出会い
呼び鈴を鳴らすとすぐに、大きな扉が軋む音を立てながらひとりでに開いた。人は心底驚くと声も出ないし動くことも出来ないらしい。頭では一目散に逃げなければと警告しているのに体が言うことを聞かない。
そうこうしているうちに奥から人の影が近づいてくる。化物か魔物か。目を細めながら見るも、暗くてその姿は分からない。目の前に立った時、ようやくその姿が現れた。月明かりに照らされる姿は何とも美しい。ありきたりな表現ではあるが、この世の物とは思えない程だった。すらりとした姿はこの屋敷の主人とは思えない。
彼は私を見るなり微笑んで、招き入れるように肩を引く。
「あ、あの……」
「いらっしゃい。雨に降られたのでしょう。中へお入りなさい」
その言葉につられて私はその屋敷の中に入ってしまった。見知らぬ場所で見知らぬ人の家に上がるなど、いつもの私なら絶対にしない。けれど、歩き疲れ人気のない場所に居すぎたせいか、その姿に安心してしまったのだ。
暗い廊下は彼が通ると、蝋燭に明かりが灯りその前を過ぎると勝手に消えた。暗闇に取り残されまいと、その背中を追うように屋敷へ足を踏み入れた。ひとりでに閉まる扉は鍵のかかる音がした。振り返り見ると、さっきまでいた場所はずいぶんと遠くに見えた。
思いのほか屋敷の内側は綺麗だった。きょろきょろしていると、私の様子を確認するようにちらっと振り返った彼と目が合った。吸い込まれそうなほどに黒い目は、逸らすことが難しい。
ふと細められる目は敵意が無いように思えた。数秒前までは知らぬ人。そんな簡単に人を信じてもいいのかとどこかで警鐘が鳴る。それでも、大丈夫と私の中で声がした。
ただ、前を歩く彼の後をついて行ってはいるがどこに向かっているのだろう。そもそも当然のように歩いているが、私はこんなところまで入ってもいいものだろうか。もしかして、行きたい所はあるが離れない私に困って遠回りしているとか。
迷惑をかけるまいと振り返るが、闇に隠された道はどうしても行く気にはならない。ためらいながらも、その後をついて行くと彼の足が止まった。
「さあ、着いたよ」
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、見たことも無いような部屋が広がっていた。大きなテーブルには細かい装飾が施され、遠くから見ても分かる。絶対に高価なものだ。
見たところ、ここは食事をする場所だろう。どこからかいい香りが漂ってくる。思っていたのをはるかに飛び越える屋敷に、目の前にあるものを信じられなくなりそうだった。
椅子に座るよう促されるが、躊躇するのは当然。確かに椅子も高そうだということもあるが、私はどうしてここにいることを許されているのか教えてもらっていない。招待された訳ではないのに、私が来ることを予想していたような振る舞い。
もしかして、変なのは私の方かもしれないと思ってしまうほど。知らぬ間に招待状でも貰っていたのかもしれない。そうじゃなければ、ここにいることの説明がつかない。
「ゆっくりしていくといい」
その言葉が、私の不安全てをかき消していく。椅子に座るとすぐに食事が用意された。
「召し上がれ」
「いただきます」
ここまでしてもらって食べないというのは、逆に失礼になる。あまり食欲は無いのだが、一口食べてみる。美味しかった。飲み込んだスープは体の中から満たしてく。
食べ物に味を感じたのは久しぶりだった。空腹をしのぐためだけに食べ物を胃に入れていた。味わう前に飲み込み、口に入れては流し込む。
食べ物であれば何を選んでも同じ状態だった。何を食べたのかを覚えていなければ、いつ食べたのかも曖昧。食べることさえ忘れることもあった。
それなのに、こんなにしっかり味を感じる。暖かいスープは具の一つもないが、いろんな味がする。野菜をすりつぶしているのだろうか。口当たりのいいので、どんどん進む。これなら、あと三杯は食べられそうだ。というよりもっと食べたい。
皿を持ち上げ飲み干すと、くすりと笑う声が聞こえてきた。きっと行儀が悪かったのだろう。テーブルマナーなんてよく知らないが、さすがにこれはまずいことをした自覚はある。
彼は身なりや仕草からして育ちがいいに違いない。恐る恐る皿を下ろすと、口元に手を当てている彼と目が合った。
「口に合ったかな」
叱られると思っていたが、予想外の言葉にしどろもどろになっていた。いろんな言い訳を考えていただけに、叱られた方がいい返答を出来た気がする。
「もう一杯、頂いてもよろしいでしょうか」
ただ「はい」と答えればいいところを、おかわりを要求してしまった。他人の家に上がり込み、食事を与えてもらった挙句行儀に悪い行いをした。そのうえにまた厚かましい行動を重ねるなんて。
私はいったいどうしてしまったのだろうか。まるで心の声が引きずり出されてしまったように、思いは言葉になっていた。
「もちろんだ」
皿を持ち部屋を出る背中を何も言わずに見ていた。彼はいったい何者なのか。きっちりした服に身を包み、綺麗な立ち姿。どこか冷たく見えるが整った顔立ちに温度の無い声。人であるのは間違いないのだろうが、なんとも言えない雰囲気を漂わせている。
どことなく不気味な空気を纏うこの屋敷もまた謎だ。暖炉にシャンデリア。高そうなカーテンや家具は今までに見たことも無いようなものばかり。大正時代にタイムスリップしたようにも思えるが、恐らく違う。
彼は私の服装を見ても不思議に思った様子は無かった。だから、その選択肢は既に消えている。あと、考えられるのは二つ。これはただの夢。私が勝手に作り出した世界だということ。恐らくそれだろう。もう一つは現実味が無いからこれも消えたも同然。
夢の中ならいくらか気が楽だ。起きた時に覚えているにせよ、時間が経てば消えてなくなる。ならば、満喫してみよう。夢の中でも、こんなに立派な場所はなかなか作れるのもではない。
ピカピカに磨かれた燭台に自分の姿を映してみたり、触り心地のよさそうなカーテンの端に指先で触れてみたり。自分の家にある備え付けのカーテンとは違い重たい。
なぜ私はこんなものを創造できたのだろう。こんな高そうなもの、見たことなんて無いはずなのに。人は知らぬものを想像することなんて出来るのだろうか。
もしかすると、つけっぱなしのテレビの中で見たのかもしれない。どこかの国のお城特集があった気がする。
恐る恐るカーテンを開けると、月に照らされた雫が輝く景色が広がっていた。二階から眺めているにしては見晴らしがいい。そんなに多くの階段を上ったようには思えないのだが。
緊張していたせいであまり思えていなかったのかもしれない。第一、ここに来るまで何をしていたのか思い出せない。
記憶が飛ぶのは今に始まったことではない。毎日のように起こることなので、今更焦りはしない。その方がいいのだ。覚えていたいことなんて特になかった人生だ。日々の嫌なことが蓄積していくくらいなら、美しいものでさえ忘れていく方が良かった。
きっと、今日のことも忘れるのだろう。現実さえも消えていく私では、夢など跡形もなく消えていく。それでも、少しだけ長く覚えて置けるように雨が降り止まぬ景色を眺めていた。
大きな足音が近づき、私は静かに席に戻った。他人の家であまりうろうろするのは失礼だろう。非常識な人だと思われるのはごめんだ。再び私の前に置かれた皿には先ほどよりも少しだけ多く注がれたスープ。
それは彼からの歓迎のように思えた。都合のいい解釈だとは思うが、添えられたパンにその他の意味は思い当たらない。
こんがり焼かれた香りはお腹の龍を呼び起こす。私が食べている間、その男は自分の食事に手を付けず私を眺めているよう。その視線が気になり時折顔を上げるとばっちり目が合う。それでも逸らすどころか見続けるあたり観察でもしているのだろうと思った。なかなか居心地悪い感じがするものの、空腹には勝てずそのまま最後まで頬張った。
「部屋に案内しよう」
促されるまま立ち上がると眩暈がした。お腹がいっぱいになったころを見計らったように眠気が襲ってきたようだ。
ああ、夢が覚めてしまう。またあの場所へ戻るのか。今見たすべてのことはいつかきっと忘れてしまう。だからせめて少しだけ覚えていられるようにと、頭に焼き付けた。目の前の全てが暗闇に溶けていく合間に、暗く優しい目が覗いていた。
頭の中で何度も声が響いた。何を言っているのか誰の声なのかも分からない。ただ、呼ばれているような声に目を覚ました。こわばった体を伸ばしまた布団の中に納まる。どうも動く気にならない。
いつもの様に寝起きはだるくて仕方がない。気持ちのいい朝なんて迎えられたことなんてあっただろうか。
まあ、朝なんてそんなものだろう。一日が始まってしまったことに絶望するだけ。太陽はこれから来る得体のしれない恐怖の始まりの合図だ。
だから、カーテンは閉め切ったまま。外から漏れ出る明かりでさえ嫌なのに、全身に浴びるなどできやしない。
そういや昨日も夢を見た。思い出すように記憶を辿っていく。暗い道を抜け、大きな屋敷を見つけた。そこには知らぬ人がいて料理を与えてくれた。面白味も何もない夢だが、多くのことを思い出せる。
いつもなら写真で残したように途切れ途切れにしか思い出せないのに、今日はビデオでも撮ったかのよう。そう思えるのは、私が見ている景色のせいだ。
「よく眠れたかい?」
覚えのある声は昨日聞いた。上からのぞき込む顔も覚えている。
「夢じゃない?」
返事もせず、心の声がこぼれていた。
「夢というのは少々違うな」
「じゃあ、ここはいったい何なんですか?」
「どこでもいいじゃないか。ただ、君がいる場所だ」
確かにどこでもいいのかもしれない。あの場所ではないどこかならきっと昨日よりはましだ。
「食事を持ってきたよ」
ベッドのわきのテーブルに置かれた朝食は温かそうで、今すぐにでも平らげたい気分だったが軋む体を伸ばすのが先だろう。広々としたベッドは、再び私を眠りに誘う。その誘惑を断れず、私はまた目を閉じた。