう。一区切りついたのか、本を閉じている。ちょうどいいタイミングだ。
「伯爵、お茶の時間にしませんか」
「おや、君からのお誘いは珍しいね」
「伯爵に飲んでもらいたくて」
「頂こう。ちょうどマフィンもあるからね」
どこから取り出したのか机には美味しそうなマフィンが二つ。意気揚々と厨房へ向かう。
ポケットに忍ばせてあったレシピを取り出し、慎重に分量を量る。駒助が教えてくれたように丁寧に進める。いい香りが漂い頃合いだ。いつも伯爵が使っているティーカップに注ぎお盆に乗せた。
目の前で湯気を立てるハーブティーはいつもと一味違う。これまで何度か作ってきたなかで、駒助の反応の良かったものから調合したものだ。いわば伯爵のためだけの特製だ。
注ぎすぎたかもしれない。歩くたびに揺れるハーブティーは今にも零れてしまいそう。戻って中身を減らしたいのだが、ここまで来てしまえば持っていく方が近い。そろりと姿勢を崩さないようにしながらようやくたどり着いた。
「お待たせしました」
その気の緩みで今までの努力は消えていった。敷居に躓き、派手にこけてしまった。なんとか死守しようとお盆から手を離さなかったので、カップは粉々になることは防げた。しかし、もう二度とお茶を注ぐことは出来なくなった。伯爵は驚いたように駆け寄ってきた。大切なものが壊されたのだ。慌てるに違いない。
「怪我はないかい?」
「はい」
止めておけばよかった。柄にもなくこんなことをしたせいで、人の物を壊し迷惑をかけた。私は何がしたかったのだろう。伯爵に喜んで欲しかっただけなのに、反対のことをしている。
「これは残念だ」
「ごめんなさい」
言い訳なんて出てこない。悲しそうにカップを見つめる伯爵は心底がっかりしている様子だ。一点物の珍しいものだったかもしれないし、なにか思い入れがあったかもしれない。そうじゃなかったとしても、誰かの物を奪ったのだ。その物の大小は関係ない。
さすがの伯爵も許してくれないかもしれないだろう。こんなことしなければよかった。今までのように何もしない道を選ぶべきだった。近づきすぎてはいけないと分かっていたのに、忘れてしまっていた。
彼からどれほど距離をとっても、いつもより少しだけ近づいても変わらずそこに居てくれる。そんな時間に気が緩んだのだろう。
いまだしゃがんでいる伯爵はどんな顔で私を見るだろう。今すぐに逃げてしまいたい。軽蔑の眼差しを向けられたのなら、もう立っていられなくなりそうだ。それでも、もう一度謝らなければならない。許してもらうためではなく、ただ彼に対する謝罪を。
「本当にごめんなさい」
私を見上げる顔は、なんだか泣きそうに見えた。
「そんな顔をしないでおくれ。残念だが仕方がない」
「でも、伯爵のカップが」
「ああ、それなら構わないよ。君が思い出にしてくれた」
破片を集めお盆に乗せると、優しく微笑んだ。
「これを見るたびに思い出すだろう」
やっぱり怒っているだろうか。
「君から初めてのお茶会のお誘いの日を。それに僕のために作ってくれたこの香りもね」
安心しなさいというように見つめる目は嘘ではないのだろう。嬉しくはあったが、やはり割ってしまったことへの後悔が大きい。もし、何事もなく進んでいれば今頃楽しくお茶を飲んでいただろう。
こんなめちゃくちゃな状態では取り戻すことは出来ない。それでもまだ取り戻せる場所に居るのなら引き下がりたくない。
「もし……、もし、明日も誘ったら来てくれますか?」
「楽しみだ」
快い返事に失いかけた元気が蘇ってきた。我ながら単純だ。悪いことではないのだが、小さなことに一喜一憂するのは少々疲れる。それでもいいのかもしれない。今夜はよく眠れそうな気がした。
いつか変な予防線なんか張らずに彼を誘ってみたい。「もちろん来るでしょ」なんて言い方したらどんな顔をするだろう。困りながらも同じように答えてくれるだろうか。
きっと私にはそんな言い方出来ないだろう。「明日のお昼、開けててね」くらいには言えるようになれたらいいのに。遠い未来の日常は煌めいて見えた。
その日の夜、初めて招待状を書いた。何を書けばいいのか分からず、数時間悩んだ末ただの手紙のようになってしまった。こんなもの無くても伯爵は来てくれるだろうが、何か形に残したかった。
本当は伯爵の部屋の前に置いておきたかったが、どこにあるのか知らなかった。知っていても部屋まで行くのは張り切りすぎだと思われそうだ。
だから、必ず行くであろう居間の机に置いて来た。同じ屋根の下に住む人に手紙を書くのはなんだか恥ずかしい。口では伝えられない内容を手紙にしているわけではないので、たいしたことでは無いのだがそわそわした。
明日は晴れるだろうか。いつもなら雨が降ろうが雪が積もろうが気にしないのだが、明日だけは晴れて欲しい。お茶会の会場は庭の木陰にしていた。
部屋の中でもいいのだが、せっかく準備する時間がある。今日できなかったものよりももっといいものにしたいと思った。それに、初めてハーブティーを飲んだ菜園が印象に残っている。
気持ちの良い場所でならきっといいものが出来るとそこに決めたのだ。伯爵も木陰で休んでいるところを見かけるあたり、好きなのではないだろうか。
願い通り少しだけ雲が流れる空。久しぶりの晴れの日は、少しだけ心を曇らせた。伯爵が来てくれなかったら。また失敗したら。そんな考えが何度も巡る。
やっぱり止めておこうかなんて思ったが、伯爵からの出席の手紙が背中を押す。「誘ってくれてありがとう」という文字を何度も指でなぞった。
手紙をポケットにしまい、今日は失敗しないようにと気合を入れた。伯爵が来る三時間前から準備を開始したおかげで、約束の時間の二時間前には何もすることが無くなってしまった。
暇を持て余していたが、することが無いので待ち合わせ場所で座って待つことにした。ふんわりと肌を撫でる風に目を閉じていると、誰かが近づいてくる音がする。
目を開けると、目と鼻の先に大きな瞳があった。急に私が目を開けたのに驚いた熊吉は後ろに転がった。
「熊吉、ごめん。大丈夫?」
「うん、平気」
背中に着いた土や草を払いながら立ち上がる様子に怪我はなさそうだ。それにしてもこんな至近距離まで近づかれて気付かなかったとは。私の警戒心が低すぎるのか、彼の気配を隠す技が凄いのか。
どちらにせよ、なぜ熊吉はこんなところに居たのだろう。彼の近くには色とりどりのクレヨンが散らばっている。
「つむぎちゃんの絵を描いたよ」
見せてくれたのは私が木のそばで目を閉じている姿だ。私の絵を描いていたのは分かったが、こんなに近づく必要は無いように思えるのは私だけだろうか。
一緒にクレヨンを拾い終えると、何事も無かったかのように私の膝にちょこんと座り新しいページに絵を描き始めた。小脇に抱えた人形もいつの間にか懐に潜り込んでいた。最初に会った時も思ったが、この人形を修理しないのだろうか。目をかたどっているボタンが一つ取れてしまっている。
「熊吉」
「なに?」
「この人形の目はどうしたの?」
「壊れたから捨てられちゃったんだ」
手を止めることなく答える熊吉は淡々とした様子。子供らしくないというか、冷静すぎるようにも思える。このくらいの歳の子供なら、壊れたおもちゃを見れば泣きだしてしまうと思うのだが、大人びている。頭を撫でるとくすぐったそうにするのはまさに子供らしいのだが。
「ねえ、もしこの人形に目をあげたら怒る?」
「目をくれるの?」
「同じ色じゃないけど、似たような大きさのボタンがあるから。どうかな」
「嬉しい。どんな色?」
「黒色なんだけどいいかな」
今ある目は茶色。やはり色が違うとちぐはぐに見えるだろうか。何か考えている熊吉からの返事が無い。この人形の片方の目が黒かったらどんなふうになるのか想像しているのだろう。
しばらくして彼の視線は私に向いた。人形と似た色の大きな目が私を映している。そして、人形を見つめると私に差し出した。
「黒色でいいってことかな?」
「うん」
「じゃあ、待ってて」
最初の日着ていたワンピースのボタンはこの人形にちょうどいい大きさ。部屋のハンガーに掛けたまま、ここでは一度も着ていなかった。ボタンが一つなくなったくらいで着られなくなるわけじゃない。熊吉が喜んでくれるのなら、私も嬉しい。
部屋の前に着くも、熊吉は私の後ろをついて来た。待っていてと言ったのが聞こえていなかったのか。まあ、ここにいても問題は無いのだが裁縫の腕前はいい方ではない。
あまり見られたくないのだが、追い払うなんてことは出来ない。ここは覚悟を決めるしかないようだ。手際よく出来そうにないが、丁寧に作業しよう。彼の大切なものに触れるのだ。中途半端ではいけない。
裁縫道具を探し、棚の引き出しを開けると一番上に置いてあった。これは立派なものだ。はるか昔の記憶を辿り、手順を思い浮かべる。ワンピースのボタンにハサミを近づけると、熊吉は私の服を掴む。
「本当にいいの?つむぎちゃんの大切なお洋服が」
まさか洋服のボタンを使うのだと思っていなかったのだろう。心配そうにワンピースを見ている。
「熊吉がこのワンピースを大切に思ってくれているように、私も熊吉のお人形を大切に思ってる」
特別にお気に入りという訳ではないが、よく着ていた。確かに思い出はあるが、それ以上に熊吉に喜んでほしい。
「貰ってくれる?」
「うん」
その返事に一番上のボタンの糸を切る。目の位置を何度も調整して、糸切りばさみで仕上げをする。時間をかけたおかげで、売り物のようにはならなかったがいい出来栄えだったと思う。
熊吉に見せると、今まで見たことも無いような顔を見せてくれた。
「つむぎちゃんとお揃いだね」
私の横に熊の人形を掲げ、見比べる。さっき、熊吉が私を見ていた理由が分かった。私と同じ目の色をした人形を想像していたのだろう。
そしてそのことに喜んでいる。もう、抱きしめないわけにはいかない。両手でぎゅっと小さな体を包み込むと、「ありがとう」と小さな声が届いた。
お返しにと渡してくれた絵は私の部屋の壁に飾った。熊吉はさやかに人形を見せたいようで、走って部屋を出て行ってしまった。百点満点の出来ではないのだが、心を込めた。
それが何の役に立つのかは分からないが、誰かに見せたくなると思ってもらえたのなら無駄ではなかったのだろう。
熊吉の絵を見ていると、窓ががたがた音を立てる。風が強くなったのだろうか。外を見ると、陽が傾きかけている。伯爵との約束がもうすぐそこまで来ていた。
慌てて向かうが、場所を変更した方がいいかもしれない。風が強く吹いていてはゆっくりお茶なんて出来ないだろうから。そう思い、お茶の用意をし、零れないように玄関に向かうとひとりでに扉が開いた。
「行ってらっしゃいませ」
振り返るもそこに誰の姿も無い。その声は私がこの玄関を通るたびに聞こえる。どこから聞こえるのか誰の声なのか分からない。
それでも私に向けられた言葉だということは分かるから、「行ってきます」と独り言のように小さく呟くももう声は聞こえてこなかった。
急ぎながら、それでも慎重に待ち合わせ場所に行くと風は穏やかになった。さっきのは突風だったのだろう。予定通りに出来そうだ。一安心したが、ハーブティーをうまく作ることに気を取られすぎて、軽食の準備をするのをすっかり忘れていた。
今から作るなんて出来ない、どこかで買おうにもお金が無いしお店がどこにあるのかも分からない。そもそもそんなお店があるかどうかも知らない。
せっかく日を改め、昨日よりもいいものにしようと意気込んでいたのに大して変わらないじゃないか。ため息が出るも、がっかりしてはいられない。
もう少しで伯爵がやってくるのだ。楽しんでもらいたくて用意した。その主催者である私が肩を落としていては彼が楽しめるわけない。
よしっと気合を入れるように頷いた時、伯爵がやってきた。
「お茶会の会場はこちらかな」
私の送った招待状を手に、微笑む伯爵は籠を持っていた。あまりの大きさに釘付けになっていると、恥ずかし気に笑う。
「張り切って作りすぎてしまったよ」
開かれる籠にはクッキーにマドレーヌ。マフィンやサンドウィッチまで所狭しと詰められていた。
また、伯爵に助けられた。私が喜んでもらいたくてしたことなのに、伯爵に助けられてばかりだ。私一人では、彼に感謝の意を込めてもてなすことも出来ない。
これでは駄目だ。さっき気合を入れたはずなのにもう、どこかから抜けてしまっている。どこに穴が開いていたのか今は探している暇はない。
こんなに美味しそうなものを用意してくれたのだ。それに合うように私もとっておきのハーブティーを淹れよう。昨日の夜も練習した。だから心配いらないはずなのだが、手が震える。
ティーカップを割る以上に酷いことは起きないとは思うが、どうも震えが収まってくれない。
伯爵を盗み見ると、幸いこちらを見ていないようだ。
鮮やかな夕焼けが伯爵の視線を逸らしてくれているうちになんとか出来上がった。ほんの数分のことだが、蒸らす時間はとてつもなく長く感じた。
恐る恐るティーカップを手渡す。今日は無事伯爵の手に届いた。安堵したのもつかの間。一番大事な味の感想が待っている。
「お味はいかがでしょうか」
「美味しいよ」
ただ単純な一言。けれど、その一言が何よりも報われるものだ。いろいろ後悔や失敗をしたけど、この言葉が聞けた今そんなことは霞んでいた。
そう言えば、私はちゃんと伯爵に伝えられているだろうか。いつも作ってくれている食事を当たり前に感じてきている。
「伯爵お手製の食事も美味しいです」
「ありがとう。凝った甲斐があったよ」
形もそろっているし、色どりも鮮やか。特にこのいちごタルトの美味しさは表現のしようがない。見栄えはもちろんのこと、味は苺の酸っぱさをかき消さないようにと計算されたカスタード。香ばしく焼かれたタルト生地はさくさくで、口の中で甘さを広げる。
伯爵は相当な凝り性とみた。服だってそうだ。一見地味に見える黒いタキシードだが、ポケットチーフを引き立てている。いつも違う色だ。いったい何枚持っているのだろう。
私が想像した伯爵の部屋は、ハンカチで埋もれていた。実際、整った部屋なのだろうが。隅々まで掃除されて整理整頓してあるに違いない。
私とは正反対だ。気が付くとなぜか散らかっている。掃除が苦手な分、物を増やさないようにして入るがどうしても駄目だ。ここでも散らかしっぷりを発揮していたが、部屋に帰ると不思議と整っているのだ。
ワンピースやら裁縫道具やらで散らかしてきた部屋は、今日もひとりでに片付いているに違いない。
「ところで、この便箋の花は君が描いたのかい」
「はい」
手紙というものは、本人を目の前にしないからこそ書けることもある。それなのに伯爵は、封筒から取り出しまじまじと見つめる。
見る分には一向にかまわないのだが、今はやめて欲しい。やはり手書きの花は余計だったかもしれない。そのまま使えばよかった。
「とっても綺麗だ」
褒められるとは思っていなかったので、恥ずかしいのだがその上をいく嬉しさでにやけてしまう。最後まで描こうかどうか迷ったが、描いてよかった。
真っ白の便箋は招待状にしては殺風景だと思い、駒助の庭にあるラベンダーを描いた。白い便箋に紫色の花はよく映える。綺麗な色のクレヨンを貸してくれた熊吉に感謝しなければ。
「君はたくさんの思い出をくれるね」
「それは私の台詞です」
「同じだね」
私の皿に追加のサンドウィッチを取り分けながらさらっと口に出された言葉だが、私の心を直撃した。大した言葉ではないのだろうが、嬉しかった。
私が貰ったものを、同じだけ返せているような気がしてくる。形に残るものだけが思い出ではないことは分かっている。けれど、何か形にしたいと思う気持ちがどうしても先に来る。
記憶も物もいつか色褪せるのが自然のことなのだが、それでもなんて願うものだ。いつまでも招待状を眺める伯爵の姿は、しばらくの間は記憶のほとんどを占めることになるだろう。籠の中の食べ物を全部食べたせいで、夕飯は入らなかった。