無題
足元は崩れ落ち、遠ざかる空に手を伸ばす。少しだけ惜しみながらも、翼が現れるのを待っていた。遠くに黒い翼が見えた時、風が吹きあがる。太陽に背を向けるその姿は大きくなる前に消えていた。
悪夢に目覚めた日には、すこぶる気分が悪い。奈落に落ちてゆくのは夢だけで十分だ。叩きつけられたかのように痛む背中は寝返り一つ打っていない。
「いたた……」
腰をさすりながら重たい体を起き上がらせる。確か今日は仕事が休みだったはず。それなのに太陽と同時に目覚めてしまう。今月のノルマは達成した。その安堵は長くはもたず、間髪入れずに訪れる来月の数字に怯える。無意味な激励は私を追い詰めていく。金を稼ぐための手段だと割り切ってはいるが、どうも心は分かってくれないよう。
感じる違和感に目を瞑り三年が過ぎた。積もり続けるプレッシャーから逃げも隠れも出来ない毎日は楽ではない。それでも進むのは、止まることを許されていないから。
人相手に仕事をすることは思うようにいかないことばかりだ。無視され、理不尽な要求をされ身に覚えのない怒りをぶつけられる。けれど、それは私だけではないはず。どんなに楽しそうな人でも何かしらの不満を抱えながら今日も働いていると自分を納得させた。
転職サイトを開くのはもうお手の物。寝転びながら眩しい年収から目を逸らした。変化を楽しめる人はそう多くはないだろう。未知の世界に飛び込むよりも現状維持の方がいくらかいい。きっと今いるここが間違いなく安全なのだと、根拠のない回答が頭を回る。
私はいったい何がしたくてここに居るのか分からなくなった。生きるためにはお金がいる。でも、このまま生きていることが正しいのか分からない。私一人いなくなっても世界はなにひとつ変わらない。昨日と同じ様に日は昇り月が満ちる。
目の前に広がっていた空虚な世界を消したいのだが、自ら作り出した景色は脳裏に根付いて離れない。どれほど経っても力が入らない体に鞭を打って起き上がる。今日やるべきことを思い浮かべようとしても、見えるのは悪夢だけだった。
ソファーに横たわりながら見上げる空は灰色で、激しい雨をこの地に降らせている。そんな中、一羽の鳥が横切るのが見えた。雨に打たれながらも飛んでいるその姿を、どうしても追いたくなった。
祖父から譲り受けた宝箱に躓くと、懐かしい鈴の音が聞こえた。がらくたと言われても否定は出来ない。使い道は無いのだが、大切なもの。処分なんて出来るはずがない。使えずとも思い出は確かに宿っているのだから。
洗濯物の山から探ったゆるいワンピースをかぶり、身支度を適当に済ませ外に出る。どうせ傘を差していれば、誰の目にも入らない。私がどんな格好をしていようと構う人などいないはずだ。
雨の日が一番好きだ。小さな傘は一人だけの世界。他の誰の侵入を許すことのないその中は、ずいぶんと居心地がいいと思った。
外の空気を胸いっぱいに吸ったのはいつが最後だったか。久しぶりすぎて、新鮮な空気にむせた。雨の匂いを吸い込むも、なんだか違う。私の好きだった匂いは、もっと湿っていた。
不意に聞こえた烏の鳴き声に振り返ると、少し離れたところに居た。威嚇するわけでも、馬鹿にするわけでもなくただ立っている。なにか私に訴えかけているのだろうか。一向に動かない様子に違和感が増していく。雨露に煌めく黒い羽根は吸い込まれるような色だった。
見惚れていると烏がすぐそばに来ていた。よくある光景だ。烏なんてそこら中にいる。私に敵対心を抱いていないようで、近づいても動こうとしない。
じっと見る目は何かを伝えたそう。なんて思ったが、そんなことは無いだろう。ただの勘違いだ。来た道を引き返そうと烏に背を向けると、私を呼ぶように一声鳴いた。
烏は羽があるというのに飛ぶことはせず、ぴょんぴょんと先導する姿はなんだか愛らしく見えてきた。この烏はいったいどこへ向かっているのだろう。
烏が進む先に目を向けると坂が見えた。そう言えば、あの坂を上れば小高い丘があったはず。その先には何もない。そこへ行ってから引き返すとしよう。時間は余るほある。
大した運動ではないはずなのに、必要最低限しか動くことのない体にとっては激しい運動と変わりない。坂を上るとなればなおさら。息を切らしながら上ってはみたが、大して綺麗な景色ではなかった。住宅やらお店やらが所狭しと敷き詰められている。灰色の世界は色を失ったように見えるのに、変わらず息をしていることに戸惑った。
「空を飛ぶのは辛い?」
話し相手もいないので隣にちょこんと立っている烏に話しかけてみた。返事など来るはずもないのだが、答えを待つ。空は広いと思うのは地を歩くことしか出来ない人間の考えなのだろうか。
羽の生えた生き物にとっては空もまた狭い場所に思えるのかもしれない。知りたいけれど、羽の生えた生き物は言葉を返してはくれない。想像するしかないのだろう。
それにしても、私はなんと狭い場所にうずくまっていたのだろうか。家があるであろう場所に目を向けると、ごま粒のように小さい。あんなところに居れば息も詰まるのも当然だ。それなのに人々はよくあんなところで生きていけるものだと思う。
ここではないどこかへ行きたい。私にも翼があれば遠くへ行けるのに。この足では行けるところなんて限られる。きっと、逃げられることなどこれから先も無いのだろう。知ってはいたが失望せざるを得ない。
この世界は何とも生きずらい。生きていれば何かしらの競争が生まれる。それは悪いことではないことは知っている。競争があるからこそ新しいものが生まれる。それが無ければ、皆が怠惰な生活を送るだろう。
だが、知っているから出来るというわけではない。そのことを理解できても私には出来なかったのだ。いわば敗北者というやつだ。誰かにそう言われても、否定するつもりは無い。ちゃんと自覚はしている。生存競争の土俵から落っこちた私に戻る道も進む道もない。
どうしようもない人だと言われるだろうが、私はほっとしている。昔から競争は嫌いだった。競い合うのはいいとして、その結果をいつまでもいつまでも引きずりそれがすべてになることが嫌なのだ。
何にでも順位はある。テストでも営業成績でも。上位になりたくて努力をする。それほど人の原動力になるものは無いのではないかと思う。しかし、私には一番になる理由が見つからなかった。同級生よりもいい点数を取った。同僚よりも早く出世した。そこに価値を見出すことが出来なかったのだ。
どうでもいいことばかり。興味の無いものばかりに溢れているこの世界は退屈で、忙しなかった。要らぬ情報ばかり入り込んで、本当に知りたいことは知ることが出来ないし欲しいものは手に入らない。
そう多くは望んでいないはずなのに、どうしてだろう。私は得たものを見返すと、途端に空しくなった。
欺き蹴落とすことで幸せを手に入れられるのなら、私は何もいらない。そこで手に入れたものはきっと私を満たしてはくれないだろうから。何も求めない。ただ、この苦しみから逃れる方法を教えて欲しい。冷たい空気に吐き出したため息は少しだけ体を軽くしてくれた気がした。
ふと横に目を向けるとがらくたが目に入った。いつからそこに在っただろう。誰にも知れれることなく朽ちていく運命なのだろうか。ならば最後は少しでもと傘を手向けた。
花柄の傘はすこしは鮮やかに彩ってくれるだろうか。きっと私もこのがらくたと似ている。まだ使えるのに新しく使い勝手のいいものが好まれる世界では役に立てない。
代わりならいくらでもあるというけれど、このがらくたたちもそうだったのだろうか。同じ柄、同じ色でもそこに思い出一つなかったのだろうか。他人が思いはせても分からない。それでも、そこに何か温かい感情が残っていると信じていたかった。そうでないと自分の存在も信じられなくなってしまう。
いい気分転換になったかは分からないが、少しは息をすることが楽になった。そろそろ帰ろうと、ぼやけた景色に背を向けると私の帰り道は無くなっていた。行き止まりではない。道は続いていたが、それは私が歩いてきた道ではないからおかしい。
振り返り戻ろうにも、これまた景色が無くなっている。前も後ろも見知らぬ木々に囲まれ、次第に顔を出し始めた太陽も見失った。暗闇に飲み込まれたというのに不思議と怖くないのは、私は一人ではなかったから。
目の前には私が追ってきた烏がいた。私の行く道を指し示すように、少し進んでこちらを振り返る。動かない私を催促するように鳴き空へ羽ばたくと、木々が道を作るように両脇にはけていった。
目的地も見えずどこに向かうのかさえ分からない道だが、進むほかないようだ。空ではあの烏が仲間と共に飛んでいた。
私をここまで連れてきたのだから、最後まで案内してもらいたいものなのだ。烏に言っても仕方がない。別に誘われたわけではない。勝手に付いて来ただけなのだから、烏に責任は無い。悪戯に巻き込まれた気分だ。実際遊ばれているのかもしれない。空ではこっちの気も知らずゆらりと飛んでいる姿が見えた。
とりあえず前であるだろう道を進むしかない。振り返ると道は木々に覆われている。恐らくあちらが後ろで、私は迷っていないと思うことにした。自分の足音だけが聞こえる空間は意外と悪くない。
草や砂を蹴る音が大きく聞こえる。時折吹く風は木々を揺らし背中を押すように流れていく。最初こそ心細かったものの次第に慣れてきたのか、いつもと同じ歩幅で歩けるようになっていた。
車の音も、知らない音楽も人の声も何一つ聞こえない。薄暗い中ではいつにもまして聴覚が敏感になっているはずなのに、耳障りな音を遮断する必要はないほどに静かだった。
気のせいかもしれないが、霧が深くなっているように思える。自分が歩いている方向が本当に前なのか、また不安になってきた。どれだけ歩いても景色は変わらず、まるで同じ場所をぐるぐると回っているよう。
思い切って木が生い茂る横道にそれてみようと思うも、なんだか睨みつけるようになびく木々を見て諦めた。
遠くで烏の鳴き声が聞こえてくる。少しばかり不安になるも、見知った生き物がいたことに少しほっとし勇気を貰った。彼らは絶えず、私の少し前を飛んでいる。ただの気まぐれに飛んでいるのだと思っていたが、私の進む道の少し先を飛んでいる。
いまだに道案内をしてくれているということなのだろうか。もしそうだとするなら、もう少し近くで案内して欲しいものだ。そんなこと言っても聞いてくれないだろう。彼らは飛ぶための翼があるのだ。こんな地面を歩く必要などない。
あんな風に飛ぶことが出来たならどんな気持ちだろうか。空には空の苦難があるのかもしれないが、息の詰まりそうなこの地から抜け出せた景色はきっとここよりはましだろう。手を伸ばすも遠く及ばぬと悟り、この手は居場所を失った。
この手はいつも何かをつかみ損ねている。私が気付くのが遅すぎるのだろう。気付いたとしても、ためらうから間に合わない。そんなことを繰り返すうちに、手を伸ばす意味を見失っていた。唯一掴むことが出来るのは、目に見えない空気だけ。
どれほど歩いたかもう分からない。ずっと歩き続けていたようにも思えるし、まだあまり時間が経っていないようにも思える。私はずっとこのままなのだろうかという不安がよぎったころ、少し先に道が開けたような場所が見えてきた。
ようやくたどり着くと思ったのもつかの間。私はいったいどこに向かっているのかまだ知らない。
おそらくこのまま進めばたどり着くのは間違いなさそうだ。いつの間にか辺りは霧が晴れていた。それでも明るくならない視界に、もう夜になっていたことを知らされる。遠くに見える建物は、明かり一つついていなかった。
立ち止まり、何も考えずに足を進めていた自分に問いたい。私はここがどこだと思い進んでいたのだろうかと。帰り道の無い道に烏の案内。私が生きる世界ではないことは間違いない。だとするならば、この先に繋がる場所はここではないところ。それがどこなのかはどうでもいい。息の詰まるような空気から抜け出せるのなら。
とはいえ知らぬ場所に行くのには勇気がいる。入学式の前日に押し寄せる緊張感といい勝負だ。今更考えたところで引き返す選択肢など最初からありはしないのだが、やはり未知との遭遇で考えこんでしまう。
悪い癖なのは分かっている。行動に移す前にその先を考えさらにその先を考える。そしてずっと先を考え続けた結果、この場に根が生えたように動けなくなるのだ。考えれば考えるほど悪い方へたどり着いてしまう。無鉄砲で行動するのも考え物だが、考えすぎて動けなくなるよりはましだろう。
もたもたしていると、雨が降り始めた。それはまるで私をあの場所へ誘い込むよう。何かの罠なのかもしれない。それとも烏のからのお誘いか。どちらにせよ私はその先に行く。そこから、誰かが私の名前を呼んでいるような気がしてしかたなかった。
私の目的地は恐らくこの屋敷だ。大きな屋敷は立派な造りだったのだろう。今では朽ち果ててしまっているのが残念だ。恐らく何年も人が住んでいないのではないだろうか。家は人が棲まなければ家は駄目になると聞く。人気が無い屋敷は不気味に思えて仕方がない。
出来ればもう少し他の建物を探したいところだが、この屋敷のほかには無いのだろう。そもそもこの雨の中では、歩く気力がそがれるのは間違いない。雨に濡れた靴は水たまりに沈んでいきそうだ。
雨の日は嫌いではないが、これ以上濡れては風邪をひくだろう。どうせ人はいないのだ。雨宿りをさせてもらおう。近づき見上げるその屋敷は、はたから見る以上に廃れている。文字通り廃墟。雨漏りは覚悟をした方がよさそうだ。屋根がありますようにと願いながら、とりあえず呼び鈴を鳴らした。
誰もいないだろうが、礼儀を欠いた真似をすることは出来ない。誰も見ていないからなんて出来やしなかった。どこまで生真面目なんだか、自分でも鬱陶しくなる。こんな性格だから生きることさえ、上手くこなせないのだ。だが、この時ほどそんな性格で良かったと心から思ったのは初めてだ。