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伯爵の手のひら

 早起きはよく推奨されるが、あまりに早いのも考え物だ。何もすることが無いと、また余計なことを考えてしまう。思考が支配される前に、体を動かして制御するのが一番いい。

とはいえ寝起き早々に走り込みは出来そうもない。そもそもぬかるんでいることの方が多い地面では,

歩きでさえ靴を汚してしまうだろう。


 思いついのは一つの場所。屋根裏からつながる階段は外に繋がっている。そこを上ると屋根の上に出る。ここは私のお気に入りの場所だ。熊吉とかくれんぼをしている時にこの階段を見つけた。

その時は熊吉に見つかってしまったのでどこに繋がるかは分からずじまいだった。後日改めて行ってみると埃まみれになっている場所からは想像できないほどに綺麗な景色が見えた。

 ちょうど太陽が昇る前。まだ誰も起きていない時間は特等席だ。恐らくこの場所は誰も知らないだろう。何度も来ているが、まだ誰とも会っていない。伯爵を除いてだが。


 彼とは誰よりも多く会う。他のものたちとは会わない日があるのだが、伯爵とだけは会わない日が無い。今日も、一人夜明け前に暇を持て余した私の隣に現れた。

「お隣、いいかな」

「どうぞ」

 ここは伯爵の家だ。そんなこと聞く必要なんて必要ないのだが、毎度許可を取ってくれる礼儀正しさが好きだった。

「この時間は小腹が空くね。朝食前にクッキーでもいかがかな」

「いただきます」

 差し出された籠にはハートやらクローバーやら可愛らしい形のクッキーが並んでいる。一つつまんでかじると、バターの味が口いっぱいに広がる。

 すこし甘すぎやしないかと思うも、美味しいので何個でも食べられそうだ。きっと、こんなに気持ちのいい朝は無いだろう。それなのに浮かない気持ちになるのは夢のせい。


 嫌な夢を見た。ただ仕事をしているだけの夢なのだが、嫌で仕方ない。そんな夢を見た日には一日中重たい気持ちを引きずりながら生活することになる。ここへ来て、夢なんてほとんど見なかった。

 それなのに、急に出てきた夢はまさに悪夢。うなされるように起きると、走っても無いのに心臓が鼓動を早め、手は小さく震えていた。

 眠って忘れようと思ったのだが、また同じ夢に戻ってしまったらなんて思うと眠れなくなり、ここへ来た。夜風がまだ残るこの場所なら、冴えた頭を鈍らせてくれると思った。

「辛いことを思い出しながら食べるお菓子は美味しいかい?」

 私の考えていることがどこからか漏れていたのかもしれない。手を止めることなく、口に運んでいた私の姿に心配をさせてしまった。

 それでもなお手を止めないでいると、伯爵の手で制止された。籠を見ると、クッキーはほとんど残っていなかった。こんなに食べていたのに、あまり味がしなかった。


 最初はちゃんと甘く感じていたはずなのに。伯爵の作ってくれるご飯は美味しいし、このクッキーもいい香りがする。だけど、食べている感覚が無い。それは彼のせいではない。私自身の感覚が鈍っただけなのだ。だから、伯爵が心配する必要な何もない。私にとっては珍しいことじゃない。よくあることなのだから慣れたものだ。


 仕事をしている時の、昼食はいつもこんなだった。仕事なんて手を抜けばいい。それは人生の全てではないから。失ったところでダメージなどないはず。

 何度もそう言い聞かせてきた。それでも、思い切って辞めることが出来ないでいた私は、ずるずるとここまで来てしまった。


 頑張っても認めてもらえないなら、頑張っている振りをすればいい。あからさまに見せつければいい。私はこんなに頑張っていますと示せばいい。どうしてだか、振りをしている方が褒められる。それは世界そのものだ。見える物しか評価されないのだ。

 それでも伯爵は私の心に気付いてくれた。けれど深く入り込もうとせず、今隣に座っているようにそば寄り添う。そんな気遣いが分かるから、逃げてしまいたいのにもう少しだけこの時間が続いて欲しかった。


 何を話すこともなくただ過ぎていく時間は、長く続いた。夜明けはまだ来ないよう。「焦る必要は無いよ」とそっと肩に触れるものだから、涙が零れそうになった。まだ暗い空は私の姿を包んでいる。

 伯爵なら見ない振りをしてくれるだろう。それでも、弱さを晒せるほど強くはない。だから今日も、いつものようにきつく唇を噛んだ。


 泣けない心は苦しいのだが、隣に誰かが居てくれることに救われている。その隣で声を上げて流れる涙を拭うこともせず泣けたらなんて考える。そんな日は来ることは無い。だから想像することは許してほしい。 

 隣にいる伯爵が優しくそっと拭ってくれる手はどんなだろう。知ることは出来ないだろうが、きっと木漏れ日よりも月明かりよりも暖かい。寝ても冷めない温度をくれるに違いない。肩に残る大きな手は、彼の作るスープと同じくらい暖かかった。


 今日も朝早くに目が覚めた、と思う。正直なところ朝か夜かなんて空の色では判断がつかないことが多い。時間が経つにつれて明るくなれば朝。暗くなり星や月が煌めいて見えたら夜。

 そんな感じで判断するしかない。時計はあるけれど、いつからか針は微塵も動いていない。きっと壊れているのだろう。直すべきなのだろうが、私はこのままがいい。


 時間を気にすることなく過ごすというのは、こんなにも気楽なものだとは思わなかった。仕事をしていた頃は時間に追われる毎日。家を出る時間がまだ来ませんようにと願ったり、仕事中には終わらぬ業務に焦り何度も時計を確認する。

 淡々と進むあの秒針がとても嫌だった。私の気も知らず、規則的に音を立てる。まるで私を急かすように時を進めているように思えた。


 窓を開けると、遠くでさやかが見えた。傘を差し、緩やかに歩いている。その優雅な後ろ姿に引き寄せられ、私も急ぐように庭へ出た。

 朝の散歩は悪くない。まだ明けない朝は少しだけ冷たくて気持ちがいい。このまま時間が進まなければいいのに。陽が向こうの方から昇ってくるのが見える。また今日がやってきてしまった。うなだれる私の姿を見つけると、さやかはそっと傘の中へ招いてくれた。深い紺色の傘はまるで夜の中にいるようだった。


 さやかと別れたが、朝食の時間にはまだ早い。自分で用意すればいいのだが、伯爵が作った方が何倍も美味しい。同じ手順でやっているはずなのにどうしてこんなにも違うものかと思うほど。

 何度か試してみたが、うまくいかなかった。料理は苦手ではないはずなのに、なぜか美味しくならないのだ。料理は気晴らしになるが、今はそんなことは必要ない。

 それにどうせ食べるのなら美味しい方がいいに決まっている。お腹は空いたが、昇る太陽を眺めながらもう少し待つことにした。


 お腹が満たされると心までとは言わないが、一時の満足は得られる。いつしか食事の香りが漂うと、皆が集まるようになっていた。もちろん今までの食事は文句の付け所が無かったが、賑やかな食卓はさらに美味しさを加速させる。

 一番乗りなのはもちろん烏。フライング気味だが、それといい勝負なのが駒助だ。そして駆け足の音と共に熊吉が。その後で優雅に顔を出すさやか。そして、両手いっぱいに食事を抱え厨房から出てくる伯爵。

 

 背後から聞こえる鈴の音にはあえて振り向かない。一度その音に振り返ってしまったことがある。すると激しく鳴る鈴の音がみるみる遠ざかっていった。

「追いかけてやるな」

 駒助は席を立った私を制止した。それでも去って行った獅子舞が気になって仕方がない。本当はここに居たいのではないだろうか。私がいることでここに入れないのなら、すぐにでも出て行く。ここは居心地の居場所だが、誰かから奪って手に入れたものならそれは望んでいたものではない。

「私がいるから……」

「それは違うよ。時が来れば姿を見せてくれるから」

 伯爵になだめられるように、席に戻された。


 食事の後の時間は不自然なほど静かだ。もとより耳を塞ぎたくなるような騒音は無い。それだけに、先ほどの賑やかさから抜け出した空間の静寂は不安を呼ぶ。自分の靴音がやけに大きく響いて仕方ない。

 私はいったい何をしているのだろう。突如として現れた疑問は頭の中を汚していく。誰かに喜ばれることが出来ただろうか。なにかの役に立てただろうか。否という答えに自分の存在が消されていく。


 もう少し気の利いたことが言えたらよかった。あの言葉は言わなければよかった。頼まれた匙をもっと丁寧に渡せばよかった。思い返しても何の役に持たない後悔に溺れてしまいそう。だが、今に始まったことではない。今までだってそう変わりはない。


 振り返った人生に輝く物は何もない。焦がれ夢中になるものも無ければ、駆け抜け目指すものも。道になるほどこの一歩は重たくないのだろう。

 望む理想に努力する人たちを見ても、羨ましさを感じるほど元気ではなかった。あんな風になれたらなんて思う日もあったけど、私には向いていないと気付いた時、未来を手放したような気がした。


 ただ、流されるままにここまで来てしまった私にはそれがお似合いだ。この場所もまた、思い出すこともない通過点に過ぎない。ふいに涙が零れてきた。悲しいわけではないのに、溢れて止まらない。

 伯爵に会いたくてたまらなくなった。慰めて欲しいわけではないし、心配して欲しいわけでもない。ただ、そっとそばに居てくれる彼に安心したかった。

「何かあったのかい?」

 私の願い通り、彼はすぐそばの厨房からやってきた。なのに、「大丈夫です」と突き返すように背中を向けた。どうして私はこうも我儘なのだろう。本当に自分が嫌になる。胸にたまった話を聞いてもらいたいだけなのに、そんな簡単なことが出来ない。


 声にならない言葉は、いつもの様に消えていく。取り戻そうとしても、もうどこにあるか分からなくなり、焦りだけが残っていた。

「焦らなくてもいい。ゆっくりでいいから」

 そう言われればさらに焦りが加速する。これ以上迷惑かけないようにと思うけれど、言葉が出てこない。だから人と話すのは苦手だ。考えることが多すぎて、言葉が追いつかない。言葉にする前に、考えは次へ次へと行ってしまう。楽しそうに話す人たちを羨ましく思う。私も同じように出来たら楽なのにと。

「僕は君意外の人は知らない。比べる理由はないよ」

 気付かぬうちに心の声が漏れてしまっていたのだろうか。ついうっかり口をついて出てしまったのだろう。

「君は立派な人だ」

「褒められても、嬉しくなんかないです」

 褒められるのは好きではない。大抵その内容は間違っている。汚い部分を隠した面しか見ていない。あえて見せている部分を全てと勘違いしている。だから、私は褒められるべき人ではないのだ。

「自分で自分を許せないのは辛いね」

 伯爵は自分を責めるようなことがあったのだろうか。その声はいつもと違い、少しの闇を纏っていた。彼の痛みは私には分からない。

 その傷はどれほどの大きさか、どれほどの深さか。他人に推し量れるようなものではないけれど、考えてしまう。少しでも癒せる方法はないのだろうか。


 ふと思い悩んだ顔をする彼を見るたびにそう思う。癒せないにしても何か手当てをする方法はあるはずだと。観察してみるも、私といる時はそんな素振りは一切見せない。

 けれど、私は人を心配させない方法をひとつ知っている。きっと伯爵も安心してくれるだろう。そう思ったのに、返ってきた言葉は誰からも聞いたことのない言葉だった。

「笑いたくないならそれでいい。泣きたいなら隠さなくていい。お腹が空けば好きなだけ食べればいい。起きたくなければ何度でも眠ればいいし、眠りたくなければ一緒に明けぬ夜を過ごそう。ここはそういう場所だ」

「でも……」

「君の好きなようにしていい。ここには責める者も批判する者もいない。安心しなさい」

 彼の言う通りだ。嫌な思いをしたことは無い。私を暗闇に突き落とすのはいつだって自分自身だ。自由になりたいと、楽になりたいと思っているにもかかわらずこの体を鎖でがんじがらめにしていたのだ。そんなことではどこに身を置こうが動きずらいに決まっている。


「この世界は君のためにある」

 そんなふうに考えたことなかった。きっとこの世界は誰かのために回っていて、私はその誰かのために動いているのと。幸せそうな誰かをみて、鏡に映る自分と見比べ続ければそうも思ってしまう。

 次にそこに居るのは私なのだと思いながら通り過ぎていくスポットライトを横目に、自分からも目を避けてしまうようになった。どこにも存在しなくなった私は、見知らぬ誰かを引き立たせる名も無き登場人物だと思った。


 誰かが笑ってくれるなら、自分は我慢を強いられたとしても構わない。無理やり笑って、それが救いになったと言われたのなら不貞腐れた顔なんかできやしない。だから、いつも誰かのために笑っていた。涙が零れそうになった時でも。

「出来事が起こった時、分かれ道が見える。例えば人に嫌なことをされた時、同じことを他者にするのか。他者に同じ思いをさせまいとするのか」

「僕は知っているよ。君がどちらを選んできたか。どれほど苦しんできたか」

 どうしてこんなにも涙が止まらないのだろう。せっかく押し込めたのに。私は嬉しくて仕方ないのだ。


 こんなこと誰にも分からない。気付いてももらえない。それが当たり前だった。そうは思っていても、誰かに気付いて欲しかったし、褒めて欲しかった。これではまるで子供だ。大人と呼ばれる年齢になっていても、中身は親の気を引きたい子供のまま。

 けれど、それが素直に出来ない。これが大人の悪いところだ。子供だけど、大人を演じる私を彼は否定しないでいてくれた。

「大人だから。仕事だから。それは君が心を殺す理由にはならないよ」

「そうはいっても、出来ませんよ」

「君は真面目だね」 

 その言葉は聞き飽きた。いつだって人は私にその言葉をかけてきた。「さぼりもせずすごいね」と言われることも多かったが、それは私にとってあたりまえのことだった。

 私に言わせてみれば、さぼる方がすごい。私だったら、後に来る罪悪感に押しつぶされるだろう。だというのに、次の日も平然とした顔でさぼっている人たちがいる。


 確かに手を抜いていい時もあるのだろう。やるべきことをやっていれば許される時もあるかもしれない。いや、恐らくそうしなければ疲労やらストレスやらが溜まっていく一方だ。そうとは分かっているのに、出来ないのが私の悪いところ。手の抜き方が分からなければ、息の抜き方さえ分からない。

 どれほど眠ろうとも、この疲れは一向に減ってはくれない。ただ積もっていく疲れが崩れる時を待つしかないのだろう。伯爵の温かい手に包まれながら、不意にやってきた眠気に素直に従った。



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