悪い夢
止まった時間の中に沈んでいるようだった。ぼんやりとした頭では目の前の活字を処理しきれない。せっかく伯爵のおすすめの本を教えてもらったのに。
数時間前からそのページが開かれたままだった。伯爵の靴音が聞こえたので読書で紛らわす必要はなくなった。
「つむぎ、少し屋敷を開けるから留守番を頼むよ」
「お出かけですか?」
「ああ」
彼が家を空けることはほとんどない。というより、私がいる間は必ず居た。いや、私が知らないだけで今までも何度もあったのかもしれない。いつまでも寝ていることが多かったから、気が付かなかったのだろうか。
それでもなんだか寂しい気持ちになった。私から離れることはあっても、伯爵から離れていくことは無かったから。
「お土産を持ち帰るから、いい子にしてるんだよ」
まるで子供をあやすように頬を撫でる。寂しいなんて思っていたことがばれてしまったのだろうか。お土産なんていらないが、早く帰って来てほしいので素直に返事をした。
伯爵の背中を見る機会は無い。真横に並んでいるか、正面で向き合っているかのどちらかだ。時折その背中を見かけるも、私の視線にすぐさま気づき振り返っては手を振ってくれる。
その目に映されることが当たり前になってしまった今、遠ざかる背中を見送るのは慣れない。
玄関の前で留めてはいたが、ついて行きたい衝動に駆られた。なぜだかもう帰ってこないような気がしてならない。いつもとなんら変わらない様子だった。それでも、胸騒ぎが止まない。
駆け寄ろうと足を踏み出した時、彼は振り返り手を振った。その手に振り返すとまた進む。そして、少しするとまた振り返り手を振る。見えなくなるまでそれは続き、彼の元へ行くタイミングを逃してしまった。闇に消えてしまった後ではもう追いつくことは出来ないだろう。
どこかと遠くの方から雷鳴が轟く。すぐさま土砂降りの雨を連れて来るに違いない。きっと大丈夫と言い聞かせ、屋敷の中へ戻ることにした。この屋敷はこんなにも冷たかっただろうか。いなくなった住人達とは関係ないはず。どこからか隙間風でも入ってきているよう。実際そうかもしれない。この屋敷は立派だがよく見るとところどころに綻びが見えるた。
伯爵は夜になっても帰ってこなかった。遅くなると烏からの伝言で聞いてはいたが、あまりにも遅すぎるのではないだろうか。
そろそろ帰って来るのではないかと、ハーブティーのお湯を何度も沸かしてはいるがいまだ注げないでいる。これではお湯が蒸発して全部なくなってしまう。
もしかしたらもう二度と帰ってこないのではないかという思いがよぎった。やはり、あの時一緒に行っていればよかった。今すぐに探しに行きたいけれど、それでは私が彼を信じないことになる。出かける前、彼は帰って来ると言った。なら、その言葉を信じてここで待つしかないのだろう。
思えば私は彼のことをあまり知らない。どこにいるのか、いつも何を考えているのか。ましてや名前さえ知らない。それに代わって彼は私のことなんて何でもお見通しのようだ。
私が望んでいることを先回りしてやってくれるし、何も言わなくてもすぐに見つけてくれる。嫌いなものも好きなもの、教えていないのに何でも知っている。
私も伯爵のことが知りたい。帰ってきたら彼のことを聞こう。まず最初に何を教えてもらおうか紙に書き出してみる。
何をすることが好きか。好きな季節や食べ物。どんな香りが好きか。聞きたいことがありすぎてペンが止まらない。埋め尽くされた用紙にため息が出る。
それは、いかに彼のことを知らないかを表していた。こんなことをしているこの瞬間も彼は私の考えてることが分かるのだろうか。
なぜこんなのも知らないのかなんて、自分の行動を振り返ればすぐに分かる。いつだって自分のことしか見えていないのだ。自分が何かをするので精いっぱいで、周りのことなんか視界の外。
知る機会はどこらかしこにあったはず。そのかけらを拾うことが出来なかったから、この問いの答えは埋まらないのだ。
別に失ったわけではない。少し遠くに行っただけだから、まだ取り返せる。それでも、人はここにあるものに気付きにくい。失って初めてそのものの大きさに気付き後悔する。
私にはまだ、気付かないものがあるだろうか。なんて考えるが、今思いつけるのなら失うまで分からないなんてことは無いだろう。ここにあることに慣れている。だから、あることさえ忘れてしまう。無くなれば代用なんて出来ないことさえも。
そのことに気付けたのはきっと幸運だった。だからこれから忘れないようにと、伯爵や烏、今はいない彼らのこと覚えている限り手帳に記した。
写真なんかなくても鮮やかに思い出せる。彼らが残していったものは思い出などと言えるものではない。玄関の扉には獅子舞が残した鈴。そこを通れば駒助が編んでくれた草履。廊下には熊吉が描いたみんなの似顔絵とさやかがくれた鈴蘭。今でもここにある。過ぎ去り薄れゆくものなどではない。
思い出を辿りながら開けない夜を過ごす。どれほど待とうがいまだ帰らない伯爵はどこにいるのか。一人過ごす夜はいいものではない。廊下をとぼとぼ歩いていると、いつもの様に声が話しかけてくる。
「居間へ行くといいですよ」
「そこになにがあるの?」
やはり返事は無い。何の目的で私を台所へ行かせたいのかは分からないが、従うことにした。伯爵と昼食をとってから何も食べていないことに気付いた。
お腹が空いていないわけではないが、他のことに気を取られていると空腹を忘れてしまう。パンに目玉焼きを乗せるくらいなら私にも美味しく出来るだろう。
伯爵のようにバターを塗るとさらに美味しく仕上がる。醤油もあればと思ったがここには無いようだ。居間からいい香りが漂ってきた。
もしや伯爵が帰ってきたのではないかと急いでを抜けるも、そこに人影は無く湯気の立った食事が用意されていた。それは私がいつも座っている席にだけあり、伯爵の席には何もない。
どういうことだろうか。もう食事を済ませてしまったのか、準備だけして食事もせずに眠ってしまったのか。もし食べていないのなら私の分を渡しに行きたいと思うも、邪魔になるかもしれない。
眠っていたら起こしてしまいたくない。どうしようかと居間をうろうろしているとまたしてもあの声。
「旦那様はまだ不在ですよ。食事は彼が用意させたものです。つむぎさんがお召し上がりください」
どれほど質問されたくないのだろう。端的に私の知りたいことを全て教えてくれた。それにしても帰って来ていないというのに、どうやってこの食事を用意したのだろう。
魔法でも使えるのだろうか。人間には出来ることではないはず。そう言えば伯爵は人間なのだろうか。確かに人間離れした綺麗な容姿をしているが行動は人間となんら変わらない。
食事を作り食べる。読書をし、お菓子を作り睡眠をとる。不思議な点は見当たらない。あるとしたら、彼ではなくこの場所だ。この屋敷の住人以外はいまだ、見たことが無い。
まあ、彼らも人ではないのだから、不思議に思う要素にはなるのだろうが。長く一緒に居たせいでそんな感覚は、今の私には無かった。
どこからか声が教えてくれないかと期待するも、この質問には答える気は無いらしい。お腹が大きな音を立てたので、冷めないうちに食べることにした。
どうしても食後の眠気には抗えない。今日は特に眠たい。部屋までの道のりが遠く感じ、近くの部屋のソファーで少しの間休むことにした。大きなソファーは足を伸ばしてもまだ余裕がある。
掛け布団があればベッドのように使えるほどの大きさだ。常備しておくことを考えたが、そうなるとここで寝る悪い癖がついてしまいそうだ。
それに伯爵がいる時にそんなだらしないことは出来ない。見栄を張っているわけではないが、伯爵の隣に居る時は少しでも彼にふさわしくありたいのだ。
「つむぎ、こんなところに居た」
もう少しで眠りにつきそうだったところを、元気な声で起こされた。烏は悪びれもなしに私の足元に座り込んだ。
「どうしたの?」
「なんか暇」
話し相手になってくれと言っているのだろうか。暇と言う理由だけで、ここにいるのはよっぽど暇なのだろう。私は面白いことも暇つぶしになる話も何も持っていない。そして、眠たい。
大きな欠伸をするが、気にしていない様子。烏はあまり眠たそうではないので、伯爵の話を聞くことにした。
「ねえ、伯爵ってどんな人?」
「そうだな」
少しの沈黙の後、笑いながら教えてくれた。
「我儘な人かな」
「我儘か……」
我儘な伯爵なんて想像できない。いつでも微笑んでいて、意見を押し通すようなところは見たことが無い。いつでも誰かの気持ちを優先するように見えた。
「納得いってないって顔だね」
「そんな印象無いから」
「いつか分かるよ」
私の知らない伯爵を見られる日が来るのが楽しみだ。それから、烏は伯爵の話を聞かせてくれた。私がここへ来る前までは何度も料理で失敗をしたこと。
雨が降っているにもかかわらず、洗濯物を外に干しっぱなしにしたことなど、今の伯爵からは考えられない話ばかり。もう見ることが出来ない姿だが、烏が教えてくれたことは私の中の伯爵の思い出にしっかり加わった。
烏は自分自身の話もたくさん教えてくれた。どんな食べ物が好きかや、どこに食べ物を隠しているかまで。時々食材が無くなっていると伯爵が嘆いているのを見かけたが、犯人は烏のようだ。
けれど、これは黙っておく。誰かから聞いた話は口外しないのが自分のルールだ。まあ、烏の仕業だということは伯爵にばれていそうだが。本人はばれていないと思っているらしく、「内緒だからな」と悪い顔をした。
眠気はいつの間にか通り過ぎていた。これでは逆に眠れない。一度限界を超えた体は、休むタイミングが分からなくなるのだろう。
体は疲れ切っているが、どうしてだか頭はどんどん冴える。どうせ、伯爵の帰りを待つつもりだったので問題は無い。まだまだ話題はたくさんあるのだが、烏が話の腰を折る。
「そろそろ部屋に戻ったらどうだ?」
「もう少しここで待ってるよ」
「どうせ朝まで帰ってこないと思うけど」
「それでもいいよ」
「そう。じゃあ、俺もここにいよーっと」
ソファーの半分を譲ろうとした私を制止し、その場で足を伸ばした。のんびりした雰囲気にあくびが出るが、起きて待っていると決めたのだ。睡魔が来ないようにと話を繋いでいく。
「烏ってよく空を飛んでるよね」
「うん」
「空は気持ちいい?」
「うーん。分かんない。いっつも飛んでるから」
「そっか。そう言えば、翼はどこにいったの?」
「見たい?」
返事をする前に見せてくれた。遠くからでは分からなかったが、薄闇に溶けることなく輝く色はどこか懐かしい。あの時私を導いた烏や、小さい頃に出会った鳥を思い起こす。
小さかった頃、いろんなものを拾って帰っていた。石や葉っぱはもちろんのこと、誰かが捨てたものや祖父母の家にあったもの。
虫や動物も連れて帰ったこともあった。生き物を拾った日には母から怒られ、泣きながらもといた場所へ返すことになるのだが。
生き物たちは私が手を離すと、振り返ることもなく私から遠ざかっていく。一度抱き上げたところで懐くわけがないが、あの頃は心底悲しくなった。
急ぐように去って行く姿を見えなくなるまで見送り、私も彼らに背を向けた。そんな中、私から離れない生き物と一度だけ出会った。だというのに、私達は一緒にいることは叶うはずもなかった。
「そんな不気味なもの、家に入れないでちょうだい」
「でも、怪我してるよ」
「早く捨ててきなさい」
その言葉と共に、私達は家から追い出された。戸を開けようとしても、鍵がかかっており入ることは不可能。木枯らしに震えるが、この鳥を捨てることなどできはしなかった。
腕の中で震えている体は私よりも冷たく小さかったから。黒い羽根は夕日に照らされ輝いている。母は不気味だと言ったが、これのどこが不気味なのか分からない。
怪我をし折れ曲がった羽が怖かったのだろう。確かに痛々しい。烏は一声もあげることなくじっとしているが、手当は必要だろう。
とはえいやり方が分からない。家に入れば包帯やらガーゼやらが手に入るのだろうが、鳥を抱えていては無理だ。どうしようかと悩んでいるうちに、陽も暮れ、家から漏れる明かりが浮き上がる。
寒くてお腹もすいた。けれど、それはこの鳥も同じだろう。冷える夜に一匹残していくことは考えもしなかった。どこからともなく湧き出てきた正義感から、私は家に帰ることを諦めた。
軒下は暖かくはないものの、少しばかりなら風をしのげる。震える体をそっと撫でると私に顔を向ける。何か伝えたいことでもあるのだろうか、軽くくちばしで私の体をつつくが理解できないまま眠りについた。
次の日、軒下で朝を迎えた私を両親はしこたま叱ったがどうでもよかった。説教の言葉は何一つ入ってこない。ただ、軒下に隠した鳥が見つかっていないことに安堵していた。
生き物を看病するのは初めての経験だったので、図書室で情報を集めようとしたが、小学校にはそんな本は置いていなかった。帰り道から少し外れるが、図書館へ足を伸ばした。
そこで得た情報から、的確な看病が出来たのか鳥はみるみる元気になっていった。食べ物もよく食べるようになったし、手入れをした羽も治ったようで今にも飛び立ってしまいそうだ。そんな私の不安通りに、鳥は大空へと飛び去った。
去り際の行動はいまだ理解できない。私の肩に止まると、くちばしで頬をつつく。飛び去ったかと思えば、塀に止まり振り返ると一度だけ鳴いた。ただの気まぐれか、烏なりのお礼だったのか。分からなかったが、私は泣いていた。
もしかしてあの時の鳥も彼だったのだろうなんて思うが、そんなことは無いだろう。もしそうなら、名乗り出ているはずだ。見分けることが出来ればなんて思うが、そんな才能持ち合わせていない。ただ、その色だけは鮮明に覚えていた。
あの時、去って行った鳥はどうしているだろう。もう会えることは無いだろうが、もう一度会いたい。ほんの一瞬ではあるが、どこか心細い世界で身を寄せ合った思い出が折れそうになるたびに救ってくれた。
いつの間にか烏は眠ってしまったようで、寝息を立てている。その音が再び睡魔を呼び起こし、私も眠りに落ちた。
遠くの方で物音が聞こえる。誰かの足音だろうか。その音は不規則で何かを引きずっているよう。後ろから急いで走ってくるような音が聞こえる。
「伯爵、何があったんですか?」
「大したことじゃない」
「でも……」
「静かにしなさい」
伯爵と烏の声だ。開けっ放しのカーテンから見える空は紫色に照らされている。私は烏との会話の途中で眠ってしまっていたようだ。おかえりと言いに行ったら部屋でもうひと眠りするとしよう。
眠い目をこすり、居間を出るがもう彼らはいなくなっていた。最後に見たのは角を横切る不気味な影と、錆びたような匂いだった。
美味しそうな匂いが目覚ましだなんて贅沢だ。目を覚ますと、テーブルには食事が用意されていた。伯爵が帰ってきたのだ。厨房を覗くと、コーヒー豆を挽いているところだった。
これは彼の毎朝の日課らしい。邪魔してはいけないと思いつつも、早く挨拶をしたかった。
「伯爵。おかえりなさい」
私に気付いていなかったのか、ぴくりと肩を揺らし振り返る顔はどこか疲れているようだった。
「ただいま」
やはり気のせいだ。いつもの伯爵と変わらない。けれど、どこか違和感がある。何が違うのだろう。じっと観察していると、困ったような顔で笑う伯爵と目が合うがそれでも続ける。
「冷めないうちに食べなさい」
「はい」
昨日のことで、質問はたくさんある。けれど、どこか疲れた様子を拭えない彼に矢継ぎ早に質問するのは迷惑だろう。今はおとなしく朝食を食べることにした。
「そう言えば、昨日烏と夜更かししたみたいだね」
「伯爵の帰りを待とうと思って」
「待ってくれていたのは嬉しいが、眠らないといけないよ」
「はい」
これは昨日のことを聞くチャンスだと思い、口を開くが何を聞けばいいのか分からない。さっきまで覚えていたはずなのに、今ではぼんやりとしか思い出せなくなっていた。
こういうのは夢でよくある現象だ。起きてすぐはどんな夢を見ていたのか覚えているのに、着替え終わったころにはもうすっかり忘れているのだ。
昨日見たのは夢だったようだ。そういえば私が目を覚ました時、烏はまだ足元で眠っていた。