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伯爵の隣

 小雨の日は、曇り空色よりも落ち着く。降り注ぐ雨の音は優しく私を呼んでいるよう。誘われるまま玄関へ行くと、ちょうど傘が用意されていた。雨が降ると誰かが用意してくれている。

 一本しかないが、少しの間借りて行こう。ぬかるんだ地面に滑らないように下ばかり見ていたものだから、伯爵の足が見えるまで気づかなかった。

「下ばかり見ていると危ないよ」

「ごめんなさい」

「謝る必要は無いよ」

「すみません」

 反射的に出てきた言葉は謝罪だった。謝らなくていいと言われているのに。染みついた口癖はそう簡単に消えるものではない。もう一度呟いた声に彼は呆れもせず、手を差し出してくれた。

「今散歩中なんだ。一緒にどうかな」

「はい」

 彼は疲れてしまうことは無いのだろうか。いつも人を気遣い先回りしてくれる。こんなこと進んで出来る人なんて見たことが無い。いたとしてもほんの数人だ。そしてそのヒーローみたいな人は、必ず私の前には現れてくれなかった。

 

 助けられた誰かを羨ましく思う。暗い谷底から差し伸べられる手はどんなだろう。苦しい時を過去の物に出来ている彼らの未来は楽しいのだろうか。私は知らない。いつか来ると信じていたその日はまだ来ないから。

 ずっと待っていた。どこからともなく現れた手が助けてくれる時が来ることを。けれど、もう待つのは止めた。期待するだけ苦しくなる。それなら期待しない分苦しみは減る。

 この先抜けられない暗闇に居ることを覚悟すれば、多少この痛みはましになる。もがけばもがくほど、体は沈んでいく。


 息が苦しいのに何も感じない。感覚が薄れていく日々。昨日のことも、もうずっと前のことのように思えて仕方がない。巻き戻し思い返していくとふと思う。私は本当にここに存在しているのかと。自分の存在さえ曖昧になるのだ。昨日のことなど覚えていられるはずもない。

「見てごらん」

 伯爵の声は私の視線を上へと向ける。そこには何もない。濁った色の景色が続くだけ。

「いい天気だ」

 どうして伯爵の言葉はこんなにも沁みるのだろう。乾いたスポンジに雨が吸い込まれていく感じ。何の意味も持たない言葉。けれど、ずっと忘れないでいたいと思った。叶わぬ思いかもしれないが、授けられた温もりだけは覚えていたかった。


 それを忘れなければ、変われる気がした。誰かに寄り添えるように、伯爵のように強くありたい。それは独りよがりの善行ではなく、ただ他者を思う心。

 身勝手な優しさ程迷惑なものは無い。いっそ見ない振りでもしてくれと思う。けれど、伯爵は違う。変に元気づけようともしないし、正論で突き刺したりもしない。正しく人に優しくありたい。

 それがどれほど難しいことかは、身をもって知っている。だとするのなら、伯爵はいったいどれほどの苦しみを受けてきたのだろう。その優しさの裏にはいくつの傷が隠れているのか。


 それは決して他者には推し量ってはいけないもの。どれだけ寄り添っても、理解しようとしても知りうることは出来ない。少しでも量り間違えようものなら、顔を合わせてはもらえないだろう。

 視線を感じ、傘を上げるとまたもや伯爵の観察が始まっていた。嫌ではないが、どこか心配な表情で見つめられると困ってしまう。彼の目を逸らしたくて、話を作る。

「あの……、伯爵」

「なにかな」

「ここって、よく雨が降りますよね」

「晴れていることに歓喜するものはあまりいないからね」

「伯爵も雨はお好きですか」

「そうだね。太陽が照っていては、こうやって散歩も出来ないからね」

 ひょいっと水たまりを飛び越える様子はまるで子供のよう。その長い脚では飛び越える必要は無いように感じるが、なんだか楽しそうだったので私も真似をした。

勢いよく飛んだのが災いした。私の左足はぬかるんだ地面には一歩及ばず、水たまりに着地した。その拍子に大きなしぶきを上げ、伯爵のズボンを汚してしまった。

「これまた派手に跳ねたね」

「ごめんなさい」

 いくら優しい伯爵でもこれは怒るだろう。きっと私なんかには手の届かない程高価な代物に違いない。貯金残高は、節約をしながら生活するには少なくはないが多いわけでもない。


 早急に就職先を探さなければと思うも、この場所に仕事はあるのだろうか。伯爵は常に屋敷にいるようだし、住人以外の人の姿は見当たらない。

 いろんなことをなあなあにしてきたが、不思議な点が多すぎる。知りたいことはたくさんあるが、まずはお金を稼ぐ方法だ。

「あの、その服、クリーニングか弁償したいので働く場所って教えてもらえたりします?」

 冷たい声を覚悟で伺い見ると、おかしそうに口元に手を当てて笑っていた。私はおかしなことを言った覚えはない。自分がしてしまったことへの代償を払おうとしただけなのに。何がそんなに面白いのか、彼はいっこうに笑い止まない。

 

 笑われているにも関わらず、悪い気がしないのはその笑い方が上品だったからだろうか。それとも、子供をあやすように頭を撫でられたせいかは分からない。

「悪いね。君はずいぶんと真面目だと思って」

「普通じゃないですか」

 自分の失敗の尻拭いをするのは当たり前のこと。伯爵は驚いたような顔をしている。

「そうかい。だが、弁償なんてしなくていいよ」

 ふっと笑うと、伯爵は傘を閉じ水たまりを気にすることなく歩き出した。

「余計汚れてますけど、大丈夫なんですか」

「楽しいから問題ないよ。だから、安心しておくれ」

 ずぶ濡れになっても歩く姿は様になる。ふいに立ち止まり仰ぎ見る空には何が見えるのだろう。彼の見ている景色が知りたくなり、私も傘を閉じて見上げた空は初めての景色。真下から雨を見上げるなんてしたことが無かった。傘を打つ雨の音もいいものだが、これもまた悪くない。


 元居た場所で雨の日に傘を差さず空を見上げていたら、不審な目で見られるだろう。だが、ここにはそんなこと気にする必要は無い。雨がしみ込み服が重たくなっていく。けれど、こんなにも自由に思えたのは初めてだった。

「何かあればいつでもここにおいで」

 唐突に言われるものだから反射的に「大丈夫です」と言ってしまった。私は浮かない顔をしていただろうか。心の奥底を読まれている感覚に居心地の悪さを感じつつも、どこか安心した。


 いつの日か奥底に隠した言葉を言える時が来るだろうか。それは自分次第だということは重々承知ではあるが、簡単にはいかない。隠したその場所をまた隠す。そして、自分でさえもその本音がどこにあるのか分からなくなるのだ。

 そんな言葉たちを伯爵は一緒に探してくれるように、言葉を紡ぐ。一人ではできないことでも、彼と一緒なら、いや彼なら探し出してくれる気がする。

 いつまでも降り止まない雨が、彼の背中を少しだけ小さく見せた。いつも守られてばかりいる。だから、いつかその感謝を返そうと決めた。


 屋敷に戻るとすぐに風呂で温まるようにと言われたが、湯船に浸かるのは面倒だ。今までもシャワーで済ませてきた。このくらいでは風邪なんか引かないだろうと、さっさと出ようとすると誰かが風呂の戸を開けた。

 まさかとは思うが伯爵が入ってきたのだろうか。恐る恐る振り返ると、両手に何かを抱えたさやかだった。

「もう上がろうとしてたでしょ」

「あー。まあ……」

「駄目じゃない。ほら、こっち来て」

 手を引かれるも、気分が乗らない。なにせこっちは風呂の最中。服なんか着ていないのだ。それに比べて彼女は服を着ている。居心地が悪くて、すぐに脱衣所に行きたくて仕方がない。


 いったい何をしに来たのだろうと見ていると、手に持った桶を湯船も上でひっくり返した。ひらひらと舞い落ちる薔薇の花弁は、湯気の中でも色鮮やかに揺らめく。彩り豊かな浴槽は入りたくなる衝動をくすぐる。

「入りたくなるでしょ」

 これは伯爵の差し金だ。やはり私が湯船に浸からないことを見透かされていた。それにしても綺麗だ。背中を押されるまま、湯船に浸かるといい香りに包まれる。こんな豪華な入浴の時間を過ごしたことは無い。

「気持ちいいでしょ」

「うん」

「時々、用意してあげるわ」

 そう言い残し、風呂場を出て行った。お風呂というものは、こんなに少しの工夫で優雅な時間へと早変わりする。温泉はともかく、家の風呂場は汗を流すだけの場だと思っていたがこうも違う。

 ここの風呂場がもともと高級感溢れる造りということもあるのだろうが、癒される。深いため息は悲壮溢れるものではない。腹の底にたまったものを吐き出せたように、体がふっと軽くなった気がした。 


 なんだか眠たくなってきた。ちょうど湯がぬるくなり始め、さらに眠気は加速する。このままでは本当に眠ってしまいそうだ。肩まで浸かっていたお湯から抜けると、少し肌寒かった。

 髪から水滴は滴るが、服を着てしまおう。放っておけば乾くだろうと脱衣所を出ようとすると、またもやさやかによって逆戻りさせられた。

「はい、そこに座って」

 促されるまま洗面台の前の椅子に座ると、勢いよく頭を拭かれる。さやかからは逃げられそうにないと確信し、されるがままになった。

「体も心も癒されるでしょ」

「うん。あんなお風呂、初めて入ったよ」

「休むことは大事なんだから、疎かにしないこと。いいわね」

「はい」

 しっかり乾かされた髪は軽くて、歩くたびにいい香りが広がった。さやかはまるでお姉さんのような存在だ。なにかと気にかけてくれる。時々伯爵に頼まれてきたのではないかという時もあるけれど、やらされている感じではないのが分かるので余計嬉しい。

 

 穏やかで優しくて、日傘を差し佇む姿は絵になる。その姿は美しいのによく持っているのを見かける紺色の傘はくたびれたように見た。それでも使い続ける辺り、気に入っているのだろう。何か言ったりはしないのだが穴が、開いていて本来の役目を果たせないのではなかろうか。

 そう言えば、部屋にポケットに入れっぱなしのまま持ってきた便箋があったはず。いつでも退職届を出せるように携帯していた。確か和紙でできたいいものを買っていた。


 部屋に戻り確認すると、彼女の傘とはほど遠いが確かに和紙だった。それにしても、なぜ和紙の便箋なんか買ったのだろう。退職届けなんて安い便箋でも問題ないのだが、変なところにこだわる癖は昔から変わらない。まあその性格が役に立つかもしれないなら、今はいいだろう。

 屋敷中を駆け回り、さやかを探すこと五分。図書室で熊吉に読み聞かせをしていた。

「何か御用?」

「うん、これを渡したくて」

 何も書かれていない紙切れ一枚渡されても何のことか分からないだろう。受け取ってはくれたが、便箋を見て不思議そうにしている。

「傘の修理に使えないかと思って」

「そういうことね」

「さやかさんの傘に合うといいんだけど」

「これ、ぴったりね」

 何がぴったりなのかは分からないが、次の日見せてくれた傘には小さな花が沢山咲いていた。穴が開いた部分を埋めるように散りばめられたその花は、あの便箋だったものとは思えない程に綺麗だった。白い花は紺色によく映える。

「さやかさんは器用だね」

「ありがとう」

「これは何の花?」

「鈴蘭よ。つむぎちゃんに貰ってすぐに思いついたの」

 くるくると回し、私に見せてくれる。本来の役目を果たすことが無かったけれど、これで良かったのかもしれない。捨てられるだけの運命だった便箋をこんなにもいきいきさせてくれた。


 ここでの生活がだいぶ慣れた頃、いつものように屋敷の周りを散策していると小さな畑を見つけた。ひっそりと隠れるようにあるその場所はどこか隠れ家のように思えた。

 誰のものなのかは知らないが、ここで誰かに会うことは無い。まあ、こんなに広いのだ。皆が各々に行動していれば、待ち合せない限り会うことは少ない。


 畑はいつも丁寧に手入れされている。白い花びらの花や見たことのある紫色の花もある。ラベンダーだっただろうか。そのほかにも何の植物かは分からないがいい香りがしてくる。

「ここに何か用か」

 一人過ごす癒しの時間は終わりを告げた。恐らく足音はしていただろう。駒助の下駄の音なら誰よりも響くはず。植物を眺めていただけなのに、気付けなかった。ばれなければまたここに来られたのにと残念に思いながら去ろうとすると、止められた。

「用があったんじゃないのか」

「たまたま寄っただけだから」

 もう少しここに居たかったが、駒助は少々苦手だ。

「ちょっと待ってろ」

 そう言うなりどこかへ行ってしまった。もしかしたら気を使わせてしまっただろうか。彼の場所だというのに、私が追い出してしまったようだ。どうしようかとうろうろするも、どこへも行けない。

 待ってろと言われたのなら待っているしかない。勝手にどこかへ行けば、彼は私を探すかもしれないし何か用があるかもしれない。

 彼が戻ってくるまではここに居るしかない。そもそも戻って来るかどうか分からないのだが。


 そうこうしているうちに駒助は戻ってきた。いろいろなものを抱えて、今にもバランスを崩しそう。案の定、彼の腕の中から何かが転がり落ちた。慌てて駆け寄り受け止めると、にやりと笑った顔をした彼と目が合った。

「そんな慌てなくても割れねえよ」

 手のひらにあったのは紛れもないガラス製のティーカップだった。それなのに余裕の表情なのはなぜだろう。

「あんたなら拾ってくれると思ってたぜ」

 そう言って笑う表情は何とも言えない。なんだか試されたような気もするが、楽しそうなので気にしないことにした。それにしても私が拾わなかったらどうするつもりだったのだろうか。

 まあ私の中に拾わない選択肢が無いのだが、間に合わないことも考えられた。それでも、こんなに私を信じてくれる程仲がいいとは思えない。

 もとよりあまり話をしたことは無い。挨拶を交わすくらいの間柄だというのに。そう思っていたのは私だけだろうか。黙々と何かの準備をしている。


 地面に布を引き、その上にお茶会でもするかのような道具たちを並べていく。私はいつまでここに居ればいいのだろうか。

「ほら」

 差し出されるカップからはいい香りが漂う。反射的に受け取ったが、私はこのお茶会に参加してもいいということだろうか。駒助を伺い見ると、顎でくいっと促された。さっさと飲めということだろう。よく分からないまま口をつけると、やさしいけれど華やかな香りが広がる。

「うまいか」

「うん」

「ラベンダーのハーブティーだ」

 ハーブティーなんてお洒落なもの初めて飲んだ。

「もしかして、この畑は駒助が手入れしてるの?」

「そうだ。意外だったか」

 うんと言いそうになったが止めておいた。


 思いのほか美味しかったハーブティーを私の一言で台無しにするわけにはいかない。だが、お世辞も言えないので差し出されたクッキーに手を伸ばし頬張った。

「これも駒助が?」

「いや、これは伯爵製。勝手に持ってきた」

「そうなんだ」

 悪びれもせずいうものだから、そういうものなのだと思ってしまった。まあ、伯爵が作ったものだと知っているあたり仲がいいのだろう。

「だから、あんたも共犯だな」

「え?」

 思いがけない言葉に喉を詰まらせた。流し込みたいものの、せっかくの美味しいクッキーとハーブティーにそんな失礼なことしたくはない。むせながらもなんとか飲み込み一息ついた後で、一口飲んだ。

「慌てすぎだって」

「だって、駒助が変なこと言うから」

「伯爵は怒ったりしねえよ。もとよりあんたのために作ったものだろうし、問題ないだろ」

「問題は無いが、僕が渡したかったのだけど」

 振り向くと、伯爵がすこししょんぼりした様子で立っていた。どうしてここに居る人たちは足音が小さいのだろう。駒助の場合は私が考え事をしていたせいもあるか、伯爵は本当に足音がしない。

「すみません」

「謝らないで。それより口に合ったかな?」

「はい。美味しいです」

「その顔が見られたならいいだろう」

 くすっと笑い、私の口元から食べくずを払う。いつもの様な仕草に慣れては来たが、駒助の前では恥ずかしい。案の定、お得意のにやけ顔で見られてしまった。


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