挨拶
ずっと眠っていたような気がする。どれくらい眠っていただろう。起きては寝てを繰り返し続けた体では曜日感覚以前に朝なのか夜なんかさえ分からない。
そもそもここに時間という概念があるのかさえ分からない。恐らく私は眠っていた。だというのに、部屋の時計の針は一ミリも動いていなかったのだ。
自分は起きているのかそれとも夢の中なのかの区別も出来なくなっていた。そもそもこの世界に存在しているのかさえ分からなかった。
カーテンで遮られた窓からは一切の明かりが入ってこない。陽が沈んだ後だと考えるのが妥当だろうが枕元のサイドテーブルには恐らく焼きたてであろう食パンと目玉焼きが置いてあった。隣には湯気の立ったコーヒー牛乳。食欲は無いはずなのに、お腹が盛大に音を立てる。
眠っているだけでもエネルギーは消費されていくようだ。
これはさっきと同じものなのだろうか。眠っていたはずなのに食事は冷めるどころか出来立てのように思える。食事に手を伸ばし、少しずつ口に運んでいると扉が勢いよく開いた。あまりの大きさに心臓が跳ねる。
「悪い悪い。気にせず食べな」
そうは言われても、いまだ激しく鳴る心臓の鼓動では食事なんて出来るはずがない。
「俺、烏。伯爵から聞いてない?」
そう言えば聞いたような。二度寝、もしかすると三度寝する前、烏がどうとか言っていたがその内容はあまり思い出せない。というより、彼は伯爵と呼ぶべきなのだと分かり少しだけほっとした。
相手の呼び名が分からないことは、かなり不都合だ。自分から聞くのが良かったのだろうが、自己紹介なんてする時間は無かった。それに、その伯爵は私について何も聞くそぶりすら見せなかったのだ。そんな中、勝手に自己紹介を始めるのはなんだかおかしく思えた。
もとより誰かに質問したりするのは苦手だ。だから自分から話してくれない限り、その人のことを知ることは出来ない。今までならそれでよかったが、そうはいっていられない。知らない場所で頼りになるのはあの伯爵とこの烏だ。
「あの、烏さん」
「烏でいい」
「分かった。烏ね」
「それでなんだ?」
「私、なんでここにいるの?」
「なんでって、あんたがここに来たからだろ」
ごもっとも。烏は何意味の分からないことを言っているんだと言いたげな顔。私はここまで歩いて来たことはちゃんと覚えている。けれど、なぜここにいるのか分からない。
烏は「変なの」といってテーブルに枇杷を置いて出て行った。姿が見えなくなる前「それ、あげる」と慌ただしく去って行った彼は何をしに来たのか分からないが、ほんのり甘い枇杷も美味しかった。
この屋敷は変だ。部屋の外が気になり廊下に顔を出した本の隙間にベッドが整えられている。沈む太陽と昇る月の合間に見惚れている間に夕食が運ばれている。そんな日常に慣れた頃、少し穏やかになった心は外の空気を求めていた。
大きな窓は手をかけると簡単に動いた。見た目よりも軽いようで少し軋む音を立てながらゆっくり開ける。少し湿った風の香りは心を濡らすよう。眩しすぎない世界はまるで楽園に見えた。
窓辺から吸い込む風もいいが、あの地に足を踏み入れてみたい。来た時に通った道だとは思うが、昼と夜とでは纏う空気が違う。雨の上がりきらないような草木に触れたいと廊下を駆け出した。
「おはよう」
出会いがしら、伯爵とすれ違った。初めてここへ来た日、この屋敷を案内してくれた。それから何度か会っては挨拶をする。それくらいだった。
会話らしい会話は出来ていない気がする。まあ、最初の数日はほとんど寝て過ごしたこともあるがそれでも距離を縮められないでいた。
謎めく彼のことを知りたいとは思うのだが、それより先に解決しなければならない問題があった。改めてでは聞くことが出来ない気がしたので、この勢いに任せて聞いてしまおう。
「あの伯爵」
角を曲がり消えてしまった姿がすぐに戻ってきた。聞こえなかったとしても、仕方が無いと思えるほど小さい声だったのに届いた。そのことが嬉しくてこっそり喜んでいると、ほったらかしにされた伯爵が首を傾げた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。どうしたのかな?」
「私、ここにいてもいいんですか」
今更だと思うが、もやもやしたものが無くならない日々を過ごしていた。部屋も着る物も貰い、何不自由のない生活。私を追い出すような素振りは一切見せない。
だけど、ここにいてもいいと言われたわけではない。確証が得られないのでは、不安が募る一方だ。
「何も心配いらないよ。ずっとここにいるといい」
「ほんとにいいんですか?」
「もちろん。そうだ。庭を案内しよう」
さっきまでの不安が嘘みたいに消えていった。「おいで」と呼ばれる声に引き寄せられ、伯爵の後を追った。彼はまるで私がここにいることが当然のように振る舞う。
もう何年も前からこの場所を知っているかのように。不思議な感覚に戸惑うも、玄関を出る時に聞こえた声が私の背中を押した。
広い庭はどこまでも続いているように見える。たくさんの木陰はどこを選ぶか迷ってしまうほど魅力的。椅子とテーブルが用意されているところもある。あそこは伯爵のお気に入りなのではないだろうか。
その少し先には噴水が水しぶきを上げる。どこもかしこも草木が生い茂り、風が通り抜けると土のにおいを運ぶ。息をすることはこんなに簡単だっただろうか。吸い込むことが億劫で、吸いきる前に吐き出していては息苦しいに決まっている。
今はそんなことしなくても自然に呼吸できる。胸いっぱいに吸い込んで、また吸うために息を吐く。まるで初めてこの地に落ちた赤ちゃんのように息をした。
透明な風は、体いっぱいに吸い込んでもまだ足りない。吐き出してしまうのがもったいないと思える程に気持ちがいい。空を仰ぎ夢中で呼吸をする。ただ、息をしているだけなのにどうしてこんなに胸が熱くなるのだろう。
降り出した雨は私と伯爵の距離を縮めてくれた。ひときわ大きな木の下で、雨が止むのを待つ。差し出されたハンカチは受け取ることが出来なかったが、頭にかぶせられる温もりは雨を乾かしてくれた。
用事があると一足先に屋敷に戻る伯爵の背中を見送る。その背中を追いたかったが、もう少し乾くまでじっとしていることにした。
雨が上がると、どうしても探検したいという衝動に駆られた。森の中も気になるのだが、今はやめておいた方がよさそうだ。雨でぬかるんだ地面は歩きづらい。広い庭は家の裏にも広がっているようだ。ふらふら歩いていると、どこからか風は花の香りも運んでくれた。
その日から、食事は部屋に現れなくなった。その代わり、同じ時間になるといい香りが屋敷中に漂うようになった。それが合図になり居間へ向かう。
お風呂から上がり、居間に向かうと烏がもう食事を半分ほど食べ終えていた。夕飯の時間までまだあったと思ったが遅れてしまったようだ。
「遅れですみません」
「まだ、遅れてないけど」
烏はもオムライスを頬張りながら手招きする。
「そうだよ。時間ぴったりだ。烏が食いしん坊なだけだから」
手に持つ皿は伯爵と私の分。いつも思うが、彼の作る料理はレストランなんかで出てくるようなものばかり。どれも美味しくておかわり必至だ。それを見越してか、最近はおかわりを頼む前から多く盛ってくれる。それでもおかわりをすることは変わらないのだが。
席に着くと私の分の皿がオムライスが目の前に置かれた。湯気の立つデミグラスソースは食欲を掻き立てる。見るからにふわふわの卵はスプーンですくうと美味しそうに揺れる。
「つむぎ、これやるよ」
私の皿には、烏のために取り分けられた野菜全てが乗せられた。オムライスに見惚れて気付かなかった。山盛りになった皿は今にも崩れそうだが、器用に盛っていく。
「ちゃんと食べるんだ」
「嫌だ。野菜は美味しくない」
まるで親子のような会話に微笑ましくなる。伯爵により元に戻された野菜は最初よりも多かった気がする。
文句を言いながらも残さずしっかり食べる烏は、好きなものは最初に食べるタイプらしい。先ほどまでの勢いが嘘のようにちまちまと食べる。逆の方がいいと思うのだが、それは個人の考え方の違いだろう。
私は最後に嫌なものを残しておくのはしない。最初に片づけて、好きなものを最後にとっておく。終わりよければいいと思いたいのだが、そううまくはいかない。嫌なことを先に終わらせて、いざ好きなことに手を伸ばそうとしてもその時には気力が残っていない。
食事でも同じこと。嫌いなものを頑張って食べても、それでお腹がいっぱいになっては好きなものを美味しく食べられない。そう考えると、烏のようにするのがいいとは思うのだが、この先に訪れる嫌な時間があると分かったまま楽しく過ごすなんて出来るわけがない。だから今日も、私は苦手な野菜から手を付けた。ご褒美に待っているデザートに少し期待しながら。
烏は食べ終えるやいなや「ごちそうさま」と言いながら、窓の外へ出て行った。ここは二階のはず。この高さから落ちれば、怪我は免れない。にもかかわらず、ためらうこともせずに飛び出した烏を追うように窓から体を出す。
「心配ないよ。彼には翼があるから」
いつものことなのだろうか。伯爵は気にすることなく食事を続ける。彼がそう言うのなら大丈夫なのだろう。月夜に見上げる空には自由に飛ぶ烏の姿。鳥は夜、飛ばないというけれど彼は別なのだろう。そもそも彼の名は烏と聞いたが本当にそうなのかは知らない。「いいな」と呟いた声に伯爵は窓を閉めた。
「夜風は冷える。スープを温めてくるから、座っていなさい」
カーテンで月明かりを遮られた部屋は、ほんの少しだけ影を濃くした。伯爵が通り過ぎた時、蝋燭の灯りは消えそうに揺れていた。
デザートは生クリームたっぷりのシフォンケーキ。ふわふわのケーキは飲んでしまえるほどに柔らかい。甘すぎずさっぱりした味は飽きが来ない。次々に口へ運ぶもなかなか減らないケーキ。伯爵は私の皿が空になるとすぐに新しいものをよそってくれるのだ。
そうだ、私は甘いものが好きだった。食べることが好きだった。思い出せたことが嬉しくて、夢中で食べていた。その合間に飲むハーブティーはほっとした。
「おや、もうこんな時間だね」
彼の視線の先にある蝋燭はもう短くなっていた。食後の話はつい長話になってしまうものだ。とはいえ、話していたのはほとんど伯爵。私は相槌を打つだけ。
それでも、嫌な気持ちにならないのは伯爵が私の反応を見て話題を変えたり、深く教えてくれたりと何かと気をまわしてくれているから。ただのおしゃべりな人ではないから、こんなにも話が聞きやすい。満たされたのは食事が美味しかったからだけではない気がした。
どれもこれも久しぶりの感覚に少し体が疲れてしまった。それは嫌な疲れではなく楽しい疲れ。食べ物を美味しいと思えて、言葉がそのまま入って来て。
愛想笑いですら上手く出来なくなっていた。けれど、今日は硬くなった顔が少しだけほころんだ気がした。
あの頃の私は不思議なくらい笑えなかった。作り笑いなんて得意だった。心に反していつでもどこでも貼り付けられたのに。それすら出来なくなった時、ようやく自分はもう限界なのだと気付いた。
布団の中で震える夜を過ごして、何事もなかったかのように朝を迎えて。そしてまた来る朝に怯える。得体のしれない恐怖は次第に大きくなり、私の体を乗っ取っていく。日に日に重たくなっていく体は、起き上がることすら重労働のように感じる。痛む腕を庇いながら普通に紛れるように生きていく。
なぜ私はこんなに苦しいのだろうと考えても答えは無く、時間は過ぎていくばかり。無駄にしているのならいっそ捨ててしまおうと何度考えたか分からない。考えたところで体は動かないし頭は混乱するだけ。
今でもその思いが消えたわけではない。ただ、それを覆い隠してくれるような出来事に気付けた。
少しだけ、ほんのちょっとでも嬉しいと思えたことが嬉しい。軽くなりつつある足取りで部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、どこからか乾いた鈴の音が聞こえてきた。
静かな足音は次第に大きくなり、恐ろしいことに私の背後で止まった。振り向き確認したいのだが、なぜか体が動かない。
断じて怖いわけではない。幽霊の類は信じていない。今まで見たことも感じたことも無いのだから。それでも、何かがいる気配が拭えない。私の後ろにはいったい何がいるのだろうか。
恐怖と戦いながら目を少しだけ横に向けると、その壁に映っていたのは凶暴な影だった。獣のような、けれどどこか違うようなその影は大きく口を開く。逃げなければと思う前に走り出していた。
鈴の音は追いかけてくることは無く、部屋にたどり着くころには汗が噴き出していた。シャワーを浴びたい気分だったが、もう一度あの廊下を通る勇気はない。
そのままベッドに入り長い夜を過ごすことになると思ったが、今日の夜はなぜか短かった。