最後の住人
気付けば部屋のベッドの中にいた。考える間もなく伯爵が運んでくれたことが分かる。包帯は新しいものに換えられていて、肩まで布団がかぶされている。外で小さな物音がした。
近づくと烏は私の名を呼んでいる。近づきたくて扉を押すが開かない。だが、私の気配に気づいたようだ。
「ごめんなさい」
消え入りそうな声はドアに耳をくっつけなければ、聞き逃してしまうほど。いつも元気だった烏からは想像もできない。
「俺、最低なことした。ごめんなさい」
「烏は悪くないよ」
「なんで怒らないんだよ。俺はつむぎ酷いことしたのに」
声を荒げてはいるが、それは私今のに対してではないような気がする。過去のお自分に対してか。それとも、あの時逃げなかった私に対してか。
「烏は私を助けようとしてくれていたんでしょ。知ってるから」
彼は私を苦しませたいのではない。ただ、迷う心を救おうとしてくれた。ぐすっと泣いているような声が聞こえる。地べたに座り込んで丸まっているのではないだろうか。どうにかしてそばに行きたい。この一枚隔てた向こうに居るというのに遠くて仕方がない。
その苦しみを知っている。痛いほどに分かる。どんなにもがいても拭えないその思い。誰から許されても自分が許せないのでは、いつまでたっても進めない。
それでも、許せない自分を許してくれる自分と出会える。彼にもきっといるはず。こんなに優しいのだ。無いはずがない。「ありがとう」とそっと呟くと、「うん」と小さく聞こえた。
しばらく伯爵と話していない。食事を運んでくれるのだが、いつもの様に話してくれないのだ。どうしても会いに行きたくなり、扉を開こうとするが開かない。ドアノブをがちゃがちゃしても開く気配はない。
鍵はついていないはずなのに。恐らく伯爵の仕業だろう。私が怪我をした日から様子がおかしかった。それは私のせいだということは分かっている。だから、彼を責めるようなことも烏を嫌いになるようなことも思えない。
恐らくこの鍵はあの日から掛けられていたのではないかと思う。怪我が治るまではろくに歩くことさえできなかったから気付かなかったのだろう。
自ら閉じこもってきたが、誰かに閉じ込められるのはまた話が違う。だが文句など言えない。私を心配してのことだろうから。外の空気を吸おうと窓に手をかけるが、小窓さえ開かない。仕方ないと諦め私がさっきまでいた場所を眺める。
もう二度とこの部屋から出られなくなってしまったのかもしれない。やりすぎとも思えるが、私が悪いのだ。もう一度どこかから落っこちてしまえば恐らくそれが最後だろう。伯爵のあの羽ではもう飛ぶことは出来ない。きっと次は助けは来ないはずだから。
それにしても暇だ。ここではただでさえ私がやることは無いというのに、閉じ込められてしまっては本当にすることが無い。
眠ろうにも嫌というほど休息をとったせいで睡魔は来ないし疲れてもいない。せっかくの探検日和だというのに。何を思っても変わりそうにないので、ベッドに寝転がった。
どれほど時がたったのか分からない。時折聞こえる風の音以外に動いている気配を感じない。鈴の音も早足な下駄の音も聞こえない。日を遮る傘の影も元気をくれる小さな花束も無い。
彼らはどうしてここを去って行ってしまったのだろう。
いつでも楽し気にしていたように見えた。ずっと一緒に居たわけではないが、それぞれが誰かのことを思いながら生活していた。誰かが落ち込んでいれば一生懸命元気づけるし、そっとしておいてほしい時は遠すぎない距離で見守る。
なにかあった時にすぐに駆け付けられるように。その対象は私の例外ではなかった。今まで誰からも距離を置いていた私にとって、それはお節介にも思えた。
けれど、伯爵をはじめその心に悪意が無いことを知ればさらに遠ざかりたくなった。そこに触れてしまえばもう今までの私には戻れない。
一人でいいと強がり誰の手も借りないことで、この寂しさを麻痺させてきた。そのぬくもりに一度でも触れてしまえば、作り上げてきた強がりが崩れ落ちてしまいそうで怖くてたまらないと一人怯えていた。
背を向け逃げても、どこまでもついてくる彼らは飽きることなく私を追いかけてくる。いつか来るだろうと思っていた終わりは来ることは無く、逃げることに疲れた時、包まれた暖かさは思っていたよりも単調で焼けるような暑さは感じなかった。
最初に触れた伯爵の手は私と同じ温度で、触れられたところは少しだけ痛みを覚えた。やはり慣れないことはする者ではないと思いながらも、次から次に押し寄せる彼らからの思いは零れても注がれ続ける。いつしか枯渇することさえ忘れていた。
なぜ皆私に優しさをくれるのだろうか。何も返せてないのに。貰ってばかりだった。
「あなたから貰ったものを返しただけですよ」
どこからともなく声が聞こえてきた。それは時折私に話しかけてきては答えてくれない声だった。
「私があげられるものなんてたかが知れてる」
一人ごとのように呟く。どうせいつも通り返事なんて帰ってこないのだから。
「それは少ないかもしれません。けれど、確かにあなたが与えてくれたものです」
この声は何を言っているのだろうか。私はもともと何も持っていないのだ。だから、無いものを誰かにあげることは出来ないし、作ることさえできない。
「皆が自慢げに言うんです。あなたから何を貰ったのか」
彼らにあげたものがあるとするなら、それは大したものではない。ぼたんや便箋。鍵についていた鈴にハンカチくらいだ。そんなものに自慢するほどの価値は無い。他を探せばもっといいものが沢山あるのだから。
「私は何も返せてない」
してもらうばかりでお礼の一つも出来ていない。
「彼らは皆、あなたから貰ってもので溢れています。もちろん私も」
満足げな顔をして去って行った彼らの最後を思い出す。なぜ彼らがこの場所を離れた理由が、今の今まで分からなかった。私が思っていたのと同じ様に居心地が良かったはずなのに。きっと、みんなも私と同じ気持ちだったに違いない。
「旦那様はあなたのことをとても大切に思っています」
「知ってる」
「どうか、あの人を一人にしないでください」
「今までだって一緒にいなかったじゃない」
どうやらそれは違うようだった。
声から語られる伯爵はどれも知らないものばかりだった。私が子供の頃に鳥を助けた日から、彼は毎日その羽を羽ばたかせ私に会いに来ていたという。
もしやあの鳥は烏だったのかもしれない。彼を助けたことのお返しにと私を見守ってくれていたのだろう。
伯爵は通学路にある木の上に止まっていたり、学校の屋上から眺めていたりと私の気付かぬ所から見守っていてくれた。それが彼の日課だったようで、毎日のように屋敷に帰って来ては声に私の話をしていたそう。
けれど、長く続いた日課は途切れることになった。私が展望台から落ちた日、彼は飛ぶことを失った。彼は人間の命に手を出したと罪に問われ、飛ぶことを禁じられた。
それから、伯爵は私のもとに来ることは無かったが、その代わりに使いの烏をよこしていた。そんな話を聞かされれば尚更帰らなければという思いが強くなる。私は一度ならぬ三度も彼から翼を奪った。
「私、帰るよ」
どこに言えばいいのか分からない言葉を空に吐き出す。本当はここに居たい。戻りたくなんかない。それでも私は戻らなければならない理由がある以前よりも強く決心した。
「あなたは聞いていた通りの方ですね」
誰から聞いたのだろうと首をかしげていると、くすりという笑い声と共に教えてくれた。
「旦那様が、あなたのことをお優しい方だと常々仰っていたので」
みんな私を勘違いしている。私は優しい人間などではない。彼らの方が優しいという言葉が似合う。
「本当に行ってしまうのですか」
答えるまでもない。扉に向かって歩き出す私を彼は止める気は無いようだ。さっきまで開かなかった扉が、いとも簡単に開いた。
開かなければよかったなんて思う私を振り払うように急ぎ足で玄関を目指す。
廊下にはみんなの似顔絵。笑う姿の周りを鈴蘭が飾り、その先には藁草履。玄関に向かうと、そこには見知らぬ人が立っていた。まるで私を待っていたかのように。
そうか、この人があの声の主。この家の心なのだ。背筋を伸ばし待っている姿勢は微動だにしない。少しだけ色褪せたスーツはこの家を表しているよう。
私がこの姿にあったのは初めてだが、彼もまた私を見守っていてくれたに違いない。
「あなたは出て行かないの?」
家自身にこんな質問をするのはおかしな話だとは思うが気になった。
「ええ、私に住まう人がいる限りここに居ります」
「そっか」
それは彼らしい答えだと思った。雨風をしのぎ休息の場所となってくれる。ただ、そこに在るだけの存在。それゆえ、自ら住み人を求めることは出来ない。
そんな彼だからこそ、ここに居る人たちを人知れず守っていてくれている。「これが私のやるべきことです」と言った彼の声は寂しげだった。
たくさんあった声は今や私と伯爵、そして烏の三人。私も寂しいけれど、行くと決めたのだ。
「私はあなたに何かできたかな」
「ええ。あなたがここにいた時間すべてをもらいました」
「それはあげたとは言わないよ」
「家は寂しがり屋ですからね。それが何よりも嬉しいのですよ」
「そういうものなのかな」
「あなたがここに帰って来てくれることが、私の存在する意味です。それ以上に何を望みますか」
その言葉は悲しかった。家は自ら求めることが出来ないと言っているようだ。与えられるまで待つことしか出来ない。与えられなければそれまでだ。彼らのように自由に動くことが出来ない。それはとても怖いことだ。
「つむぎさん」
引き留めることはしないことは分かっている。けれど、その声に後ろ髪を引かれる。
「いってらっしゃいませ」
開けられた扉が軋む音と共に、掠れた鈴の音が響く。振り返らず歩き始めた私の背中を押してくれたのは、今までで一番穏やかな声だった。
いつもと変わらない言葉は、また私がここへ帰って来てもいいと言ってくれているよう。そう言えば、誰もさよならなんて言わなかった。みんなと再会できる日は来るかもしれない。